灰色の魔女
アッシュヴィト・カーディナルシンズ・リーズベルト。告げられた名前に目をむいた。
名乗る際には名と姓の間に所属するコミュニティや身分を挟むのが正式な作法だ。カンナならば、故郷であるアロギ村の名を冠してカンナ・アロギ・フォールンエンデか、もしくはヴァイス高等魔法院の生徒であることを示すためにヴァイスの名を挟んでカンナ・ヴァイス・フォールンエンデだ。他に強調したいコミュニティや身分があるのならばそれを使っていい。大切なのは『どこ』の誰であるかだ。
そしてヴィトが名乗ったのはカーディナルシンの単語。大罪を意味するそれは、つまり彼女が『何』であるかをはっきり示している。
この世界で大罪を冠するなんて"灰色の魔女"ひとりしかいない。だからヴィトは名前を名乗らなかったのだ。中間を省略して名と姓だけにすれば所属がなくて不審がられる。なのでフルネームではなく愛称で自己紹介をしたというわけだ。
「驚かせちゃったヨネ、ゴメンネ」
まるっきり騙し討ちだ。略せば不審がられ、正式に名乗れば勘付かれる。ヴィトとしても苦渋の決断で苦肉の策を弄した。
"灰色の魔女"というフィルターを通さずに、ヴィトという個人を見てほしかった。それ故だ。
「そういうことなら……」
「怒らナイの?」
「いえ、事情はわかりましたし」
成程。そういうことなら仕方ないだろう。
そもそもカンナ自身、"灰色の魔女"へ特別な感情があるわけではない。親や学校からの教育でそういう人物がいて、それは大罪人だと教えられてはいるが、だからといって見かけ次第石を投げるような憎悪は抱いていない。
むしろ教えられた言い伝えとはぜんぜん違う人柄であることに驚いているくらいだ。世界の大罪人が少し変な片言でこんなに人懐っこい笑顔を浮かべているなんて。
「で、その魔女に惚れてんのがコイツねぇ……」
はん、と呆れたような鼻で笑うような口調でベルダーコーデックスがナツメを見やる。ヴィトのことを風変わりな女だと思っていたが、そんなヴィトを好くナツメも大概だ。
見た目には剛毅な快男児と朗らかな少女、しかし中身は魔女殺しと世界の大罪人。愛し愛され、殺し殺されの関係だ。
「はは、よく言われる」
そして大して気にしてもいない。この愛と殺意は純粋なので。
からりと笑い、ベルダーコーデックスの皮肉を受け流したナツメは、それで、と話題を変える。
「そういうわけで俺は帰ってきたわけだ。愛しい女を殺すために。……なぁヴィト、今日こそ俺の愛を受けてくれるか?」
「イイヨ」
砂糖を煮詰めたような甘い愛と研ぎ澄まされた殺意を混ぜて打ち上げたナツメの言葉にあっさりとヴィトは頷く。
殺すのが愛だと言うのなら、その愛を受け取ろう。届けばだが。
「よし、ちょっと離れててくれ。巻き込まれたら危ないからな」
「え? え?」
どうしてそういう流れに。理屈にも感情にもまったくついていけない。混乱するカンナに、いいから、とベルダーコーデックスが促す。世界最強のルッカと世界の大罪人のぶつかり合いだ。本気で全力を出し合う激突を演じはしないはずだしせいぜい実力試しの手合わせだろうが、それでも余波は計り知れない。
促されるままに数歩引いて距離を取るカンナを見、ヴィトはナツメと見合って頷き合う。あっちの方向に余波のひとつも向けてはいけない。無言で取り決めを交わし、そして。
「え?」
次の瞬間、ナツメが地に伏せていた。うつ伏せで倒れるナツメの背中に馬乗りになったヴィトが彼の後頭部を掴んでいる。
無言の取り決めから一瞬。瞬く間に決着が着いた。何が起きたかなんてカンナにはまったくわからなかった。
戸惑うカンナに微笑みを返し、よし、とヴィトがナツメの上から退く。決着はもう着いた。これが本気のぶつかり合いだったなら、後頭部を掴んで粉砕してもうナツメは死んでいる。
「は……はは! さすが俺の魔女だ!」
感心、それからその力に賞賛を。笑ってしまうほど勝負にならない。何が世界最強のルッカだ。"灰色の魔女"に手も足も出ない。
無言の取り決め、それから互いが戦闘態勢に入った瞬間にもう勝負は決まっていた。武具を発動させる暇もない。呼吸よりも早く背後に回り込んだヴィトに足払いをかけられ、無様に転がったところを制圧されたと理解したのは、何が起きたかわからなかったカンナの呆けた声を聞いてからだった。
「ふははっ、は、はぁ……ふぅ…………あぁ本当に最高だ! 簡単に殺せなくて安心した!」
「キミは相変わらずだネェ……そういうトコ、キライじゃナイケド」
敗北を悔しがらない。それどころか勝者を称え、目標の高さにやる気を出す。
ナツメのそういうところは好ましい。好意も殺意も一緒になって区別がつかない真っ直ぐな感情はいっそ心地良い。
「ところで、時間ダイジョウブ? そろそろ授業じゃナイ?」
「あっ」
やばい。忘れていた。そろそろ授業の時間だ。教師であるイノーニは遅刻を許さないだろう。
ここから走って間に合うだろうか。間に合わなくても走らなくては。どうせ遅刻だからと悠々と歩いていては余計に許されない。
「おっと。悪い悪い、俺の用事でとんでもなく時間を食わせてしまったな」
これはお詫びだ。そして付き合ってくれたお礼に。
転移魔法で教室の前まで転送してやろう。ほら、とナツメが手を払う。その手には長方形の銀色のプレートがあった。
「――"歩み始める者"起動、"放浪者の騎行"!」
そんな送り届け方ってどうなんだ。