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ラピスラズリのかけら  作者: いうら ゆう
第4章 涼やかなる者
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第69話 水初の儀【2】

 祭壇から降りたフィシュアは、巫女の一人にいざなわれて祠へ足を踏み入れた。

 外からは降り注ぐ雨音がまだ聞こえてくる。

 天井が低いからか、奥から流れてくる水の香は祭壇よりもずっと濃かった。進むごとに冷気が足元からまとわりついてくる。

 辿り着いたのは祠と呼ぶには広く、洞窟と呼ぶには狭いぽっかりと開いた空間だった。

 人がちょうど十人程しか入らないその場所に、神官と巫女が三人ずつ灯火を手に立ち並んでいる。大神官であるらしい初老の男の隣には、ディクレットの姿もあった。

 神殿の中でも高位であるのだろう彼らの内から、左端にいた巫女が前に進み出た。ここまで案内をしてきた巫女からフィシュアを引き継ぐ。

「どうぞこちらに」

 フィシュアは促されるがまま示された台座へと腰掛けた。

 白石でできた台座はひんやりとして冷たい。滑らかな石の感触を指先で辿っていたフィシュアの前に大神官が立ち、一礼した。

 厳格な面立ちの大神官が纏う純白の衣は他の神官たちのものよりも光沢がありゆったりとしている。張り詰めた周囲の雰囲気とは裏腹に、大神官は意外なほど柔和に相好を打ち崩した。

「水神様からお許しを頂けて本当にようございました」

 穏やかな口調とは対照的に、大神官の目の奥には隠しきれない驚きが滲んでいた。

 それもそのはずで、そもそも神殿は水神の望みに応じ、水端みずはなの巫女を選んだわけではなかった。泉に住まう水神に贄を捧げることで、気を静めてもらい祈りを聞き届けてもらおうとしただけだ。

 部外者のフィシュアにしてみれば懐疑的なこの儀式も、この村にとっては意味があり、意味を持つほどには幾度か行われてきたものなのだろう。

 神殿にしてみても、常から意思疎通がはかれる神ではないのだ。水神に伺いを立てるという形をとったが、はなから水神の答えは期待できるものではない。

 だから、村人が意を唱えなかった場合にはフィシュアをそのまま水端の巫女に変わる生贄として捧げ、反論が大きかった場合には許しをもらえなかったとして、儀式自体を延期させるつもりでいた。

 そうすれば長引く水不足に焦る村人たちを宥め、落ち着かせることができる。

 神殿にとっては、水神の元にあがるのがメイリィであれ、フィシュアであれ儀式自体に不都合が生じるわけでもない。

 村人たちの前で水神に尋ねることで、どちらに転がっても神殿は正当な理由を得ることができるとディクレットは大神官たちに提言した。

 メイリィが倒れたのが儀式直前であり、他に代案を考える暇がなかったということもあるだろう。最終的に大神官はディクレットの案を受け入れた。


 だが蓋を開けてみれば、フィシュアの歌に呼応し雨が降った。

 雲のない晴天から降り注いだ雨は、集った誰もの頬を打ち、澄んだ泉の水面に波紋を重ね広げた。

 大神官も天を見上げた一人で、胸の内には確かな喜び共に隠しきれぬ戸惑いが沸き起こった。

 水神からもたらされた明確な許しは水神がフィシュアを選んだ証。

 前大神官がメイリィを水端の巫女とした理由とは違い、フィシュアが真に水神に受け入れられ愛された証だった。

 水初の儀の本来の意味を知っている者にとって、いまやフィシュアの方がより価値ある存在となっていた。

 降り注ぐ雨を一身に受け止めるフィシュアが、慈しむように天に向かって目を閉じたのをかいま見た時、大神官は水神に対して改めて底知れぬ恐れを抱いたのだ。


 大神官は、ほぅと敬服の息を漏らす。

「これで我が村も安泰でございます。どうぞ水神様によろしくお伝えください」

「ええ」

 フィシュアは微笑んで、こうべを垂れる大神官に頷いた。

 大神官は脇に控えていた神官から水の入った白い陶磁器を受け取った。清めの水に指を浸し、フィシュアの頭上に振りかける。

 ぱらぱらと無造作に降る冷たい雫がフィシュアの頬に触れた。

「お御足みあしを」

 大神官の促しに従い、フィシュアは長い裾の内から両足を伸ばした。ひんやりとした手が足に触れ、カチリ、カチリと音が鳴る。

 足首に加わった異物感と何とも嫌な予感のするその音に、足元を見下ろしたフィシュアは思わず苦笑いを浮かべそうになった。

 足枷が嵌められている。

 ご丁寧なことに重石まで連なっていた。元々メイリィに付けられるはずだった重い足枷は、フィシュアの足に付けられたことで隙間なくピタリと肌に密着していた。

 顔を上げると無表情の中にもディクレットが驚愕しているのが見てとれた。彼には知らされていなかったのだろう。

「フィシュア様、どうぞお手を」

 伸ばされた大神官の手に、フィシュアは無言で手を重ね台座から立ち上がった。

 ゆっくりと歩き出した大神官の後に、フィシュアが続く。

 重石が付いている足枷は重く、引きずる形になるものの、大神官は気に留める様子もない。引きずらなければならないほどには重石が重いことも承知しているようだった。

 そろり、そろりと奥へ向かう。進むごと低くなっていく岩の天井にゆらゆら揺れる光の網が映し出されたかと思うと、満々と水をたたえる水の淵が現れた。

 天井の端は泉の奥に沈んでおり、一見地底湖のようだった。

「外の泉と繋がるここが水の宮への入り口となります」

 大神官の指し示す通り、泉の淵には水底へ降りるための階段があった。

 この場に神聖さを見出すのも理解できる。自ら発光するように青く輝く泉は、はっとするほど美しかった。水底から浮き上がってくる泡が銀色に煌めく。

 大神官に促され、フィシュアは泉の中の階段へ足を差し入れた。

 かすかな水音と共に足元から円を描くように波紋が広がっていく。

 透き通る水は思っていたよりも温度があった。

 純白のドレスがふわりと広がり、水面を漂う。

 水を含み重くなりはじめたドレスの裾を、フィシュアは両手で手繰り水中へ押し沈めた。

 水圧に押されて均衡を崩しそうになるが、重石の付けられた足だけは確実に階段の面へと下ろされる。

 とうとう顎の下まで水が迫って来た時、フィシュアは気付かれぬよう静かに大きく息を吸った。

 意を決して、もう一段階段を下る。

 水面のゆらめきと共に完全に、フィシュアの姿が泉の中に消える。

 祠に集った神官たちは、静まり返った泉におごそかに頭を垂れた。



 目の前に広がるのは青いだけの世界。

 澄みきった水の中には魚影すらなかった。たゆたってきた自身の薄茶の髪をフィシュアは片手で後ろへ受け流した。

 重石の重みに助けられ、フィシュアは一歩一歩踏みしめるよう階段を下っていった。

 いくらか進んだところで、伸ばした足が突然水中を彷徨った。突然の浮遊感に、踏み外したのかと思い、足をかくが一向に階段に触れない。

 それどころか引き込まれるように身体が沈みはじめた。

 階段が終わったのだ。

 底まで続いているものと思い込んでいたフィシュアは、急に途切れた階段に驚いた。思いもよらなかった事態に思わず開いてしまった口から泡が立ちあがる。

 それとは対照的に重石のせいでフィシュアはどんどん水底へと引きずり込まれていった。

 意に反して暗い水底に落ちていくのを感じながら、フィシュアは口元を両手で覆う。息苦しさに顔を歪めた。

 失った空気は戻ってなどこない。水中で息を吸おうとあえげば、余計な水を飲み込むだけだ。

 理解はしていても、空気を求め勝手に口が開いた。

 衝動的に沸き起こった恐怖に頭の芯が痺れる。

 ゴボリと口元から音を立てて生まれた新たな泡が次々に水面へと浮上していく。

 銀に輝く泡はくるくると回りながら、ついにフィシュアの視界から姿を消した。



「――ゴホッ……ゴホゴホッ……!」

 両手に感じるのは柔らかな草の感触だった。肌に感じるのは暖かな日の光。

 背を叩く手に助けられ、フィシュアは水を吐いた。

「おい、大丈夫か?」

 掛けられた言葉にすぐに答えることなどできるはずもない。

 激しく咳き込み続けた後、なんとか呼吸を整えることのできたフィシュアは深く息をついた。ぽたぽたと雫を落とし続ける長い髪を耳に掛けながら、フィシュアはシェラートを睨みあげる。

「お、遅い……!」

 苦しさのためかうっすらと涙が浮かんでいる藍の目にはいつものような威力はなかった。

「仕方がないだろう。こっちからじゃ祠の中の様子は見えないんだから。ディクレットに聞いた大体の時間でやったんだ。早く転移するよりはましだろう」

 文句を言いながら、シェラートはフィシュアに向かって片手を振った。

 途端、フィシュアの身体の周りを暖かなものが包みこんだ。ぽかぽかとした陽だまりのような暖かさが濡れた身体や服を乾かしていく。

「そうだけど……危なかった。すっごく焦った」

「何でそんなに焦るんだ。予定通りのはずだろう」

「まあ、ちょっと予想外のことがあって。水の宮に続くっていう階段は途中で途切れるし。重石をつけられたから、どんどん身体は沈んでいくし……」

 疲れた、と言って身体を起こしたフィシュアは、今度は地面に後ろ手をつき、頭上の木々を仰いだ。乾きはじめた髪を心地よい風がさらう。

「重石?」

 怪訝に眉を寄せたシェラートにフィシュアは頷く。

「ディクレットさんも知らなかったみたい。あれはちょっと、いくらなんでも徹底的すぎるわよね。ほんっとメイリィと代わっていてよかった。あれじゃ絶対に逃げられない」

 投げ出したフィシュアの足に足枷がついているのを認め、シェラートは目をすがめた。

 カチリと音を立てて二つの足枷が外れる。

「ありがとう。これ、すっごく重かったのよ」

 ケラケラと笑いはじめたフィシュアに、シェラートは溜息を落とすと腰を下ろした。

「やっぱりメイリィを眠らせるだけでよかったんじゃないか? メイリィが目覚めるまで無期延期になれば、さすがに祠の周りの奴らも一旦引いただろう。その間に魔人ジンのところへ行けばよかった話だ。フィシュアがここまでする必要はなかっただろう」

「それはダメよ。だって、もしかしたら他の巫女や村の娘が選ばれる可能性だってあるでしょう? もし無期延期になったとしても、今度また同じようなことが起こったら、またメイリィが同じ目にあっちゃうじゃない。それなら、とりあえず私が儀式に出て、後で村に帰った時に水神の言葉として“嫁は必要ない”って伝えた方がいいでしょう?」

 フィシュアの問いかけに、シェラートは頷かなかった。

 難しそうな顔をしたままのシェラートに向かって、フィシュアはからかいを含んだ笑みを浮かべる。

「シェラートも大概心配性よね。今のところロシュとどっこいどっこいかも」

「そのロシュってのも大変だよな。こんな無茶ばっかりする奴とずっと一緒にいて」

「大丈夫よ。ロシュはもう諦めてるし。代わりにもれなく説教が付いてくるけど」

「それのどこが大丈夫なんだよ」

「いいのよ。結果よければ全てよし!」

「まだ終わってないだろう……」

 その瞬間、シェラートが漏らした溜息をかき消すように、泉近くから村人たちの歓声があがった。先程、フィシュアが歌を捧げた祭壇に神官と巫女が立ち並んでいる。

「終わったわね」

 フィシュアがにやりと笑った。全てが終わったわけではない。

 だが、とりあえず水初の儀は終わったのだ。

 儀式の終わりを告げた大神官を村人たちは喜びに溢れた歓呼の声で迎える。これから人々は村に戻り、祝いの宴をはじめるのだ。

 ディクレットの話によると村総出の宴は一日中続く。その間は儀式の片付けも行われない。

 つまり泉の傍にある祠に近寄る者は神官たちを含め誰一人としていなくなる。

 めでたく結ばれた水神と歌姫の初めての日をそっとしておこう、という配慮によるものらしい。

 その慣いはフィシュアとシェラートにとって好都合なものだった。

 次々と村へと引き返して行く村人たちを、二人は木立の影から見送る。

 がやがやと騒々しい村人たちの歓喜は次第に遠くなり、ついには消えて完全に聞こえなくなった。

 すっかり誰もいなくなってしまった泉には静けさだけが残る。

 その中で、泉は変わらず透き通り、晴わたる青空を映し出していた。

 フィシュアは勢いよく立ちあがる。


「それじゃあ、まあ、行きますかね。愛しき我が水神様の元へ」

 

 シェラートは差し出された手に無言で応えて、腰をあげた。

 言葉とは裏腹に向かい合う深い藍色の目には鋭さが宿る。

 純白の花嫁はドレスをひるがえすと、魔人ジンと共に水神の待つ水の宮へと向かった。

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