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死と薔薇

作者: まと

 今日はだいたい命日だった。五月二十五日か、二十六日か、どちらでも良い。

 彼女が亡くなって約一年が過ぎようといることだけは、たしかだった。


 私は住宅街を歩き続け、家と家の間にある駐車場にたどり着いた。

 紙袋から薔薇の花束を取り出し、料金メーターの下に置いた。

 包装紙の中で、赤い薔薇たちは窮屈そうに悲鳴をあげているようだった。

 それを見て涙を流そうとして、自分を責めようとして、結局どちらもしないことにした。

 ほんとうに暑い日だ。あの日のように。私は立ち尽くし、地面をぼんやりと見て過ごした。


「ご遺族の方ですか」。背後から声をかけられた。私は振り返った。

 そこには浅黒くハンサムな顔をした男性が立っていた。二十代前半に見える。

 オーバーサイズのパーカーには、控えめにイブランドのロゴがのっていた。

 キャップから短く不揃いな髪がのぞき、夏に生まれた少年のようだった。「なんだ、君か」。

 私の顔を見て、彼は微笑んだ。きれいな笑顔だった。歯並びが見事だった。

「どなたですか」「ひどいな。教育実習で君のクラスに行ったんだけど」「覚えてないです」

「ま、良いや。それにしてもえらいね、お参りなんて。

 今時の中学生はもっと淡々としてると思ってたよ。でも」

 彼の眉が上がった。「平日の昼間に学校を抜け出すのは、どうかな」。

「テスト週間で、終わるのが早かっただけです」。私はできるだけクールな声で言った。

 大人と対等に話せるのだと示す為に。それがたとえ、中性的な好青年だとしても。

「何か新しいものが建つと、いつも前は何だったか思い出せないけど。ここは別です」。

「うん。ここにはかつて立派な家と、見事な庭と、それに相応しく見える人たちがいた」。

 彼はじっと手を見つめた。その手には何もなかった。「何しに来たんですか?」

「報告に来たんだ」。私は彼を見た。彼は私を見た。青い瞳は私を吸い込もうとしていた。

「犯人が捕まったよ」


 私は視線を彼の肩越しにうつし、道路を挟んだ先にある、何かを見ようとした。

 そこには小学校があった。くすんだ灰色をした、無機質な建物だ。

 私の足が踏んだ土地であり、私の心が踏みつけられた場所でもあった。

 どこかよそよそしく静まり返る小学校の、一年前の帰り道に、私は入っていった。


 他人の家に侵入して盗みをはたらこうと決意した時。私は小学六年生だった。

 五月というのに初夏のような陽気だった。太陽な無情にもランドセルを焼き続けていた。

 白い壁の大きな家の前を通り過ぎると、ちょうど玄関から女の人が出てきた。

 つばの広い女優帽とサングラスをかけ、ゆったりとしたワンピースを着ていた。

 彼女がとびきりの美人であることは確かだった。きれいな手をしていた。

 手にはリードが握られており、その先では茶色と黒のシェパードがつながれていた。

「どうだ。俺はこの辺りで一番の美女と散歩に出かけるんだぜ」。

 そんな声が聞こえてくるかのように、犬はしっぽをぶんぶん振っていた。

 その犬が嫌いだった。いつも家の前を通ると、すごい勢いで吠え立ててくるのだ。


 私は犬と女の人の背中を見送った。彼女の余韻が家の前に残っていた。

 ここにいれば少しでも艶のある女性になれるような気がして、ただ立っていた。

 一人と一匹が完全に見えなくなり、家を見上げた。二階建ての一軒家だ。

 百平米はくだらない。誰がどう見ても申し分のない豪邸で、うちの倍近くあった。

 庭は家に比べるとささやかだが、いつも色とりどりの花たちであふれていた。

 今日、庭の主役は薔薇だった。うっとうしい番犬は出かけたばかりだ。

 風が私の頬をなで、花たちを揺らした。悪魔が私に囁き、私は庭に入っていった。

 ランドセルからハサミを取り出し、薔薇をちょんちょんと切った。

 それは同級生と話を合わせるよりも容易かった。数本を手に、庭を抜け出した。

 閉園後の遊園地でジェットコースターに乗って、暗闇を駆けているような気がした。


 母が帰宅した時、私はリビングで戦利品を眺めていた。彼女はテーブルを見た。

 その上に置かれた、牛乳パックで作られたおぞましい花瓶を見た。その中にある薔薇も。

「学校でもらったの?」「そうだよ」。自分の耳にも嘘にしか聞こえなかった。

 数分後にはあらいざらい説明させられていた。「どっちが良い?」母は言った。

 気味が悪いくらい優しく。怒りと悲しみをいっぺんに通り過ぎた時に出す声だった。

「母さんと謝りに出かけるか、二度とどこにも出られなくなるか」。

 この不自由な選択の答えを得る前に、母は車の鍵を持って玄関へ向かっていた。


 花泥棒の被害があった家に到着すると、母は家の前に車を停めた。

「あ」。母はおろおろと慌てだした。助手席に置かれた手土産の数を確認していた。

「ここって夫婦よね。子どもはいないはず」。私は頷き、車を出た。ドアを乱暴に閉めた。

 母がよく見せる手際の悪さに対して、いらだちを隠すことが難しくなっていた。


 インターホンに呼ばれて出てきた女の人は、はっとするほど青い瞳をしていた。

 いぶかしげにこちらを睨んでおり、両目の下にはくまができていた。

「なに?」「うち子が、おたくの薔薇を勝手に切ってしまって。ごめんなさい」

 私を見て、彼女は目を見開いた。「あんた、あそこの小学校の子?」

 私が首を縦に振ると、母がすかさず割り込んできた。それは母の大好きな話題だった。

「娘も私もあの学校出です。ここは郊外の割に良い先生をあてがってくれるんですよ!

 教育熱心な親が集まるから。貴女もあそこの学校かしら」

「あたしはこんな田舎の出じゃない」。彼女は一蹴し、鼻で笑った。

「この子、お昼に草がぼうぼうの場所にひとりでいるんだよ。うちのから見えるの。

 だから聞いてみただけだよ」ひとつ訂正しておきたいんですが、と、

 私はどちらかといえば彼女の指先に向かって言った。

「校舎裏にいる時がある、じゃないです。いつもいます」「はは。タフぶってるよ」。

 彼女は唇を歪めて笑った。毒々しさの中に焼け付くような魅力を感じさせた。

「そんな欲しいならあげようか? 薔薇」。私たちを残し、玄関の奥に消えた。

 ドアがゆっくりと閉まると同時に、パチン、パチン、とハサミの音がしてきた。


 家に戻る車の中で、母は思いつく限りの汚い言葉で彼女をさんざん罵倒していた。

 私はそれを頭の上を通り過ぎるままにし、去り際に彼女が吐いた台詞を思い出していた。

「あたしは羨ましいけどね。好きなとこで好きにぼーっとできて。

 戻れるなら戻りたいよ」。それは私に向けらていた。うまい返事が見つからなかった。

 言葉は行き場を失くし、宙に漂っていた。「ねえ、聞いてる?」母は言った。

「うん。あんな広い家なのに車止めがないなんて、あの夫婦は車も運転できないって」

「はあ。もう二度とやらないでよ。こんなこと」「うん。絶対しない」「反省してる?」

「すごく反省してる」。その言葉を口にした途端、全く本心でないことが分かった。

 罪悪感からもうひとつ牛乳パックで花瓶を作り、薔薇をいけて、母の寝室に飾った。

 コップに波々と注がれた牛乳を飲み干す私を、母は珍しい虫を見る目で眺めていた。


 薔薇を盗んだ次の日。私は昼休みにひとりで校舎裏にいた。そこは雑草の楽園だった。

 草たちと休み時間の終了を告げるチャイムを待つことが、私にとっての昼休みだった。

 植物に興味があったわけではない。他にすることがなかったのだ。

 私は友達が欲しかった。好きな男の子や、嫌がらせをしてくる女の子が欲しかった。

 それについて相談できる先生が欲しかった。私はどれも持っていなかった。

 私にあるのは時間と、名もなき草たちが好き勝手に生えるこの場所だけだった。

 このことを親やクラスメイトか先生に気付かれたら、心の中の何かが砕けてしまう。

 だから足を運び、何をするわけでもなく、虚空を見つめて時間を潰していた。

 そこは私の知る限りでは、誰にも見つからない場所だった。つい昨日までは。


 私は道路を挟んだ先にある、白くて大きな家を見た。二階にはカーテンがかかっていた。

 母が見たら「だらしない」と顔をしかめるだろう。しかし娘を正当化する好材料でもある。

「あんな家の薔薇は盗まれて当然よ」と。大人がやりそうなことだ。

 庭は校舎裏からはよく見えないが、きっと薔薇が咲いている。問題は犬がいるか、どうか。

『犬は人の百万倍から一億倍も鼻がきく』という。私に襲いかかってくるに違いない。

「もし今日の帰りに、また犬が散歩に出ていたら」私は決心した。「また盗みに行こう」。

 結果として犯行に及ばなかった。犬が原因ではない。盗もうと思えばいくらでも盗めた。

 庭に侵入したら、女の人が死んでいたのだ。


 彼女は白い四肢を投げ出し、うつ伏せで横たわっていた。

 赤いワンピースが太陽の光を浴びて、血のようにぎらぎらと輝いていた。

 広い窓から家の中を見ると、犬がすやすやと寝ていた。口が時おりひくついていた。

 食べ物の夢でも見ているのだろう。飼い主が殺されたことなんて夢にも思わずに。

 私はゆっくりと家をあとにした。気がつくと走り出していた。

 自分でも信じられないくらいの速さで、通学路を疾走していた。

 広い世界なのに、私の周りだけ急速に物事が動いているように思えた。


 薔薇を盗んだ二日後。土曜のけだるい午後に、クラスの全体LINEに連絡がきた。

 リビングのソファに寝転んだままスマホを開くと、それはネット記事だった。

「地方都市の豪邸。美人女優、死す」という見出しには、こう書かれていた。

「被害者は女優の香月玲奈。ハーフタレントとしての麗しい見た目だけでなく、演技力は子役時代から高く評価されていた。CMやドラマに多数出演するも、突如引退を宣言。犯人は一般人である夫。普段から暴力を受けていたことが彼女のブログでほのめかされていた。現在逃亡中で、警察は行方を追っている。」。私は薔薇の存在を思い出した。

 すっかり忘れていた。家の薔薇は、すべて枯れていた。水を入れ忘れていたのだ。


 薔薇を盗んだ一年後。私は枯れていない薔薇を抱えていた。

「犯人が捕まったよ」と、さわやかに告げる青年を前にして。そうですか、と私は言った。

「おまわりさんも先生も、聞いても何も教えてくれなくて」

「彼らが何も教えないのは、そうすれば隠せるからだよ。自分も何も知らないって」。

 彼は笑った。澄んだ水のように清らかに。後ろめたさを隠すにはぴったりの笑い方だった。


「名古屋駅に、犬をはりつかせたんだ」と彼は言った。

「あのシェパード? 旦那さん、警戒して寄ってこないんじゃないですか」

「そう。だから犬も変装させた。大柄のゴールデンレトリバーになってもらったんだ。

 そういう被り物が、世の中にあるんだ。準備には五分もかからなかったんじゃないかな。

 『盲導犬に愛の手を』って募金箱を持った学生と、毎日駅を歩いてもらったよ。

 半月くらい経ったかな。突然、ある男に飛びついたんだ。しっぽを嬉しそうに振ってね。

 そいつ、顔は整形してた。でも指紋を取ったら犯人と一致したったわけさ」。

 私は彼女の指先をぼんやりと見つめていた。そして顔を見た。

 こんなに美しい指と青い瞳を持つ人間に、かつて私は一人だけ出会ったことがあった。


「で、その薔薇をどうするんだい?」

「家に持ち帰ります。ここに置くと枯れちゃうだろうし」。

 彼のからかうような目は、涼しげに揺れていた。私の罪なんて、お見通しだというように。

 私は地面に置かれた薔薇を拾い、胸に抱いた。「この薔薇。欲しいですか?」。

「良いのかい? 小六の君が、法を犯してまで欲しかったものだったのに」

「今は欲しくないです。薔薇なんてもうこりごりです。水やらないと枯れちゃうし」。

 沈黙が訪れた。変装した犬、薔薇の花束、五月の太陽、ハンサムだが奇妙な青年。

 すべてが私の手に負えなくなってきていた。そろそろ終えなくてはならない。

 私は言った。「あなた、幽霊ですか?」


「まさか」。彼、もとい、彼女は口角を上げた。

 帽子を取り、ベリーショートの髪をかきあげた。赤毛が太陽の光を浴びて輝いていた。

「ネットでは死んだ、って見ましたよ。クラスLINEでもまわってきました」

「僕……もう良いか。あたしが死にかけてた時はたくさん記事出てたもんね。

 奇跡的に生き返ったんだけど、事務所には黙っててもらったの。SNSにもあげてないし」。

 もう青年ではない。強気で、どこか危うい印象を受ける、あの女性に戻っていた。

 私は息を呑んだ。本物の演技力を見せつけられ、彼女が女優であったことを思い出した。


「どうして男の人に変装してたんですか?」と、私は裏切られ、すねている口調で尋ねた。

「あのまま来たら面倒じゃん。この小さい町だと目立つしね。

 せっかく世間から忘れられたし、誰の目も気にせず生きようと思ってさ」。

 彼女は少しためい、恥じらいを見せ、そして私をまっすぐに見て言った。

「あんたが草ぼうぼうの場所で、何するでもなく時間つぶしてたみたいにね」。

 私はシャーマン・アレクシーの小説『インディアン・キラー』の一節を思い出した。

「二人は互いに鏡に映った自分の姿のようだった。お互いが自分に欠けているものを持っている。

 そして二人とも必死になってその欠けた部分を手に入れようとしていた」


 このことを彼女に話すと、馬鹿にされると思いきや、意外にも目を輝かせた。

「あんた、すごいの読んでるね。中一のくせに」

「クラスには、こういうことを話せる子がいないんです。気取ってるように思われる。

 アイドルとか好きな男の子とか、そういうのばっかり。そうなるべきなんでしょうけど」。

「ねえ。もっと大きい街に行きなよ。せまい庭で盗みはたらくんじゃなくてさ。

 きっと自分らしく過ごせる場所が見つかるって」。

 あたしは大都市に疲れてここに来たけどね、と彼女はつぶやいた。

 その言葉は地面に落ち、アスファルトに溶けていった。


 私は顔を上げ、少し先にある、小学校を見た。校舎裏には依然として雑草が生えている。

 ただ一年前と異なり、名もなき草たちの中に赤い花が加わっていた。「あれ。薔薇ですか?」

「あたしがこっそり植えたんだ。あんたみたいなボンクラが見つけて喜びそうじゃない」

 校舎裏の薔薇たちは、庭で見た時よりも自由気ままに好きなところへのびていた。

 たっぷり寝て起きたあとのようにみずみずしい様子が、ありありと見て取れた。

 誰にも邪魔されず、太陽の光をほしいままに浴びていた。私は彼女の顔をまっすぐ見た。


「あの時は盗んでごめんなさい」。彼女は目を見開き、そして細めた。

「気にする性格じゃないと思ってたけど。成長したね。会えて良かった」。

 ふと、腕に触れられた感覚があった。彼女が笑いながら、手錠を真似て腕をつかんでいた。

―――私はようやく、あの五月の日に捕まった。



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