第94話 夕星の灯し風【1】
風が強い。
冬の到来を告げる季節風が西から東へ早くも吹き荒びはじめていた。
「すごい風だな」
ごうごうと唸る風に、シェラートは手元の分厚い書物から顔を上げ、窓の外に広がる世界へ視線を向けた。
冬と言ってもダランズール帝国の大部分は、そう寒くはならない。
帝国の南西一帯を占める砂漠で温められた熱気が風に乗って皇都がある東海岸まで流れてくるおかげで、砂漠以東は比較的温暖だからだ。
ただし強靭な風は砂漠の乾きを絡ませて、辺り一帯すべてものを煽る。
北西の賢者の部屋がある塔の最上階。ここからは皇宮の外庭も城壁も軽々と飛び越えて、都全域が見渡せた。
これほど地上から離れているにもかかわらず、眼下にある樹木が傾いでいるのがわかる。普段は重みで垂れているはずの葉も風にのって大きく流れていた。
室内からでは微塵も感じない風の威力はそれだけで容易に知れる。
そうですのう、と塔の主人であるシュザネが応じた。豊かな白髭を節くれだった手でしごき、本の頁をめくる。
「季節風が支配するこの季節、西と東の大陸を結ぶ航路は荒波が立ち騒ぎます。しかるべき装備の整った大型の船舶でしか渡ることができませぬ。つまりそれほど強い風が吹くのです。これはまだまだ序の口ですぞ」
「にしても強くないか? リムーバにいる時はここまで強くはなかった」
「ほう。シェラート殿は皇都にいらっしゃるまではリムーバにお住まいだったのですか」
シュザネの問いかけに、シェラートは肯定を返す。
リムーバはちょうど砂漠の北側。帝国では北西の端にあたる街だ。
北か南かで言えば皇都とそれほど変わらぬ位置にあるが、西か東かで言えばリムーバと皇都はダランズール帝国のほぼ両端に位置する。
それなら仕方がありませんのう、とシュザネは漏らした。
「風は風にのるほど勢力を増してゆきますゆえ」
えんじ色の革で装丁された本から視線を上げもせず、シュザネは白髭に沈む口の端だけを緩めた。
確かにリムーバに吹く季節風は、それほど強くはなかった。
ならば、ダランズール帝国よりも東にあるカーマイル王国の方が季節風は強かったはず。
だが、シェラートにはこうまで季節風が強く吹いていた記憶がなかった。
もしかすると、そうだったのかもしれない。
故国では当たり前すぎて、記憶の断片にすら残っていないのかもしれない。シェラートにとって、カーマイルでの風に関する思い出は、幼馴染みの二人と共に風の中心に向かって馬を駆けさせたことくらいだ。
はたして、その風こそが季節風であったのか――シェラートにはもう思い出せはしなかった。
シェラートは片眉を跳ね上げる。
「おい、シュザネ」
はい? と、返事は即座に返ってきた。
それでも心はここに非ずと言った感じだ。シュザネは手元の本に張り付いたまま動こうとしない。話しかければそれなりに適した答えを返すものの、実際にはほとんど無意識状態であるらしいことにシェラートが悟るまで、三ヶ月もあれば充分だった。
どうやら今日も自ら目を離すつもりはないらしいシュザネの手元から、本を宙へ浮かせ取り上げる。ふわふわと部屋の中を漂いはじめた本にあわせて、シュザネも目を泳がせた。
「それが、探していた記述なのか?」
「いいえ。しかしっ……ああっ!」
パタンと音を立て目の前で無情に閉じた本に向かって、シュザネは悲痛な叫びを上げた。
「い、今、いいところでしたのにっ! トゥスカナ歴三年! 海鳴りの月! レアイに現れた魔人たちの闘争によって誕生したセジアル湖! いいですか、シェラート殿! この時できた四つの湖——通称、朝昼夕夜の湖。これらの湖が、いったいどの順番でできたのかは今日でもなお議論され続けているのですぞ!? どれからできたかが未だ解明されないゆえに、どれが朝で昼で夕で夜の湖かはわからないという。儂はこの小さいものから大きいものが順につくられていったという説が一番有力であると思って――」
「わかった……わかったから、落ち着け」
シェラートは取り上げたばかりの本を、そのまま棚へと向かわせた。吸い込まれるように本棚に収められた本はこれでとうとう三百九十六冊目である。
今しがた片付けたえんじ色をした革の装丁本の隣に、シェラートは自身が手にしていた分厚い本も並べ加えた。
皇都に到着してから既に三ヶ月ほど経つ。
はじめの頃は、フィシュアも様子見がてらかちょくちょく顔を出していたが、それもめっきりと減っていた。特にここ一ヶ月は出くわしてすらいない。
広大な皇宮だ。
意図して互いに訪ねようとしない限り、出会わないのも無理はないだろうとシェラートは思っていたが、その認識自体が誤解だった。
シュザネが言うには、常日頃からフィシュアが皇宮にいること自体がひどく珍しいらしい。
そういえばフィシュアの女官のホーリラもそんなことを言っていたな、とシュザネからそれを聞かされた時、シェラートは思い出した。
フィシュアが表立って皇宮に滞在するのは『皇帝からのお召しがあった時』のみ。つまりその期間は対外的には“宵の歌姫”が皇宮に招かれていることにされている。
それが皇帝の息女五番目の姫と悟られないための最も単純で有効な方法であり、宵の歌姫の冠名の箔付けにも繋がる仕組みだとシュザネは言った。
この一月は、またどこかへ出向いているらしい。
フィシュアに会えないのは寂しいね、と沈んだ顔で零していたテトも昼間は皇立学校へ通っている。
結局のところ皇宮に来てから一週間もすると、シェラートはテトが学校から帰ってくるまでの日中、特にすることもなく手持無沙汰で過ごすことが多くなっていった。
そしてテトを学校へ送り出し、部屋でぼんやりとしていたところを、北西の賢者であるシュザネに捕まったのだ。
出会った時と同じように、がしりと腕を掴み、きらきらと目を輝かせる老人に逆らえるはずもない。逃げたら逃げたで今度はどこまでも追い駆けまわされるだろうことも容易に想像がついた。
それでもシュザネを押し付けられた感が否めなかったのは、シュザネを邪険にしてフィシュアに怒られるのも面倒だという考えが少なからずシェラートの中にあったからだ。
テトに自分でも考えると言った手前もある。
戻れるのなら戻りたいと言ったのも嘘ではない。そう思った瞬間は、これまで何度だってあった。
ただ考えるたびに、途方もないことだと実感する。
もうずっと折り合いをつけてきたつもりだったし、よくも悪くも“人間になる”方法を知っているせいで、他の方法があるとはなかなか考えられなかった。
フィシュアの言う通り、北西の賢者が魔人に詳しいのなら、手を借りるべきなのだとも思う。自分が知らない何かに気付く可能性があるのなら、その智見に頼らない手はない。
相変わらず腕にしがみついている北西の賢者は、左手首に刻まれたた魔人の黒紋様をなんとか写し取ろうと薄紙を押し当て奮闘していた。
こうじゃなかったらな、といい加減呆れながらシェラートが紋様を浮かべて紙に焼き付けてやると、シュザネは歓喜の声をあげた。ほくほくと貰った紙を大事に胸に抱えるシュザネを、シェラートは見下ろす。
「シュザネ。お前は本当に、あると思うか」
それだけで通じてしまったらしい。
ぱちくりと水色の眼を煌めかせたシュザネは「ありますとも」と深く断言した。
「シェラート殿は、ダランズール皇家に魔神にまつわるラピスラズリがあることをご存知ですかな?」
シュザネは目の端に皺を畳み、ゆったりと聞いた。今しがた手に入れたばかりの黒紋様が浮かぶ紙をシェラートの前に広げる。
突然何の話だと訝しみながらも、シェラートは首肯した。
魔神と三番目の姫に関するの御伽話は、事実がどうであれフィシュアがテトに話聞かせているのを聞いていたし、シェラート自身、話の中心人物たちをよく知っている。
「この国では有名な御伽話ですからな」
シュザネはふぉっふぉっふぉと哄笑し、続けて問うた。
「それでは魔神が皇家に与えたとされるラピスラズリについて、記述が二通りあるとご存知ですかな?」