第68話 水初の儀【1】
「メイリィ様がお倒れになったらしい」
水初の儀が行われる当日の朝。
つい今しがた神殿に勤める親族から聞いてきたという男の言葉を皮切りに、村は騒然となった。
メイリィの様子がおかしいことに気づいたのは、部屋を訪れた世話役の巫女だった。いつもならとっくに目覚めている時間帯にも関わらず、メイリィが寝台から起きる気配はない。不審に思った巫女が呼びかけても、メイリィは目を覚さなかった。
血相を変えて飛び出した巫女が助けを求めたものの、誰が呼びかけても状況は変わらなかった。
原因はわからず、メイリィは今も眠り続けているという。
なぜこんなことに、と顔を突きあわせていた村人たちは、揃って表情を険しくした。
「大丈夫なのか? 水初の儀は今日なんだぞ?」
「そうは言っても、メイリィ様が倒れたんじゃ、どうしようもないだろう」
「さすがに何の病気かも知れないメイリィ様を水神様に嫁がせるわけにはいかないからな。水神様に失礼だ」
「なら、儀式は延期されるんだろうか」
「いや。宵の歌姫様がちょうどこの村に滞在していただろう? あの方がメイリィ様の代わりに嫁ぐことになったらしい」
「嫁ぐことになったって、そりゃあ、無理だろう。水神様が愛していらっしゃるのはメイリィ様だ。余計お怒りを買うに決まっている。大神官様は何を考えているんだ!?」
「そりゃあ、そうだが……でも、他に方法があるか? これ以上、日照りが続いちゃあ困る。いつになるかわからないメイリィ様のご回復を、待ち続けるわけにもいかない。だから、とりあえず宵の歌姫様に出てもらって、水神様にお伺いをたてるんだそうだ」
「伺いをたてるってどうやって?」
「そこまでは、知らない。だが、お許しが出れば、宵の歌姫様は水神様に嫁ぐことができる。お許しが出なかった場合は、やっぱりメイリィ様の回復を待ってから改めて水初の儀を行うそうだよ」
「……大丈夫なのか、それ?」
「さあな。俺たちはただうまくいくよう願うしかないだろう」
「そう……だな」
村人たちは、誰ともなく空を見上げた。
空に雨をもたらすような雲はない。ただうっすらと頼りない雲がたなびく青い空の下を一羽の茶の鳥が優雅に舞っていた。
不安と憶測が村人の間で飛び交う中、メイリィは村長の家に移されることになった。
水初の儀の間、神官と巫女はすべて出払い、神殿は閉ざされる。村人たちも皆、儀式に立ち会うことが決まっていた。
その間のメイリィの看病を申し出たのが、宵の歌姫と一緒に村長の家に滞在していた一人の少年だった。
ただ神殿としても、さすがに部外者である少年を神殿の奥に入れるわけにはいかなかった。かと言って、誰もつけずに一人神殿に残しメイリィの身にもしものことが起これば取り返しがつかない。
結局、メイリィ自身を村長の家に移してしまった方が、いくらかいいだろうということになったのだ。
神官のディクレットに抱かれ運ばれていく幼い水端の巫女の姿に、事の成り行きを見守っていた村人の誰もが息を呑んだ。
いつも明るく感情の機微を映し出していた澄んだ空色の瞳は、硬い瞼に閉ざされている。時折、吹く風や、運ばれる振動で細い金茶の髪が揺れる以外、腕の中のメイリィはぴくりとも動かなかった。
まるで現実味のなかった事実を、まざまざと突きつけられた村人たちの衝撃は大きかった。
どこか生気がなく、ぐったりとして見える水端の巫女の姿に涙する者もいた。
二人が村長の家に出迎えられた後。閉じ切られた扉を、村人たちはそれぞれ複雑な面持ちで眺めた。
村長が用意したのは二階の一室だった。
ディクレットが、メイリィの身体をそっと寝台に横たえる。昏々と眠り続けるメイリィは掛布が掛けられる合間も、穏やかな微笑みを浮かべていた。
今にも息を引き取ってしまいそうな姿に、堪え切れなくなったらしい。村長はメイリィを一瞥した後、目を伏せて足早に部屋を出て行った。
それを見計ったように、鳴らされた叩音にディクレットは入室を促す。
すぐに扉を開けて入ってきた栗毛の少年に、ディクレットはわずかばかり場所を譲った。
寝台の端を握りしめたテトは、眠るメイリィの姿をじっと見つめる。
「大丈夫なんだよね?」
「ああ」
応じたシェラートに続いて、入ってきたフィシュアが静かに扉を閉めた。
「ディクレットさん、神殿の状況はどうですか? 私への決定が正式に言い渡された時も、まだ納得のいっていない人がいたみたいですが」
「随分落ち着きました。そも大神官様の決定を覆せる者などおりませんが……審議の間も、神殿を出る瞬間も、メイリィ様は目覚める兆しを見せなかったのです。疑っていた者ですら、何か恐ろしい奇病に罹ったのだと信じたようです」
「よかった」
フィシュアはひとまず安心して、テトの両肩に手を添えた。
寝台で眠るメイリィは、声をかけても、身体を揺すっても目を覚ますことはない。一定の間隔で繰り返される呼吸も、普段より緩く、わかっていても随分と心許ないものに思えた。
皆が見守る中、シェラートがメイリィの額に片手を触れさせる。同時に金茶の睫毛がゆるりと瞬いて、しだいに空色の瞳が覗いた。
「メイリィ様……」
ディクレットはほっと安堵の溜息を洩らした。魔人の力を目の当たりにするのは初めてだったのだろう。
あらかじめ聞かされてはいたもののディクレットもまた、メイリィがこのまま目覚めないのではと不安だったようだ。
まだ完全に覚醒してないらしい頭で、視線を巡らせ辺りを把握しはじめたメイリィに、テトが「おはよう」と笑いかける。
もう会うことはないと思っていたテトの姿に、メイリィは心底驚いたように目を丸くさせた。
「メイリィ、勝手に寝かしつけてごめんなさい」
膝をつき、傍に腰を下ろしたフィシュアの言葉に、メイリィは目を瞬かせる。
フィシュアが身に纏っているのは丈の長い純白のドレスだった。
動くたびに、ひらりと薄く広がるドレスには、無数の真白な石粒が刺繍と共に縫いつけられている。一つに纏められていた薄茶の髪も、今日は下ろされていてドレスの白さを柔らかに彩っていた。
これまでの質素な装いとは明らかに異なる見事なドレス姿のフィシュアを、メイリィはぼんやりと見つめる。
フィシュアは微笑う。
「メイリィ、あなたの願いを叶えるわ。あなたは今日一日、ここでテトと遊んでおくの。水初の儀には私が出る」
瞬間、フィシュアが纏う衣装の正体に気付いたメイリィは、起き上がった。激しく頭を横に振り、声の出ない口を動かして、必死に訴える。
「大丈夫よ。まったくもって問題はないから」
請け負うフィシュアに、メイリィはなお一層首を振った。どこか怒ったようにフィシュアを真っ向から見据え、自分の胸を拳で二回打つ。
「“これは、私の役目だから”?」
まるですべてわかっているとでも言うように覗き込んでくる深い藍の瞳に、メイリィは目を瞠った。淡く輝く金茶の髪をフィシュアがさする。
「私も昔よく自分に言い聞かせてた。“これは、私の役目だから”ってね。だから、あなたが自分の感情を押し殺して我慢してきたのがよくわかる。でもね、だからこそ頑張ってるあなたに、何の意味もないことで死んでほしくはないのよ」
しかし、メイリィは頑として意志を曲げようとしなかった。すっかり弱りきって、フィシュアは他の三人を見渡す。
その様子に、シェラートは半ば呆れながらフィシュアを見返した。
「フィシュアは説明が足りないんだよ。そんな言葉だけでメイリィが納得できるはずがないだろう?」
「そうは言っても、水初の儀までもうあんまり時間がないでしょう? あ、でも後は、ベールを被るだけだし泉まで転移すれば大丈夫かしら?」
「転移って、村人が全員集まってる前に突然現れる気か?」
「何言ってるの。そんなことするわけないじゃない。泉の外れに転移するのよ。それなら問題はないでしょう?」
「見られたらどうするんだ、見られたら!」
「見られたら、その時はその時よ。むしろ神秘性が増していいかもしれないわね?」
首を傾げ、フィシュアは悠然と笑みを浮かべた。
今にも頭を抱え出しそうなシェラートを尻目に、ディクレットは屈み、メイリィと視線をあわせる。
「メイリィ様」
呼ばれた名にメイリィは背筋を伸ばした。けれども緊張するメイリィとは対照的にディクレットは穏やかな微笑みを向ける。
「フィシュア様の言う通り、あなたはずっと頑張ってこられました。それを一番近くで見てきたのは私です。そして、メイリィ様に我慢を強いてきたのも私自身です。ですから、あなたが納得のいかない気持ちも重々承知しています。
ですが、私からのお願いを聞いてください。メイリィ様には水初の儀には出てほしくないのです。水神様の元になど行ってほしくはないのです。あなたには今までと変わらず、この村で笑っていてほしい。
大丈夫です。メイリィ様が恐れているようなことは決して起きません。だから、彼らを、私たちを信じてここで待っていてください」
ディクレットの言葉に、メイリィは首を傾げた。
幼い水端の巫女にディクレットは深く頷きを返す。
「いいのです。もちろんですよ、メイリィ様。今日まで随分と不安な思いをさせてしまいました。きっとずっと怖かったのでしょう? わかっていて何もできなかった私を許してください」
メイリィはぶんぶんと首を横に振る。空色の両の瞳からは涙がとめどなく溢れはじめていた。
静かに泣き続けるメイリィの頭を、テトがゆっくり撫でる。
「大丈夫だよ、メイリィ。絶対、全部うまくいくからね。詳しいことは後でちゃんと僕が説明してあげる。そうしたら、きっとメイリィも安心できると思うよ? だから、僕と一緒にここでみんなを待っていよう?」
心配そうに覗き込みながら、テトははっきり「大丈夫」と断言した。
メイリィは涙を目に溜めたまま笑みを浮かべる。そうしてようやく、こくりと頷いた。
水初の儀を執り行う泉へフィシュアたちがと到着した時には、村人の大半が既に集まっていた。
以前来た時と変わらず水神がいるとされる泉はわずかな水紋さえなく張り詰め、静まり返っている。だが、周りに集まる人の多さと熱気が、先日とは異なる雰囲気を醸し出していた。
離れた場所から泉の様子を確認していたフィシュアの前で、ディクレットは深々と頭を垂れた。
「あなたには感謝してもしきれません。本当にありがとうございました」
フィシュアは苦笑する。
「頭を上げてください、ディクレットさん。今回のことは決して私たちだけの力ではないでしょう? 大神官様を説得してくださったのはディクレットさん、あなたです。それは、私たちの誰もできないこと。あなたにしかできなかったことです。そして、それこそ最も重要だった。だから、こちらこそありがとうございました」
しかし、と反論を口にしようとするディクレットを、フィシュアは制した。
「さあ、行きますよ。儀式はまだ終わっていません。これからが、はじまりです。まだまだ気は抜けませんよ?」
いたずらっぽく言ったフィシュアに、ディクレットは「そうですね」と顎をひく。これから二人は、連れ立って神官たちが待つ控えの場に向かう手筈となっていた。
「フィシュア」
ふと呼ばれ、フィシュアは視線を向けた。
祭場からは隠れる木立の影に、シェラートが立っていた。シェラートとは一度ここで別れることになっている。
「大丈夫か?」
少なくない心配を含んだシェラートの声音に、フィシュアは艶やかな笑みを刷いた。
「大丈夫よ。することはいつもと同じ。心を込めて歌うだけ。今日だけは水神様への願いも込めてね。あなたこそ大丈夫? しっかりやるのよ、失敗は許されないんだから」
「それはこっちの台詞だ……」
心配が呆れに変わったことを感じて、フィシュアは声を立てて笑う。
「それじゃあ、後は任せたわ」
泉の端、祠の隣に設置された祭壇へフィシュアはあがった。
神官や村人たちが、固唾を飲んで見守っているのを肌で感じる。
心地のよい緊張感の中、フィシュアは水神の住む泉へ向けて二度深く礼をし、前を見据えた。
身の奥深くまで、息を吸い下ろし、朗々と歌いあげる。
水に おわすは 雲の神
水に おわすは 雨の神
溶けた水は 雫となって
大地を潤し 緑を育てる
溶けた水は 雫となって
やがて大河を 創り出す
我らは 今 雨を求む
我らは 今 命を求む
雲に おわすは 水の神
雨に おわすも 水の神
どうか我らに 一粒の情けを
空気を震わす雨乞いの歌に耳を澄ませていた村人は、歌の余韻が消えた後も何も変わらぬ泉の様子に落胆した。
――やはり、水神様に拒まれたのだ。
この場に集った誰もがそう思った時、一人の女の頬に一粒、雫が落ちた。確かに頬に感触を感じた女は天上を見上げる。
顔をあげた先には、晴れ渡る青空が広がるばかり。首を捻った女の横で、一人の老人が「あっ」と声をあげ、同様に空を見上げた。
それをきっかけに、至るところで村人たちが顔を天へと向けはじめる。
ぽつぽつと落ちてきていた雫は、やがて音を立てて大地へと降りたった。
「雨だ……」
陽光に照らされた雨の粒は、七色の大きな橋を生み出した。
現れた虹と、降り続ける雨に村人たちは信じられぬものを見るようにしばし口を閉ざした。
しかし、それも一瞬のこと。
溢れだす喜びに村人は次々と口を開きはじめる。
「お許しだ……! 水神様が宵の歌姫様のお嫁ぎをお許しになられたぞ!」
泉を囲む村人の歓喜は、その日、久方ぶりに降った雨音と共に辺りに響き渡った。