夏来たる
「はぁ……」
温室の一角で、ふぅ、と息を吐く。ここの管理をしているリグラヴェーダは不在だ。授業の時間なのだろう。
ここの温室はとても落ち着く。人の喧騒から離れているからだ。校舎から中庭を挟んで対面という配置のおかげだ。花や植物を鑑賞するための温室ではなく、研究のための温室というのもある。きれいな花はあまりなく、ただ緑の鬱蒼とした鉢ばかりが無機質に並ぶ。そんなところに人は寄り付かない。結果として、静かな空間ができあがっている。
青々とした植物たちは心なしか元気がない。世話する人間が減ったからだろう。
この温室の世話はアルヴィナが担当していたのだ。彼女亡き後はリグラヴェーダが引き受けている。
「……アルヴィナ先輩……」
まだ昨日の今日のように思い出せる。交流していた時間は短い。だけど大切な先輩であり、頼りになる先輩であった。
カンナの目にふと涙が浮かぶ。こういう時、泣き虫めと揶揄するだろうベルダーコーデックスは珍しく何も言わなかった。死者を偲ぶ時間に無粋な揶揄は不要だというくらい本だってわきまえている。
「……ん?」
静かな空気に満ちた温室に誰かやってくる気配がある。静まり返った空間に足音がやけに響く。自信満々、傲岸不遜な雰囲気の足音がこちらに近づいてきている。カンナ・フォールンエンデはいるかという呼びかけの声を聞いて、足音の主が自分を探していることに気がついた。
「あ、はぁい!!」
カンナは私です。足音の方向へ大声を返す。声に気付いた足音がこちらに真っ直ぐ歩いてくる気配がした。やがて、鉢植えの棚の通路の向こうからひょこりと顔が現れた。
特に特徴もなく自然のまま最低限整えただけの黒髪の下、不遜なほど自信に満ちた黒い目。この容姿に見覚えがあった。ついさっき、堂々と凱旋のように正門を歩いていた人物ではないか。
ナツメの目がカンナの姿を認める。目的の人物を見つけた彼はぱっと破顔した。
「やぁ。君がカンナ・フォールンエンデ? 俺はナツメ。ナツメ・ホロロギウムだ。ちょっといいかな?」
「はぁ…………」
ルッカと呼び称される彼がいったい何の用だろう。ナツメが自分を探すような用事など思いつかない。困惑しつつもとりあえず頷く。このあと2時間後にある授業までは暇だ。それまでの間なら、と言うと、ナツメはほっとしたように息を吐いた。
「よかった。じゃぁちょっと付き合ってもらえるかな?」
「へ?」
「――"歩み始める者"起動、"放浪者の騎行"!」
「ひゃわぁ!?」
***
思わず反射的に閉じてしまった目を開けると、そこは森だった。森の向こうに遠く校舎が見える。方角的には高等魔法院の敷地の北西あたりだろうか。
「すまない。驚かせたかな」
転移魔法だ、とナツメが説明する。なにせルッカだ。嫌でも人目を引いてしまう。ルッカの後を追って静かな温室に無粋に立ち入る人間がいるかもしれない。なので転移魔法で場所を移した。
おそらく予想がついているだろうが、ここは闇の塔に近い森の中だ。少し拓けた場所は散策中の休憩場所にぴったりだ。
「ここはマイフェアレディとの逢い引き場所でな。なぁに、怖いところじゃないさ」
闇の塔なんておどろおどろしい名前の建物があるが、別に近付いたところで呪われるわけでもなし。それよりも。
「急に連れ出して申し訳ない」
ルッカと呼び称される自分が訪ねたこと、そしてこんな場所に転移魔法で連れ出したこと。色々な意味で驚かせてしまっただろう。何より強引だった。
すまない、と頭を下げて謝るナツメに、いえ、とカンナが慌てて首を振る。
「大丈夫です! むしろあの、こっちが感謝したいくらいで……!」
謝罪を受け取るどころかこちらがナツメに感謝したい。彼の帰還のおかげで校内の話題はナツメ一色になったのだ。その結果、ハルヴァートの事件を噂する声はぴたりと止まった。噂にあげられるあの居心地の悪さはすっかり消えてしまったのだ。
「ありがとうございました」
「え? あぁ……そんなところで人助けをしていたのか俺は」
思わぬところで知らぬうちに人助けをしていたらしい。
帰還ひとつで感謝されるだなんて驚きだ。助けようと思って助けて感謝されることは多々あれど、こんな風になるなんて。
まぁそれでひとりの女生徒が注目される居心地の悪さから解放されたのなら何より。どういたしましてと謝意を受け取っておこう。
さて。前置きはこれくらいにして本題といこう。
「俺の魔女は無事だろうな?」
「え?」