幼き日の、はじめての魔法
振り返ると、しっとりと光を吸い込むような真白の花が、大通りの縁を飾っていた。
その景色が僕の眼にはどうにも眩しすぎて、視界が揺らいだ。どうやら、僕が初めてかかった魔法は、まだ解けてはいないらしい。
この日、現代のもっとも偉大な、そうしておそらく最後となる魔法使いが僕の世界から姿を消した。
◇ ◇ ◇
僕がその人と出逢ったのは、僕が小学校にあがったばかりのころだった……と思う。
「ママの秘密の魔法使いに逢わせてあげるわね」
あなたもきっと気に入るわ、と母は上機嫌にそう言った。
幼い僕の心の中はたいそう捻くれていて、母のその言葉をどこか冷めた気持ちで聞いていた。それでも母が嬉しそうだからと、手を引かれて坂道をのぼった。
母の手でその人のもとに預けられるたびに、離れたくはないとそれは酷く泣きじゃくった。ふわふわで柔らかい、綿菓子みたいな母と違って、その人は硬くて強くて、仮面ライダーの悪役みたいな人だった。
その人は僕を忌々しそうに見て、いつも僕の口にかんろ飴を押し付けた。
「お前のママは本当に変わってるよ」
ある日、その人はそう言った。僕に子供用のヘルメットを取り付けながら、眉間に皺を寄せてため息をつく。
確か、僕は友達と喧嘩をして、呼び出された母の代わりにとその人が僕を迎えに来たんだったか。
僕はあの頃その人が本当に苦手で、母が迎えに来てくれないのも、大きなバイクの上でその人の後ろにしがみついていなければならないのも、嫌で嫌で仕方がなかった……気がする。
気がする、というのも、正直に言うと僕も詳しいことは覚えていないのだ。覚えているのは、その人に掛けられた魔法のことだけだ。
その日の僕は普段以上に泣きじゃくって、その人のライダースジャケットの背中をじっとりと濡らしていた。
その人は途中でコンビニの前でバイクを停めて、乱暴にスタンドを立てた。
「いつまで泣いてるんだ」
咎めるような鋭い目が恐ろしくて悔しくて、瞼がかっと熱を持った。
僕はその人の眼を見続ける勇気なんてなくて、うつむいて唇をかんだ。
「あいつなんか死ねばいいんだ。しね、くそ、しね」
そんな幼稚な悪口を繰り返して、ぼろぼろと涙を落とした。
僕は悪くないと、あいつが悪いと一丁前に主張するだけのプライドは幼いながらに持っていたらしい。扱いきれない苛立ちと無駄に大きく膨らんだプライドもどきに振り回されて、聞くに堪えない言葉ばかりが口を突いて出た。
拙い雑言を聞いたその人は深く大きく息をついて、僕のヘルメットを荒々しくつかんだ。
「そんなことを言って、本当に死んだらどうするんだ」
無理矢理に燃えるようなその人の目に向き合わされて、僕はもう、悔しくて、悔しいのを分かってもらえないのも悔しくて、瞼も喉も溶けて消えてしまいそうなぐらい熱くなった。
「死ぬわけねえもん、しねよ、ばか、くそ」
知っている限りの言葉を尽くしてわめく僕を睨みつけて、次の瞬間、その人は乱暴に僕の唇を指でつまんで噤ませた。
「人は言葉で死ぬよ。言葉はそれだけの魔力を持っているんだ」
その人は大まじめにそう言った。
「どんなに怒っていても、『ごめんなさい』と謝られたら許してやる気になるだろう。どんなに嫌な奴からでも、『おめでとう』と祝福されたら嬉しくなるだろう。ただ口から紡がれた音のつながりが、指先で描かれた線のまとまりが、人の心を動かすんだ。意味のある音と線の連なりが言葉で、言葉はそういう魔力をもっているんだ」
分かるな? と言ったその人の言葉は分かるようでやっぱり分からなくて、僕は閉ざされた口以外で不満を訴えるべく、その人をじっと睨めつけた。
「言いたいことがあるなら言ってみな。聴いてやるから」
そう言って、その人の指が僕の唇から離れた。僕は何か言い返そうとして、分からない話に言い返しようがないことに気づいて、歯噛みした。
「魔力とか、ばかみたい」
口から何とか絞り出した悪態はとても幼くて、蹴りだした足はその人には届かず、空を切って力なく揺れた。
「……納得いかないのなら、私がお前に魔法をかけてやろうか」
反抗心から抜け出せない僕をどう思ったのか、その人は何度目になるかもわからないため息をついて、乱暴に僕をバイクから下ろした。
「魔法とかかかるわけないし、くそ、しね」
その人はバイクを置き去りにして、意地を張って抵抗する僕の腕を引っ張って大通りの端の歩道まで引きずり出した。
つままれていた唇がひりひりとした。掴まれた腕が痛かった。そのまま大通りに投げ捨てられるのではないかというほどの勢いに、僕はひたすらに足を突っ張ったが、大人の力には敵うわけもなかった。
強引に歩道に立たされると、おい、と低くて柔らかい声が頭上から降ってきた。
「約束してくれ。魔法をかけて――お前の世界が少しでも変わったら、そうしたらもう二度と簡単に死ねなんて言わないでくれ」
願うような、請うような、そんな声音だったことを覚えている。
その人はそう言ってまっすぐと腕を頭上の枝へと伸ばした。
謝れって言わないのかとか、そんなことを訊きたかった気がしたけれど、口を開くのも忘れてすらりとしなやかに伸ばされたその人の指先に視線を奪われた。
指の先には真白なつぼみが膨らみ、いくつかは柔らかくほどけていた。
「この花、何て名前か知っているか?」
僕がふるりと頭を振ると、その人の唇は小さく弧を描いた。
「『こぶし』の花だ」
真っ赤な唇がゆっくりと、動いた。
「春に咲く花。お前の世界は、今日から『こぶし』がたくさん咲く世界になる」
「……魔法って、それだけ?」
不思議な光に包まれたり魔方陣が出たりするわけでもなく。拍子抜けした僕に、その人は意地悪く笑った。
「それだけで十分だ。家に帰りつくまでには分かるよ」
さあ帰るか、とその人は僕の手を引いて、僕を再びバイクの後ろに乗せた。
「顔をあげて、確かめてみろ」
渋々と――でも、心のどこかで何かを期待していた僕は、顔をあげて流れていく景色を見た。
そうして、その人の言葉の意味を知った。
過ぎ去る家の庭木も、道路脇の街路樹も。ぼんやりと白いひかりを湛えて花がほころんでいた。
これまでの僕の世界にはないひかりだった。
どこに目を遣っても、ぽつりぽつりと世界の端にほの明るい白が主張する。
「世界が変わる。お前の世界は、もう『こぶし』の咲く世界なんだ」
「うん、すごい……!」
たったひとことの魔法で、僕の世界は確かに変わったのだと、そのときの幼い僕は認めざるを得なかった。
家に帰りついたとき、僕はもう暗く澱んだ気持ちはすっかりと澄んでいて、どうしようもない苛立ちも忘れてすっかりとその人に心酔していた。
母の言葉は本当だったのだ。本当に魔法使いだったのだ。
「ねえ、僕も魔法を使える?」
その人のジャケットの裾をつかんで、僕は『魔法使い』に教えを乞うた。
「さあな」
魔法使いは鬱陶しそうに僕の手を払って、ため息をついた。
今思うと、余計なことをするんじゃなかったとか、きっとそんなことを思っていたに違いない。
「……お前がさっきの約束を守り、私の言うことを聞くというのなら、お前に『魔法』を教えてやろう」
少し考えて、魔法使いはにんまりと笑った。
このとき、喜んだそのままの勢いで頷いたことを、僕は今でもほんの少しだけ後悔している。
この日、僕はおそらく現代に生きる最後の「魔法使い」の弟子となったのだ。
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