第64話 水端の巫女【7】
「じゃあ、行ってくるね!」
言うが早いかテトは扉を開けると元気よく外へ飛び出して行った。
窓の向こうではメイリィがテトに向かって嬉しそうに手を振っている。
「すっかり仲よしになっちゃったわね……」
雲一つない青空の下。丘の方へと駆けて行ったテトとメイリィを、フィシュアは感慨深く見送った。
昨日、そろそろ陽が暮れはじめるかという頃合に帰ってきたテトは、部屋につくなり、まっすぐに机へと向かった。
いったいどうしたのか、とフィシュアとシェラートが小さな背の後ろから覗きこむと、テトは村長から借りてきたらしい紙を机上に広げ、インクペンで文字の書き取りをはじめた。
「……テト? そこ、間違ってるわよ?」
「あ、ほんとだ! ありがとう、フィシュア」
テトは指摘された間違いをインクで黒く塗りつぶすと、その横に正しい文字を書く。
落ちはじめた陽は瞬く間に翳りはじめ、同時に部屋も徐々に薄暗くなってきた。それでもまったく意に介した様子を見せないテトは黙々と文字の基本表記の書き取りを続ける。
目が悪くなる、とシェラートが明かりを灯したランプの一つをテトの手元に置いた時も、テトは気づかないようだった。
「なんだか、すごい勢いね……」
「ああ……」
テトが勉強熱心で飲み込みが早いということは、よく知っていたつもりだった。
ただこれまでは、フィシュアから提案して行っていた勉強の時間以外、テトが自主的に書き取りの練習をすることなど一度もなかった。
そんな余裕がなかった、と言えばそれまでだが、無心でひたすら手を動かし続けているテトの様子は、フィシュアとシェラートに少なからず衝撃を与えた。
二人が唖然として見守る中、白かった紙は一枚、また一枚と黒く塗りつぶされていった。
放っておけばいつまでも止まりそうにないテトの様子に、フィシュアがとりあえず夕食をとろう、と提案してようやくテトは文字の練習を中断した。
「急にどうしたの、テト?」
出された根菜の煮物をつつきながらフィシュアが尋ねると、テトは口に含んでいたものをごくりと飲み込んで言った。
「んっとねぇ、メイリィが話をする時、地面に文字で書いてくれるんだけどね、僕、全部はわかってあげられなかったから。せっかくフィシュアから習ってたのに、ちゃんと覚えてなかったから読めなかったんだ。今日そのことに気付いたんだよね。だから、明日こそはメイリィが言いたいこと、きちんとわかってあげられるように今日のうちに文字をしっかり復習して完璧にしておこうと思って」
急いで夕食を食べ終えたテトの勉強は、夜更けまで続いた。結局見かねたフィシュアが「もう寝なさい」と諭しつけるまで、テトは何度も何度も同じ文字をひたすら書き取り続けていたのだ。
「うーん、初恋かしら?」
思いの外のんきに放たれた言葉にシェラートが目を向けると、フィシュアはまだ駆けてゆく窓の外の二人を見守っていた。
藍の眼差しがひどく穏やかであるのと対照的に、口元にはニヤニヤと隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「……楽しそうだな」
シェラートが呆れて言えば、フィシュアが振り向いた。その口元にはやはり先程と同じ笑みが刻まれている。
「そりゃあ、楽しいわよ。テトはメイリィと話したいってだけで、昨日あんなに一所懸命頑張っていたのよ? あれだけ努力していたんだもの。きっと今日は詰まることなく会話もできるでしょうね。微笑ましいわ」
「昨日はテトとメイリィが仲よくなることを危惧していなかったか?」
シェラートが指摘した瞬間、フィシュアの笑みが苦いものへと変わる。
テトたちの姿はもうすっかり見えなくなっていた。それでも窓の向こうのその先へ、フィシュアは目を凝らす。
「そりゃあ、今だってしているわよ。特に明日は水初の儀があるから、本当に心配だけど。でもね、今日は少なくともテトにはよかったかなって。儀式がはじまる前に水神がいるっていう泉に行ってみようと思っていたから。テトは明るく振る舞ってるけど、お母様が亡くなった原因を作ったジン《魔人》と会わせるのはちょっとね……」
「まあ、そうだな……」
シェラートはやりきれない気持ちと共に同意した。腰かけていた椅子から立ちあがる。
「なら、さっさと行くか。メイリィは明日の支度があるから、昼過ぎには戻ってくるってテトが言ってたろう。テトが戻って来た時、俺たちがここにいなかったらテトが心配するからな。早く行って、テトが帰ってくるまでに戻らないと」
水神がいるとされている泉は村のはずれにあった。
村長から教えられた道筋通り、村を出て林まで続く道を歩く。水源が近いからか、乾いた村の畑に比べ、林の木々の葉はまだ青々としていた。
三十分程行くと間もなく、フィシュアとシェラートは泉へ辿り着いた。
目の前に広がる泉は、村にあった畑一つ分の大きさほどもない。
しかし、村人たちが畏敬の念を抱くのも納得できる美しさがその泉にはあった。
水鏡とはこの泉のことを指していたのかというほど、空をそのまま落としたかのような泉は青く澄んでいた。風が吹いても微かなさざなみさえたたず、張りつめた水面は冷え冷えとしていて、確かにどこか神聖さを持ちあわせている。
ただ、当の二人には神秘的な泉の風景に心を寄せる余裕はなかった。
「これ、は……今日は、ちょっと無理ね」
「だな……」
少なくない驚きを含んだフィシュアの声に、シェラートが頷く。
泉に隣接する小さな石造りの祠。
水神を祀るために建てられたのであろうその祠のまわりには黒と白の衣を纏った人々の姿が多くあった。
黒衣を纏っているのは男性。白衣を纏っているのは女性。それぞれがディクレットとメイリィの服装に似ているから、神殿の神官と巫女たちなのだろう。皆、忙しそうに祠の周りを動きまわっていた。
水初の儀の準備にある程度人がいるだろうとは踏んでいたが、想定外の多さだった。メイリィの準備は昼からだと聞いていたから朝のうちならと思っていたが、想像以上に大掛かりな儀式なのかもしれない。
ガンジアル地方の極端な水不足の原因の主である魔人に会わなければと気負っていた分、フィシュアの落胆は大きかった。
「場所としては、ここで間違いない?」
「間違いない」
シェラートにすげなく断言されて、フィシュアは反射的に眉根を寄せた。それでも他に方法はないかと、望みをかけてフィシュアは口を開く。
「……その魔人に会うためには絶対にここじゃなきゃダメなの? 水の宮って泉の中にあるんでしょう? 裏からまわって、こっそり入れないかしら」
「残念だが無理だな。水の宮があると言っていたが、泉そのものに魔力の気配はない。魔人がいるのは、泉とは違う別の場所だろう。ただ道自体はしっかりあの祠近くで繋がっている。入り口らしきものは、そこだけで他になさそうだ。祠に近づけば、どうしたって神官たちの目につくだろう。だから、話をつけるとしても水初の儀が終わってからだな。今、行くのは断念するしかない」
「泉の中に水の宮がないって、それじゃあ本当に水神も水初の儀も名ばかりじゃない!」
声を抑えたまま言い募ったフィシュアの詰りを、シェラートはあっさり認める。
「まぁ、そうなるな。元々、魔人は契約で結ばれない限り、自分の意志以外で力を使うことはない。契約だって魔人にしてみれば、半分以上は力試しの遊びだ。魔人より階位が上の魔神なんかは人間と契約すら結ばないと聞くしな。
フィシュアもテトに言ってたろう。たまたま魔神や魔人が力を使っているところに出くわした人間たちが勝手に神として崇めているだけだ。自分が神として称えられているのを知っていたとしても、ほとんどの奴は興味がない。興味がないから、そのまま放置して人間のやりたいようにやらせている。願いを叶えてやる奴もいるかもしれないが、ほとんどが単なる気まぐれだろう。そんな奴らにどんなに捧げ物をしたって、願いを託したって同じだ。望みが叶えられることはまずないと考えた方がいい」
「つまりここも神の名自体が名ばかりってわけね」
「そうだな」
「それじゃあ、あの子……メイリィは本当にまったく何の意味もないことで殺されるってわけ?」
フィシュアは祠に向かって薄ら笑いを浮かべた。さも意味ありげに大勢の神官によって整えられつつある形だけの祠から背を向ける。
憤りを隠しもせず無言で歩き出したフィシュアの背について、シェラートもその場から離れた。乱雑に歩を進めているせいか、前を行く一括りの薄茶の髪がいつにも増して大きく揺れている。
「テトにどうしようもないとか言っておいて、自分はどうにかしようとしていたのか?」
追いついたシェラートが指摘すれば、フィシュアは鋭く睨んでくる。
そのまま互いに押し黙ってしまったところで、フィシュアはふいに顔をそらした。苦々しげに、口を開く。
「どうしようもないことだからこそ、どうにかしたいと思っちゃうのよ。今日、魔神に会ってペルソワーム河の水を元に戻すことができれば、水初の儀も中止にできると思ったの。水さえ元通りになれば、村の人たちを説得する方法はいくらでもあるでしょう? 聞き耳だって持ってくれるだろうし」
「けど、今日は無理だぞ?」
「わかってるわよ!」
歩調をあげはじめたフィシュアにあわせて、シェラートも歩幅を広げる。
それに気付いて走り出そうとしたフィシュアに呆れながら、シェラートはまだ近くにあった長い髪の先を引っ張って強引にそれを止めた。
「ちょっと、痛いじゃない!」
「急に走るからだろうが」
「だからって引っ張ることないでしょう!?」
振り向きざまに文句を口にしたフィシュアは、ますます不機嫌そうにシェラートを睨んだ。
「お前は本当に言ってることと、やってることが矛盾してるよな」
「――うるさいわね! これでも一応自覚してるわよ!」
頬に朱を散らして怒っているフィシュアに、シェラートは苦笑をもらした。
それすら不服だったらしいフィシュアは、シェラートに向かってあからさまに半眼する。
「わかっているならいい。だけど、フィシュア。もう一つ自覚してるだろう。そっちは間違ってる。メイリィはフィシュアじゃない。立場上、似ている部分があるのはわかってるが、自分と重ねすぎるな」
動きを止めたフィシュアを諭すように、シェラートは彼女の頭をぽんと叩いた。
そのまま横を通り過ぎていったシェラートの背を、フィシュアは呆然と見送る。
「……どうしてわかったんだろう」
思わず漏れてしまった言葉は、どこまでも独り言に近かった。
それでも微かな呟きは、シェラートの耳にきちんと届いてしまったらしい。
いくらか先で歩みを止めたシェラートが、立ち尽くしたままのフィシュアに向かって苦笑する。
「フィシュアはすぐ顔に出過ぎなんだよ。早く戻るぞ。いつまでもここにいたらテトが帰って来るのに間にあわなくなる」
「……あ、うん。そうね」
フィシュアは、慌てて歩を踏み出した。
急かしながらもシェラートはそれ以上は何も言わずに待っている。フィシュアが追いついてようやく、シェラートも再びその歩を進めた。