世界の輪郭をなぞる
さて、魔法使いの弟子となった僕は早速修行の日々が始まった――などということはなく、いつも通りの日常が過ぎていった。
「師匠、いつになったら魔法を教えてくれるの」
師匠というのは僕が決めた魔法使いの呼び名である。
タンクトップにショートパンツという何とも気の抜ける格好の彼女は、苛立たし気に煙草の火を灰皿に押し付けた。
「分かったよ」
そう応えた彼女は分厚い本を何冊か僕の前に重ねた。
積み重ねられたそれは古臭く、ページは黄ばんで、少しだけ煙たい香りがした。
「世界の名前を知ること。世界に線を引き、輪郭をつかむこと。それがもっとも基本的な魔法だ」
重ねられる本の名前を見て、僕は覚えず顔をゆがめた。
図鑑に辞典。どれも勉強に使うものだ。もっとわくわくするような何かを求めていた僕は、思い切り落胆した。
「魔法って、これを全部覚えるの?」
「何も覚える必要はない。世界がお前に求めてくるから、その時にこの本を開いたらいいんだ」
「それっていつ?」
「そのうちだよ、そのうち」
不服そうな僕を見て、彼女はもう充分だとでもいうように立ち上がった。
「ねえ、いつ? それってちゃんとわかる?」
しつこくまとわりつく僕に、彼女はため息をついた。
そのまま手近なところにあったカーディガンを羽織ると、外に出ろ、と図鑑を数冊手提げかばんに突っ込んで僕を外に連れ出した。
じりじりと日差しが暑い。
「憎いほどに暑いな」
師匠の首筋に汗が滑っていた。
僕はきっと魔法を実践して見せてくれるのだろうと暑さに構うことなく師匠を見上げた。
「……お前、なんでもいいから目に付いたものを指さしてみろ」
師匠は僕の熱視線を気に掛けることもなく、けだるげに顎で公園のなかを示した。僕はよくわからないなりに頷いて、きょろきょろとあたりを見渡した。
いつもの公園、いつもの風景。何を指さそうかと、思案する。
空を見上げると、青空に一本、真っ白なクレヨンで線を引いたような、不思議な雲が目に留まった。
「ねえ、あれ。あの雲、まっすぐだね」
自然と腕が動いていた。
「ああ、そうだな」
師匠はすぐそばのベンチに座ると、図鑑を捲って指をさした。
空に浮かぶ雲とそっくりな写真のそばに、ひこうき雲、と書かれていた。
師匠の指が、その文字をゆっくりとなぞった。
「『ひこうき雲』だ。あれは自然にできる雲ではなくて、飛行機が飛んだ時に出る水分とかが冷やされて雲になるんだ」
「へえ……」
僕は口の中でひこうき雲、と呟いた。
空を見上げると、飛行機雲はわずかに歪み始めていた。青空に引かれたその一本がきらきらとして、他の雲から浮かび上がっているように見えた。
「言葉を知ること、名前を付けることは線を引いて輪郭を浮かび上がらせること。たくさんの花の中からこぶしの花が浮かび上がったように、たくさんの雲の中からひこうき雲が浮かび上がって見えるようになっただろう」
やっぱり、師匠の言うことは分からない。けど、僕にとって空の雲の中でひこうき雲が特別に見えるようになったのは確かだった。
「もちろんモノだけじゃない。お前が何を思ったか私を『師匠』と呼ぶようになっただろう。それで不本意ながらも私とお前は『師匠と弟子』の関係になったわけだ」
言われてみれば、そうかもしれない。僕が「師匠」と呼ぶことに決めたとき、母の友人と僕という何とも言えない関係に、僕は自然と「師匠と弟子」というはっきりとした関係へと線引きをしたのだ。
「たくさんの先人たちが、世界の輪郭をなぞり、それを残してくれた。まずはそれを自分のものにするのがいい」
師匠が優しい顔で図鑑の文字をなぞるものだから、僕はもうそれ以上色々と訊くことはできなくて、分からないなりに小さく頷いた。
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