第75話 憂いの終焉
「よかった! 戻ってきてくれたのか」
水の宮へ戻った二人の姿を見て、椅子に縛られたまま放置されていたヘダールは歓声をあげた。
「お前にはまだしてもらわなきゃならない仕事があるからな」
シェラートの冷えた声音にヘダールはたじろぐ。とは言え、実際には縛られているせいで顎を引くぐらいしか抵抗のしようはなかった。
「な、何だ……? 一応要件を言ってみろ」
傍目から見ても何とも情けない姿にも関わらず、尊大な態度で指図してくるヘダールにシェラートは知らず嘆息した。
「とりあえず一緒に村についてきてもらおうか」
「これを解いてもらわないとついてなど行けぬな」
ヘダールはふんとそっぽを向く。
眉をぴくりと動かしながら魔法を使おうと掲げられたシェラートの腕を、フィシュアが押しとどめた。
「……シェラート。確かに彼の言う通りなんだし、一応解いてあげないと」
フィシュアはちらとヘダールを見ながら擁護する。
視線を受けた当のヘダールは「その通りだ」と言わんばかりに大袈裟に頷いた。シェラートは胡散臭そうにへダールの一連の仕草を眺めやる。
「どうせ転移するんだから、このまま運べばいいんじゃないか?」
「そんなことしたら、ただでさえ少ない水神の威厳がまったくなくなるじゃない。大体これでも一応村の神なのよ? 怒った村人たちに一斉に攻撃されたらどうするのよ? せっかくここまで来た計画が台無しじゃない」
「まぁ、それもそうだな。仕方がないか。けど、あんなんだって知られたら逆に怒りだすかもしれないぞ?」
「そこは何とか誤魔化すしかないでしょう。極力しゃべらないようにさせれば多分大丈夫よ」
二人のひどい言ように、さすがのヘダールも閉口する。それでも、ようやく解かれた戒めにヘダールはこっそりと息をついた。
「して。私の仕事とは具体的になんだ?」
ヘダールの問いにフィシュアは「簡単なことよ」と言いながら、二本の指を立てた。
「あなたにしてもらうことは二つ。村人たちの前でメイリィの病気を治したと示すこと。それから花嫁は一切必要ないと告げること」
「花嫁の件は……お主が嫁に来るのなら、その頼み、聞かないでやってもない」
「まだ言うか」
口をすぼめながら呟いたヘダールへ、フィシュアは心底呆れた視線を向けた。
「言っておくけど、これはもう頼みごとじゃなくて命令なの。主導権はこちらにあるのよ?」
「それなら聞かない。この話はなかったことに」
「ああっ、もう!」
このままだといつまでも続きそうな問答にフィシュアは肩を怒らせた。
「まあ、そういうことなら傀儡にしてもいいんだけどな」
「傀儡……」
シェラートの声は、ぞっとするほど冷ややかに水の宮の内に響いた。
その割に涼しそうな顔をしているシェラートの横で、フィシュアは顔をしかめる。
カタカタと口を動かす木偶人形のようなヘダールはどう考えても気持ちのよい光景ではない。
恐らくフィシュアと同じことを思い浮かべたのだろう。ヘダールはさっと顔を青くさせた。
「い、いや、遠慮しておこう。……そうだな、うん。祝福で我慢してやろう」
相変わらずの上からの物言いに肩を竦めながらも、フィシュアは「まあ、いいわ」と応じた。
これで事が運ぶのなら妥協するのも悪くはない。テトたちが待っているのだ。いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
ヘダールの元へ向かおうとしたフィシュアは、シェラートに腕を引っ張り戻された。げんなりとした表情で、シェラートに見下ろされる。
「だからお前は誰でも彼でもそうほいほい口付けるな」
「いいじゃない、別に減るもんじゃないし。これで早く終わるのなら安いもんでしょう?」
「そういう問題じゃないだろう。大体こいつらがああいうこと言う時は大抵、裏があるんだよ」
あからさまにギクリと身を震わせたヘダールを見やって、シェラートが「ほら見ろ」と無言で告げる。
「でも私、ラピスラズリ持っているし、魔法の類だったら効かないでしょう?」
「そうじゃなかったら、どうするんだよ」
「そうしたら、その時に考えるわ」
「あのなぁ。これ以上、面倒事を自ら増やすな!」
フィシュアとシェラートの睨み合いを中断させたのはコロコロという笑い声だった。割って入ってきた軽やかな笑声に二人は揃って乱入者へと顔を向ける。
「ヴィエッダ様!」
「本当にあんたは……。まさかフィシュアちゃんにまで手を出してたとはねぇ」
ヴィエッダの元へ駆け寄ろうとしたヘダールは、彼女の呆れの滲む溜息によってその場に足を縫いとめられた。ヘダールの心情を表わすかのように跳ねていた銀髪が元気なく、すとんと垂れ下がる。
「見てくれだけは綺麗なのに、中身がこれだからねぇ」
ヴィエッダが白く細い指先で、くい、とヘダールの顎をあげた。
「フィシュアちゃんは私のお気に入りなんだからね。くれぐれも手を出すんじゃないよ。ちゃんと村へ行ってフィシュアちゃんの言うことをお聞き。そうしたら、そうだねぇ……一度くらいお茶に付きあってあげてもいいよ?」
「本当ですか!?」
晴れ渡った日の泉のように銀蒼の瞳が輝き出す。
ヴィエッダは「ちゃんとできたらね」と紅い口に弧を描くと、ヘダールから手を離した。代わりにフィシュアたちに向かってひらひらと手を振る。
「何しに来たんだ?」
「おや、シェラ坊。お生憎様だねぇ。せっかく手伝ってやったのに」
手で口元を押し隠し、相も変わらずヴィエッダはコロコロと笑う。
「ヴィエッダが何か動く時も大抵裏があるからな」
「じゃあ、今回は“大抵”には入らなかったようだね。残念だけど今日のはただの親切心だ。皇都まで送ってあげようと思ってね。シェラ坊は確か行ったことがないから転移はできないだろう?」
「どうして俺たちが皇都へ向かうってことを知っているんだ」
不信感も顕にシェラートは聞いた。
対して、ヴィエッダは右腕を掲げ、人差し指を伸ばす。しなやかな指が示す先にあるのは、シェラートと同様戸惑いを隠せずにいたフィシュアだ。
「それ。ラピスラズリ」
胸元を彩る青よりも濃い藍。完全な闇に落ちる前の夜の石。
ヴィエッダはラピスラズリの首飾りを指差しながら、金の眼を細め妖艶に笑みを刷く。
「フィシュアちゃんはラピスラズリを持っているからね。それを見ればわかるだろう? フィシュアちゃんが皇都へ行かなければならないということは」
「宵の歌姫のことを知っているんですか?」
シェラートは知らなかった。だからこそ魔人や魔神は興味がないのだとフィシュアは思っていた。
ヴィエッダは緩やかに頷く。
「宵の歌姫が本来何者であるかってことくらい長く生きていれば知れるからね。早く戻れた方がいいだろう? 遠慮しなくていいよ。私にとっては手を振るのとなんら変わりはないからね」
「それは……助かります」
ヴィエッダの言う通り早く帰ることができるのなら早く帰れるに越したことはない。
テトの村とここでの滞在。
選んだこととはいえ、想定していた以上に日数をとっていた。
「そうだねぇ。転移するならどこがいいかい?」
「できるのなら、皇都の端の野に」
「確かに。いきなり都の中心に転移したら他の人間は驚くだろうからね。わかった。了解。明日でいいかい? これからフィシュアちゃんたちが村に戻って用事を済ませた後じゃ、もう日暮れに近いだろうからね」
フィシュアはちらとシェラートを見上げた。
フィシュアとしては反対する理由もないが、ヴィエッダとの付き合いが長いのはシェラートの方だ。彼女に何か裏があるというのなら、それを見極める手段はシェラートに頼るしかない。
フィシュアの視線を受け、シェラートは一度肩を竦めた。ヴィエッダをじろりと睨む。
「で、本当のところは何だ?」
変わらず何かあると疑ってかかるシェラートにヴィエッダは苦笑を洩らす。
「本当に、今日は何もないんだけどねぇ……」
「ヴィエッダがそう言うと逆に怖いんだよ。後で何かやっかいなことを請求してきそうだからな」
「そこまで言うんだったら……そうだねぇ。じゃあとりあえずオクリアの焼き菓子と、シャクリイの香水だろう? それから……そうだ! オンプロバの紅とはたき粉も。できたらルビラルダの髪飾りもつけれくれると嬉しいねぇ」
「全部高級店……」
「何もないとか言いつつ、結局かなり要求してるじゃないか……」
並び立てられた品の価値と数に眩暈を覚えたフィシュアとシェラートをよそに、ヴィエッダは「このくらい安いもんだろう?」とほくそ笑む。
「フィシュア……これ、全部揃えられるのか?」
「多分大丈夫……なんとかするわ……」
フィシュアの力のない笑みが、取引が成立したことを告げる。
ヴィエッダはニッと口の端を上げた。
「それじゃあ、シェラ坊、フィシュアちゃん。明日また私の家で待っているわ。ほら、あんたもさっさと行きなさい」
「はい! もちろんですともヴィエッダ様」
ヴィエッダに半ば放られるように背を押されたヘダールは、それさえも嬉しそうにフィシュアの元へと向かった。
「さぁ行くぞ、娘」
嬉々としてフィシュアへ手が差し出される。シェラートはフィシュアの身を片腕で囲い遮って、ヘダールを睨みつけた。
「だから、お前は余計なことばかりするな。バレバレなんだよ」
落とされたシェラートの溜息と共に、ヘダールが差し出した手の上に細く絡み合った糸が現れた。
どうやら今の今まで不可視だったらしい糸が、へダールの手の中で実体化しキラキラと光っている。
危うく絡め捕られるところだったらしいフィシュアは、頬を引き攣らせた。
ラピスラズリによって魔法が無効化されることは、先程の会話からヘダールにも知れているはずである。
にもかかわらず、こんなことをしてくるとは、シェラートの言う通り魔法の類ではないものでも仕掛けてあったのかもしれない。
そう考えてはみたもののヘダールがそこまで想定していたとは、フィシュアには到底思えなかったのもまた事実だった。
「ちょっとヘダールのおぼっちゃん? 言わなかったかい? フィシュアちゃんは私のお気に入りだって」
つっと細められた金の双眸が妖しい光を孕む。ヘダールはビクリと身体を震わせた。
「やっぱ、こいつ縛って持ってった方が早いんじゃないか?」
完全に凍りついてしまったヘダールをシェラートは面倒臭そうに一瞥する。
「この状態なら縛っても大して意味ないんじゃない?」
フィシュアは、まったく動く気配のないヘダールを横目で見ながら言った。
ヴィエッダに射すくめられたことのある身としては、ヘダールが硬直してしまった気持ちもわからないではない。けれど、ヘダールの場合は自業自得とフィシュアはただ呆れるしかなかった。
こうしてガンジアル地方にもたらされた災厄は真の意味で終わりを告げる。
例年と同じように雨季が戻って来た村は喜びに溢れていた。
今はまだ、しとしとと、けれど、決して止みそうにはない雨の中、続けられていた賑やかな宴。そこへ突如、姿を現した水神と彼の花嫁に村人たちは自分たちの目を疑った。
動揺する彼らに、水神は厳かに告げる。
雨は元道り降らせてやろう、と。
自分には本来花嫁は必要なく、歌を聞いて満足したから花嫁は返してやろう、と。
我が愛しき娘——メイリィの病は癒えた。
彼女は陽の下に置くのがふさわしい。
私は光の中にある彼女が愛しいのだから、メイリィはこのまま外で暮らすのがよかろう、と。
次第に雨足が強まり出す。勢いを増す雨音を遥かに凌駕する歓声が、村人たちの中から湧き起った。
「水神様」
讃える声がそこかしこから一斉に響き渡る。
水神こそが今回の災厄の原因と知っておきながら、村人たちは雨をもたらした水神に感謝を捧げる。
災厄をもたらした理由がくだらないものであることも、村人の歓喜の声に水神が何の関心も寄せていないことも、ここに集った村人たちは誰一人知らずに。