感情移入の功罪
《稀代の悪女ステファニー》
固い床の感触。
全身を苛む痛み。
目を開けようとしても、上手く瞼が持ち上がらない。顔全体が痛く、熱を持って腫れ上がっているようだ。容赦なく、何度もぶたれたせいで。
「馬鹿な子だねぇ」
気が遠のきかけていたアガサだが、なんとか目をこじ開ける。普段の半分も開かない目でぼんやりと見上げると、乏しいランプの灯りの中で、樽に座って足を組んだステファニーが笑顔で見下ろしていた。
人気のない納屋に連れ込まれて、意識を失うまで殴る蹴るの暴行を受けたのだった。
「……悪魔……」
打たれた頬が腫れているせいで、しゃべりにくい。口の中にはじんわりと血の味。それでも自分をこんな目に合わせた女を睨みつければ、ステファニーは勝ち誇ったような笑みで哄笑を響かせた。
「なんとでも言えば良いのよ。薄汚いガキの言う事と、聖女サマ~な私の涙、ひとが信じるのはどっちかなんてわかりきっているでしょう?」
「こんな……ことをして……。おかしいと、誰かが気づく……」
猛烈な吐き気。視界がぐらつく。
重い瞼を閉ざせば、涙の滲んだ目が熱をもってひりりと痛んだ。
「誰が気づくって言うの? 言っておくけど、あんたを守ってくれる味方も仲間もどこにもいないわよ。これがそうね、あんたみたいな子どもが大好きな物語だったら、どこぞの名家のご落胤だったとか、母親が駆け落ちで家出したお嬢様で祖父母に行方を捜されていたとか、人生一発大逆転の幸運が舞い込んでくるのかもしれないけれど……。現実にはそんなこと起きないの。貧乏人は生まれたときから死ぬまで貧乏人、幸せはお偉い方々がぜーんぶ自分たちだけのものにしてしまって、おこぼれの一つもない。『お金はお金が好き』だから、金持ちのところにお金はどんどん集まるけれど、持たざる者のもとには近寄ってすら来ない。カビの生えたパン、薄いスープ、泥水をすすって生きるだけ」
絶望的な状況を並べ立て、ステファニーはアガサの腹に靴先をめりこませるようにして蹴り上げた。
げふ、と咳き込めば口から血反吐がこぼれる。
(救いというものがこの世にはない……)
あら、とステファニーは場違いなまでに明るい声を上げた。「いけない、いけない」と言いながら足を引っ込めて、歌うような陽気さで告げる。
「この子はこれでも商品になるんだった。あんたみたいな子どもをいたぶって犯すのが大好き~な男もいるのよ、世の中には。時々孤児から融通してやっているんだけど、すぐ殺しちゃうみたいで。また誰かいないかって聞かれたものだから……」
床に押し付けた耳が、どこか遠くから近づいてくる重い足音を拾う。ずるり、べたん、とまるで地獄の底から這い上がってきたかのような。
ステファニーの親切な説明から、自分がこれからどんな目に合うか悟ったアガサは「うっ」と小さく嗚咽をもらした。
惨めだった。悲しかった。
それでも、ステファニーの言う事がこのときばかりは正しいのだと、知っていた。
助けてくれる味方も仲間もいない。
一発逆転の大勝利など人生には起こり得ない。
毎日ひもじい思いをしながら懸命に働き詰めだったアガサは、聖女面した女の気まぐれで痛めつけられた挙げ句、子どもを犯して殺すおぞましい相手に売り渡されるのだ。その額はきっと、命の値段として考えればありえないほどに安いのだろう。
降りかかる運命を前に、願わずにはいられなかった。
(本当に、こんなことがあっていいの……? 悪がのさばり、断罪もされず、弱い者に救いはない。神様は何を見ているの……?)
誰か。
わたしをたすけて。
誰か……
◆ ■ ◆
馬車で公爵家管轄の郊外の屋敷に向かう途中、コーデリアは猛烈な勢いで現在取り掛かっている小説の先の展開を書き続けていた。
それを、書いたそばからシャーロット、セドリック、ロズモンドに回覧する。なにしろ、話すよりも速い勢いで書くので、全員さほど口を挟むこともなくおとなしく読んでいたが、一段落ついたところでついにロズモンドが口火を切った。
「無い。この展開は、あまりにも救いがなくて惨い。どうしてここまで悲惨な話を書く?」
途端、コーデリアがキッと目を吊り上げて、正面に座ったロズモンドに食って掛かる。
「だって兄様、いままさに、バートは暴力と凌辱の憂き目にあい、藁にもすがる思いで助けが現れるのを待っている……、かもしれないじゃないですか!! こんなときは、書かずにはいられないんですよ!!」
「コーデリア嬢、いま自分でも一瞬悩んだでしょ。『彼、そこまで扱い悪くないかも?』って内心思っているよね」
すかさず、コーデリアの横に座ったシャーロットが平淡な調子で口を挟む。その表情にほんのりと呆れが漂っていることに、コーデリアは鋭く気づいた。しかし、ここで認めたらバートは「そこまで扱いが悪くないから」という理由で、捨て置かれてしまうかもしれない。それではいけないのだ。
コーデリアは芝居がかった大仰な身振りとともに、両手を開いて上に差し伸べ、馬車の天井越しに天空を見据えるように顔を上向けると、強く訴えかけた。
「聞こえませんか、シャーロット殿下。バートの悲愁に彩られた声が……! 囚われの監獄から息も絶え絶えに『……誰か……』と救いを求めて血反吐とともに紡がれる祈りの詩句が!!」
んん~……? 聞こえないかな~? とシャーロットは控えめに言ったが、コーデリアは拳を握りしめてさらにまくしたてた。
「もし殿下がご自身の意思を無視されて囚われの身になったとき、『意外と幸せにやってるかもしれないし?』って誰も助けに来てくれなかったらどうしますか?」
「助けて益があると判断されたら助けてもらえるかもしれないけど、助けない方が国益になると判断されたらおそらく助けてもらえない。それを私は受け入れるだろう。王族なんてそんなものかなって」
軽い口ぶりながら、答えたシャーロットの瞳は真剣そのもので、そこに嘘や強がりの気配はない。想定しているのは「隣国の」「セドリックに」「監禁されること」だろうか。それが国益ならば誰も助けてくれないし、自分は受け入れるしかないのだと。
拳に力を込めたまま、コーデリアはゆっくり肩を落としてとうなだれ、意気消沈した。
(バートから得られた情報が曖昧だったのは、事実だけど……)
離れた相手と魔道具で連絡を取ると消耗が激しい。今は連続使用を避け、「囚われている可能性があるとすればここ」とセドリックがあたりをつけた屋敷に向かっている。その道すがら、コーデリアはバートの窮状を伝えるためにペンを手にしたのであるが、うまく伝わらない。
いいだけ落ち込んだコーデリアを見かねたように、ロズモンドが口を挟んできた。
「バートの言い分がすべてとは言い切れないとして……。バートの伝えてきた状況にはいくつか疑問がある。誰かに脅されていて、ああいう表現でしか伝えられなかったとも十分考えられる。少し苦しいが。だから本人に余裕がありそうだからといって、即座に見捨てるというのは早計だとは思う」
珍しく、口ごもるような冴えない物言いだった。
さては第一報を耳にして「帰るか?」と言ったことを、今更悔いているに違いない。コーデリアはそう指摘しようとしたが、ロズモンドが気にしているのはもっと別のことのようだった。
先程から、手のひらで顔を覆っているセドリックの存在。並んで座ったロズモンドが、物言いたげに視線を流す。
手のひらの下で、セドリックは大きなため息をついた。
嗚咽している。
「アガサ……。守られるべき子どもの身でありながら、なんてひどい目にあっているんだ……! 俺は絶対にこのステファニーという聖女面した女を許さん、許さんぞ……! なぜ周りの者はこの女の本性に気づかないんだ! 無能か!? 無能すぎるだろう……!」
「殿下、創作です。妹の作り話です。感情移入はそこまでです」
震え声で切々と語るセドリックに対し、ロズモンドが実にそっけなく横槍を入れる。できることならば「物語の世界から、こっち側に帰ってきてください」と言わんばかりに。
しかしセドリックは目を潤ませ、目の縁まで赤くしてロズモンドの両肩に両手を置いた。
「そんなことで良いのか君は! 読者である我々が諦めてしまったら、誰がアガサを救うというんだ。信じる気持ちというものが君には無いのか!? 心の無い男だな」
「流れで罵倒されましたけど、聞かなかったことにします。国際問題にはしたくありません。その上で申し上げますが、読者が無事を信じるか信じないかというよりこれは作者が……つまり、トーマス・ノーマンであるところの我が妹、コーデリアの胸先三寸……なのでは? だよな?」
とんでもないところで水を向けられた、とコーデリアは顔をしかめた。
セドリックはその場で立ち上がり、馬車の天井に頭をぶつけながらコーデリアの元へと近づいてくる。
「アガサは救われるんだよな? そしてこの鬼畜外道なステファニーには大いなる罰があるんだろう?」
「えっ、いや、まぁその、あんまり簡単に救っちゃうとご都合主義って批判が……。ステファニーを罰するにしても慎重を期する必要がありますというか、まさか天から槍が降ってきて串刺しになりましたってわけにもいきませんので」
「天から槍。名案だ!! よし、ステファニーは思いっきり残忍な方法で始末しよう」
(それはさすがに……どんな前フリがあれば天から槍なんて許されるわけ……?)
真面目に検討しかけて、コーデリアはそんな場合ではない、と我に返る。
「物語の中のアガサは直接救うことはできませんが、いま現実で(たぶん)同じような状況に陥っているバートを救うことはできるんです! そのためには殿下のお力が必要なのです!!」
「公爵家の陰謀に巻き込まれた四男を助ければ、アガサは助かるのか?」
「助かりますとも!! 私が全力で助けますので!!」
「わかった」
深く納得した様子でうなずくと、セドリックはしずしずと自分の座席へと戻って行った。
ちらっと横目で見たロズモンドは「現実と創作の区別はつけた方が。為政者には必要なスキルですよ」と呟いたが、コーデリアはそのロズモンドの足をつま先で蹴飛ばす。
口の動きだけで「黙って、兄様。使えるものは使うんです」と伝えると、ロズモンドは瞑目した。
こうして王家の協力は確たるものとなり、一行はさらに馬車を急がせるのであった。




