第70話 水神【1】
村人が去った後、シェラートは迷いなく祠の裏側へまわった。そこには石造の祠に連なるように大岩が鎮座している。
シェラートは岩壁の一部を顎で示した。
「これだ」
「ここ、なの?」
眼前に広がるのは何の変哲もない岩壁だ。まわりの岩面と変わらないようにフィシュアには見える。
「ああ。この向こうに水の宮がある」
「だけど、この向こうって特に何もなかったわよ?」
シェラートが手を付いているざらついた岩壁の向こうに何があるのかを祠の中に入ったフィシュアは知っていた。
外からは岩に見えるこの場所も中は洞窟のようになっており祠と内部で繋がっていた。
あるのはわずかばかり開いた空間と泉に続く通路だけだ。とてもあの場所が水神の住処とは思えないし、第一そこに水神などいなかった。
フィシュアの疑念を正確に汲み取ったらしいシェラートは「だろうな」と請け負う。
「フィシュアが入ったところとは別の場所だ。祠にも泉にも繋がっていない。入口がここなだけで、繋がっている場所はまた別の場所にある」
「どういうこと?」
「まあ、簡単に言うと幻術みたいなものだな」
「ますます意味がわからないんだけど……」
「説明するより実際に行ってみたほうが早いだろう」
シェラートの提案に、フィシュアは怪訝な表情を浮かべた。それに構わず、シェラートはフィシュアの背を岩壁に向かって押す。
「え? ちょっと、何!? どうして押すのよ?」
「入らないと何もはじまらないだろう」
「入らないとって、ここただの壁じゃない!」
「だから、入口があるって言ってるだろう」
「見えない!」
「俺には見える」
「ギャー! 待って! 壁にぶつかるってば!!」
「だから、ぶつからないって」
半ば呆れ混じりにシェラートは言った。
フィシュアが抵抗しても、まったく力を緩めようとしてくれない。押されたフィシュアの眼前にはすでに灰の岩壁が迫っていた。
衝撃を避けようと両手を突き出す。まもなく岩にぶつかるはずだった手は、衝撃どころか壁に触れた感覚さえなかった。
フィシュアは瞬きをする。
いつの間にか辺りを取り囲んでいたのは、ほのかに発光する青白い壁だった。
明らかに先程までと異なる景色に呆気にとられながら、フィシュアは今来た方向を振り返る。ちょうど青白く光る壁からシェラートの身体が上半分だけ出てきているところだった。
「なんて顔してるんだよ」
「いやぁ、ちょっと今のは不気味だったわ……幽霊って、こんな感じかしら?」
「は?」
「……何でもない。それよりこれ、一体どうなっているの?」
フィシュアは青白い壁を触った。すべすべとした壁はどれも鍾乳石らしい。
すり抜けることはなく、そこにはちゃんと硬質な感触があった。
何度もぺたぺたと場所を変えては触り続けるフィシュアの手をシェラートは取る。
「そっちじゃない、こっちだ」
新たに示された場所に手をつこうとし、なんなくすり抜けた手にフィシュアは体勢を崩した。倒れこむ寸前で、シェラートに腕を掴まれ引き戻される。
「危ないだろ」
「え、あ……ごめん」
ひたすら呆れの滲む苦言に謝りながら、今度は注意して壁に手を伸ばす。壁に当たる直前で自分の腕の先がするりと壁の中に沈んで消えた。
指を動かしてみると感覚があるため、腕そのものが消失したわけではないとわかる。
ただ、腕の半分が壁の中へと入っていて、傍から見ると壁に腕だけ埋められているようなおかしな状態になっていた。
「何これ? 壁を通り抜けてるの?」
「だから、そこに出入り口があるんだよ」
「だから、その説明じゃわからないでしょう!? もう少しわかりやすく説明しなさいよ」
シェラートは溜息をついた。明らかに面倒臭そうだが、フィシュアはそれを無視して先を促す。
「フィシュアは中に入ったことがあるだろう。中に比べて、外から見た方が祠も岩も大きく感じなかったか?」
「そう言われてみると確かにそうかも……」
中は十人入るのがやっとの空間しかなかったが、外から見た岩は祠とあわせても確かにずっと大きく思えた。
岩全体を取り囲もうとすれば、恐らく両手をいっぱいに広げた大人が三十人は必要だろう。岩の壁が厚いだけかと思っていたが、理由はそうではなかったらしい。
「祠に繋がる部分とここは同じ岩の中にあっても別の部分だ」
「部屋みたいに岩の中で空間が二つに区切られているってこと?」
「そんな感じだな。実際はこっち側……あの岩の大部分は後から魔人が付け加えたものだと思う。人に煩わされたくなかったのか、そもそも意図があるのか、その辺はわからないけどな。で、こっちの岩の一部に出入り口をつくった。人から見たら一つの岩に見えるし、岩壁も周りと変わらないから気付かないだろう」
「危ないわね。誰かがうっかり岩に寄りかかって、こっちに来ちゃったらどうするのよ」
フィシュアの懸念に、しかし、シェラートは「いや」と首を振った。
「それはない。普通の人間にはここは通れない。寄りかかっても問題ないはずだ」
「でも、私は通れたじゃない」
首を傾げるフィシュアの胸元をシェラートは指差した。
「フィシュアはラピスラズリを持っているだろう。それも魔法みたいなもんだ。もし岩壁のままだったらフィシュアがぶつかる——フィシュアにとっての害になる。だから俺がわざわざ岩にかけられた魔法を崩さなくてもフィシュアなら通れるかと思ったんだ」
「ちょっと。ぶつかっていたらどうするのよ!?」
「ぶつからなかったんだからいいじゃないか」
「よくない!」
フィシュアは半眼して見せたが、シェラートは肩を竦めただけだった。「まあ、行くか」と勝手に話を切り上げ、一人さっさと歩きはじめる。
そうなるとフィシュアは不服ながらもついていくしかなかった。
前にあるのは一本道だった。
これも魔法なのだろう。ぼんやりと青白く発光する鍾乳洞の壁が続いている。
さすがに晴れた日の下と同じというわけにはいかないが、それでも歩く分には特に問題はなかった。
「ねえ、シェラート。祠の場所とは違うって言っていたけど、こっちはこっちで岩の大きさの割には広すぎない?」
もう既に結構な距離を歩いていた。にも関わらず、いっこうに水の宮らしきものは見えてこない。もしもこの中が外で見た岩と同じ大きさならとっくに岩を突き抜けているはずだった。
シェラートが、ちらとフィシュアに目をやった。壁面の光を映してか、翡翠の双眸がいつに増してほの光って見えるのをフィシュアは不思議な心地で見つめる。
「たぶん地下に入っているな。わずかずつ進むごとに下っていただろう。道自体が斜めになってる」
「そうなの?」
指摘されるまで傾斜に気づかなかったフィシュアは、足元に意識を移して歩いてみた。
だが、やはり平坦な道と変わらないように思える。首を傾げながら歩を進めていたフィシュアだったが、シェラートが急に立ち止まったので、足を止めた。
「どうしたの?」
「ここが部屋の入口だ」
「この先は違うの?」
道はまだずっと先まで続いている。
この鍾乳洞に入った時と同じように見えない入口があったとして、はたしてこの場こそが水の宮だと言い切ってよいものかと思い、フィシュアはシェラートに問いかけた。
シェラートは一つ頷くと、断言する。
「ここだ」
「その根拠は?」
「バカみたいに魔力が漏れてる」
嫌悪も顕わに言い捨てたシェラートに、フィシュアは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「なんだか本当に厳しすぎない? お願いだから中で暴走しないでよ?」
「それはこっちの台詞だ。いいか、フィシュア。ここから先は俺より前に出るなよ?」
「どうして?」
「何のためかは知らないが、大河の水を根こそぎなくすような考えなしだぞ? そんな奴が何するかわかったもんじゃないだろう」
「でも私、ラピスラズリ持ってるし別に大丈夫よ」
余裕の笑みを浮かべながらフィシュアは首飾りに付いた深い藍の石を振ってみせる。けれど、シェラートは断固として譲らなかった。
「いいから、フィシュアは後ろにいろ。前に出られたら無茶された時に止めるのが遅くなる。頼むから仕事を増やさないでくれ」
「そっちが本音ね……?」
「事実だろ」
睨みつけてくるフィシュアを、シェラートは軽く無視した。
「返事は?」
「わかったわよ」
不本意ながらもフィシュアは承知する。
フィシュアが身を引いたのを確認し、シェラートは青白く光る壁へと手をかざした。そのまま壁の見えない入口へ進もうとし、物音に振り返ったシェラートはぎょっとして足を止める。
「フィシュア。……お前、何してるんだ?」
「え?」
のんきな声をあげた当のフィシュアは、特段気にした風もなく純白の長裾を片手で膝上まで抱えたくしあげていた。
「一応持っておこうと思って」
へらりと笑ったフィシュアがドレスの中から取り出したのは短剣だった。見事な装飾の宝剣は確かに彼女が前にも使っていたものだ。
「そんなの隠し持っていたのか?」
「だって、自分の身は自分で守らなきゃ。水初の儀の時、殺されてから贄にされたんじゃたまんないでしょう? ディクレットさんはそんなことはないって言ってたけど……まあ、生贄の儀式には、そういう例もあるし念のために脚につけて持って来ていたのよ」
呆れた目で見れば、フィシュアはけらけらといつもの調子で笑った。
「武器を隠し持つ花嫁なんていないだろう……」
「あら、よくあることよ? 暗殺には有効な手段」
「どんな世界の花嫁だよ……」
「まあまあ、いいじゃない」
笑いながら、フィシュアはぽんぽんとシェラートの背を叩いてくる。
そのままシェラートは壁に向かって後ろから背を押された。
だが、フィシュアに入口が見えるはずもなく、危うく鍾乳石へと激突しそうになったシェラートは、文句を言いながら、なんとか軌道修正して壁の向こうへ踏み込んだのだ。
出た場所は人が一人ようやく通れるほどの狭い通路だった。その道もすぐ近くで終わっているらしい。
前をシェラートが塞いでいるせいでフィシュアには部屋の様子を窺い知ることができないが、先で開いている天井の具合で判断する限り、奥は広いようだ。
確かに何かの気配を感じる。
フィシュアが息を詰めたのと、シェラートが歩みを止めたのは同時だった。
様子を確かめたくて隙間を探したが、やはり見えるのはシェラートの背ばかりだ。
村人たちが口にした——いわゆる水の宮に相当するその入り口に、無言で立ち塞がっているシェラートが今、何を見ているのか、何を思っているかもわからなかった。
動きを止めたままのシェラートに声をかけるべきか、フィシュアは寸の間逡巡する。
刹那、シェラートのものでない声が、鍾乳石の壁に反響した。
「招いてもいない客が来たと思えば。成り上がりの魔人が私に何の用だ?」
聞こえてきたのは、美しいながらも嘲りを微塵も隠そうとしない低い声だった。
フィシュアは隠された先に目を凝らす。
そうして水の宮の主は客を迎え入れたのだ。