画期的な目薬
その英国風の一軒家には、立派なイングリッシュガーデンがあった。美しい羽根を持った蝶々が、色とりどりの花が咲く花壇の上でダンスをするかのように飛び回っている。
部屋の中では、60代のマダムがソファに腰を下ろし、ぼんやりとテレビを眺めながら時間を持て余していた。既に掃除も洗濯も夕食の支度も終えて、あとは町内会の会合に出掛けた亭主の帰りを待つだけだった。しばらくして思い出したように「あ、そうよ、そうよ」と立ち上がる。
昨日買った目薬を試してみようと考えたのだ。暇の潰し方で目薬とは、聞いた事もないとお思いかもしれないが、この目薬が今、ちょっとしたブームになっていた。ドラックストアでも目立つ場所に陳列されており、事実よく手に取られ購入して帰る人が多い。マダムもその一人であった。
某大手製薬会社の新商品として売り出されたこの目薬は、香水瓶のようなボトルデザインが特徴的な一般用点眼薬。液は紫色透明で、清涼感度は5段階中の0。値段は目薬にしては破格の6480円。話題になった切っ掛けは、往年の映画女優を起用したテレビCMであろう。
CMはこんな感じである。映画女優が孫役の子役とウインドショッピングをしていたら、眼がかすんで物がぼやけてくる。「ヤダわ、こんな時に…」困った顔を浮かべた女優は、ハッと目薬の事を思い出す。そしておもむろにバックから目薬を取り出すと、ミュージカルのような華麗なステップを踏みながら目薬を点す。そして決めゼリフ「あら、目が若返っちゃったみたい。ああ~、懐かしい。この景色10代の頃に見たわ」女優とお孫さんは、友達のように街を歩いてCMは締めくくられる。
マダムは目薬の箱に掛かった透明なビニールを剥がすと箱を開け、目薬本体を取り出す。正直少し怖さがあり、マダムは躊躇うような表情を浮かべた。だが、6480円も出して購入して使わないというのは、お金をドブに捨てているようなものである。いくらマダムが裕福であっても、主婦というのは勿体ない事は極力したくない。
マダムは天井を向き、目薬を両目に点した。清涼感度は0なので、まったく沁みなかった。手応えがないというのか、眼応えがなかった。
目薬を点したままの上を向いた姿勢で、眼に浸透していくのを待った。数えていたわけではないが、だいたい10秒ほど経ったところで、ゆっくりと瞼を持ち上げる。まだ視界がぼやけていた。注意しながら大きな窓の方に近づいていく。どうせならまず美しい景色を眺めてみようと思ったのだ。
庭に面した大きな窓から景色を見詰めるマダムの顔は、玩具を買ってもらった子供のようにキラキラと華やいでいた。こんな事って、信じられない。目薬を一滴点しただけで、まるで見え方が違うなんて。
この目薬は、一滴点すだけで眼の表面にある角膜を再生し、角膜の形状を変えることによって近視・遠視・乱視を矯正する屈折矯正目薬であった。CMの決めセリフにある「この景色10代の頃に見たわ」というのは、目が若返るという意味であった。即効性がありすぐに視力は若返る。ただ一日一回点し続けなければ、元通りに戻ってしまう。
なんという事でしょう。今までちゃんと見えてなかったのね。イングリッシュガーデンの草木の緑があんなにもみずみずしくて、鮮明に見えるなんて。ここからでも、草木特有の清々しい香りが匂ってくるようで、心安らぐ気持ちになるわ。ああ~、まるで神秘的な新緑の森にやってきたようだわ。
花壇の花もそう。色とりどりの花が色を塗り直したように色鮮やかに見える。いきいきと、若々しくて、生命の息吹が手に取るように伝わってくるわ。あら、蝶々。まぁ凄い。ひらひらと花のまわりを飛び回る蝶々の緻密な柄もはっきりと見る事が出来るなんて。贅沢この上ないわ。
マダムは遠くに視線を向けると、夕暮れ時の空のオレンジ色が何だか懐かしくなり、涙が瞳を覆いはじめた。冗談交じりに言う「ああ~、懐かしい。この景色10代の頃に見たわ」
玄関が開く音がした。亭主が町内会の会合から帰ってきたようだ。マダムは亭主にもこの体験を味合わせてあげたいと思った。結婚して40年余り、二人で色んな所に出掛けては、どんな事でも共有してきた。テーブルの上に置いていた目薬を手にすると玄関へと向かう。
視力が良くなれば、これまで以上に色んな所へ出掛け、色んな物を見て、色んな経験が出来る、そんな思いを胸にリビングのドアを開けて、マダムは軽やかな足取りで玄関へと向かっていく。亭主の姿が見えた。
「あなた、お帰り、この……」
目薬凄いのよ、と続くはずが、そこまで言ったところで、マダムは口をつぐんでしまった。亭主が「ああ、ただいま」と柔らかな口調で返したが、マダムの耳には届いていなかった。
なんという事でしょう。今までちゃんと見えてなかったのね。亭主の老いがあんなにも鮮明に見えるなんて。ここからでも加齢臭が臭ってくるようで、不快な気持ちになるわ。
亭主は色黒だからよく分からなかったけど、顔中にあんなにシミがあったなんて。ポツンと目立つ濃いシミからメラニン色素の息吹が手に取るように伝わってくるわ。あら、目尻のシワもまぁ酷い。私、ずっとあなたの笑う時に出る目尻のシワが好きだったの。だけど笑ってなくても、シワがはっきりと見えるじゃない。見たくなかったわ、そんなシワ。それに、その額の三本シワは何。もちろん額にシワがあるのは知っていたわ。でもそんなに深いシワだなんて。彫刻刀で掘ったようじゃない。残念でならないわ。
玄関で靴を脱いだ亭主は、そんな事思われているとも知らず、笑顔でリビングに向かう。マダムがわざわざ出迎えにきてくれた事が嬉しかったのだろう。だけど、その笑顔が亭主の顔に多くのシワを浮き上がらせる。間近でそんなものを見せられたマダムは、眉をひそめ、少しイラついた。
マダムは不吉な予感に胸が苦しくなった。まさか亭主が町内会の会合に行って、急に老けたわけがない。竜宮城に行った浦島太郎じゃあるまいし。手の中にある目薬の感触が、視力が良くなったからだと言っているようで、不愉快でならない。マダムは洗面所へ向かう。亭主がそうなら…
洗面所の鏡に自分の顔を映し出したマダムは、うろたえた声を発する。これが私なの…。
思わず顔をしかめたため、表情がさらに醜くなった。発狂して鏡を割ってしまいそうになったので、鏡から目を逸らす。
マダムは特に神様を信じているわけではないが、こんな事を思った。神様が人間の体を作られ、老化というシステムを組み込んだ際、視力も一緒に衰えるようにした事に意味があったのだと。それなのに、人間とはこんな物を作るなんて。マダムは手に持った目薬を床に叩きつけてやろうと思ったが、そんな事をしても何の意味もないので、やめた。その冷静さが年相応に思えて、少し笑った。顔に多くのシワを浮き上がらせて。
マダムがリビングに戻ると、亭主はテーブルの上に置きっぱなしにしていた目薬の箱を手に取り見ていた。
「この目薬、買ったんだ」
「あ、う、うん…」
「点してみたんだろう。どう?目若返った?」
「…全然、あんなの嘘っぱちよ」
少し考えてそう答えたマダムは、手に持っていた目薬をゴミ箱の中に捨てた。あんな姿、亭主に見せられないわ。
考える事はみんな似たようなもので、その目薬は一年も経たないうちに廃盤となった。
終