できること
リイシェンの顔が、ひどく歪んだ気がした。
もちろん、ライラたちに対してではない。
診療所の隣の建屋内に並べた、大釜に対してである。
「……すごい臭いですね」
口元を布で覆うリイシェンが、目を細めた。
リイシェンが見ている大釜は、煮湯で満たされていた。
煮湯の中には、汚れた布が泳いでいた。
それらの布はすべて、患者たちのために使用したものだった。
並べられた大釜のうち、ひどい臭いを発している釜があった。
汚れた布を最初に投入する釜だ。
そこである程度汚れを落とした布は、次の大釜に投じられる。
最後の大釜は比較的臭いが少なかった。
浄化の魔法道具の効果もあってのことらしい。
「殺菌消毒のためですから」
ライラは、汚れた布を最初に投じる大釜を指差して言った。
リイシェンが再び目を細めた。
「さ……さっき、ん、しょうど……??」
「え、ええっと……つまり、清潔にするための一環です」
「こ、この臭いは、穢れは、問題ないのですか??」
「この臭いは穢れとは別ですよ。今は少し、換気のための設備が動いていなくて。じきに動きだしますよ。待ってみますか?」
「い、いいえ……普段問題ないのなら、構いません。外へ出ましょうか」
リイシェンが、口元へ寄せた布をさらに強く押さえて言った。
どうやら、もう限界らしい。
ライラは「作戦成功だ」と内心思った。
わざと臭いの強い大釜から案内したからである。
これでもう、あっちこっちを見て回りたいなどと言いだしたりしないだろう。
建屋の外へ出て、一息付いたあと。
リイシェンが顔をしかめながら建屋へふり返った。
「……外には、あのひどい臭いが広がっていないのですね」
「もちろん、臭いが漏れないようにしています。換気の排気側には、臭いを取るよう工夫しているのです」
「臭いを? 取れるのですか?」
「ウォーレンでも同じ目的で使われている、炭です」
そう言ったライラは、建屋の屋上を指差した。
屋上には煙突のような筒が幾つか設置されていた。
筒の中には、大量の炭を詰め込んでいた。
炭には脱臭作用がある。
ウォーレンでもその作用は知られていて、部屋の隅に置かれていたりしていた。
ライラは、その脱臭作用を建屋で使えないかと考えた。
その結果が、あの換気筒だった。
炭を詰めた筒に空気が通っていくよう、風の魔法道具も取り付けた。
その風のおかげで、建屋内の臭気は換気筒を通って排出されていく。
あとは建屋に別の吸気口を作っておけば、新鮮な空気が勝手に建屋へ入ってくる。
「すごい仕組みですね……ランファ様が考えたのですか?」
リイシェンが目を丸くして言った。
ライラは「まさか」と首を横に振った。
「以前に聞いたことがあって。真似をしただけですよ」
「そうなのですね。ですがそれでも、実際にこうして形にできるなんて、すごいことです」
リイシェンが尊敬するようなまなざしで言った。
ライラはまんざらでもなかったが、もう一度首を横に振っておいた。
炭の知識は、借り物の知識なのだ。
ここで得意気になると、あとで痛い目を見るかもしれない。
気を取り直し、ライラはリイシェンを診療所へ案内した。
とはいえ、正確には診療所内ではない。
硝子一枚挟んだ、隣の建屋である。
そこはガンカや事務職員が詰める管理事務所でもあった。
「ここから所内の様子を少し見ることができます、リイシェン様」
ライラは硝子越しに見える診療所内を指した。
リイシェンが硝子に張り付くようにして、診療所内へ目を向けた。
「病が移るかもしれませんから、ここまでで」
「ご配慮ありがとうございます、ランファ様。……ここからはよく見えませんが、治療はどのようにしているのですか?」
「浄化の魔法道具が置かれた部屋で、身体を温め、水分を摂ってもらっています」
「水を……? 特別な水なのでしょうか?」
「特別……と言えるかは分かりません。本当なら飲むのではなく、別の方法が良いはずで。……ですが、私にはその知識がないのです」
「というと、代案を用いているということですか」
「そういうことです。……ですから、これで必ず治るという保証もないので、今の治療方法をお教えすることはできません」
「……なるほど、そうですね。ですが、なにか進展があればご教示願いたいです」
「もちろんそのつもりです」
ライラは頷き、リイシェンに深く頭を下げた。
それからライラは、教えても問題の無さそうな、無難な老人病対策をリイシェンに伝えていった。
まずひとつは、清潔を保つこと。
これは簡単そうであるが、ファロウの人々には難しいことだった。
ゴミも下水も、路地裏に放り捨てる風習があるからだ。
風習を止めさせるのは、さすがのライラにも出来ないことだった。
「ゴミや下水については、ソウカン様の力添えが必要です。下水溝の改築に携わる働き手は、私のほうで集められるのですが」
「それは私からもお願いしてみましょう。宜しければ後日、屋敷へ来ていただけますか?」
「もちろんです」
ライラは快諾してみせた。
老人病対策のほとんどは、どうしてもソウカンの、貴族の力が必要なのだ。
貴族とお近づきになりたいわけではないが、今は我慢し、その手を掴むしかない。
ライラの思いを察してか。
リイシェンがとんと、ライラの小さな手に触れた。
励ますような触れ方だと、ライラは思った。
優しい姉のような存在に、ライラの緊張がほんの少し和らいだ。
次にライラは、浄化の魔法道具を取り出してみせた。
ライラはこの浄化の魔法道具を大量に仕入れる必要があると、リイシェンに訴えた。
浄化の魔法の効果は、すでにファロウで知られるものとなっていた。
しかし、数が圧倒的に足りていなかった。
魔法道具は回数制限もあるため、常に仕入れつづける必要もあった。
「魔法道具を仕入れるために、貴族の方が利用する商用口をお借りしたいのです」
ライラは浄化の魔法道具を指でつつきながら言った。
問題なく、リイシェンが協力してくれると信じていた。
しかしすぐ、リイシェンの表情が思いのほか暗くなった。
「難しいかもしれません」
「それは……どうしてですか」
「貴族には、特権というものがあります。その場限りではなく、後に不利益となる可能性があるものは、特権の侵害になるのです」
リイシェンが深く頭を下げた。
特権というのは、目的地へ付くための近道のようなものだと、リイシェンが言った。
近道を多くの者が知れば、それはただの道になってしまう。
それを貴族は、絶対に許さない。
なるほどと、ライラは頷いた。
庶民は庶民らしく、貴族に大金を払えというわけだ。
ならばそうしてやる。
ライラは申し訳なさそうにしているリイシェンに微笑み、「分かりました」と短く答えるのだった。