第59話 水端の巫女【2】
「魔人だ」
確認を終えて立ち上がったシェラートが断言する。
どこかで予想のついていた内容に確信を与えられ、フィシュアは「やっぱり」と呟いた。
どう考えても目の前に広がる光景は、人の力を外れた類のものだった。魔法が使える者なら魔女と賢者もいるが、この国にいる彼らに会ったことのあるフィシュアは、彼らが河の水をこのような形で遮断する人たちではないことを知っている。
「だけど、どうして魔人だとわかるの? 魔法なら魔神の可能性だってあるんじゃない?」
フィシュアの率直な疑問に、シェラートは「いや」と首を振った。
「魔神なら、こんなにあからさまな痕跡を残すような真似はしない。よくも悪くも力があり余っているからな。わざとでない限り、もっとうまくやるだろう。それさえできていないってことは、頭も力も劣っている魔人の仕業ってことだ。力を誇示したがるバカが多いからな」
刺々しい言葉を吐いたシェラートに、フィシュアは呆れながら、あなただって魔人じゃない、と言おうして、言葉を飲みこんだ。
シェラートが怒っていることに気づいたのだ。
自身の両拳を握りしめ、見たこともない形相で目の前にある消えた河を睨みつけているシェラートの肩をフィシュアが軽く叩く。
「テトが見てる」
溜息を零すようなフィシュアの呼びかけに、シェラートは我に返った。そっと肩越しに振り返れば、こちらに来るのはためらわれるのか離れた場所からテトが心配そうに見上げていた。
「シェラートが憤る気持ちもわからなくはないけどね、私だって怒りを覚えるし。だけど、どうにもならないでしょう? 河に向かって怒ったって。過去は変えられないし、あなたのせいでもない。テトに心配をかけるなって怒ったのはどこのどなた?」
フィシュアは哀しげに微笑し、シェラートの拳を叩いた。やおら緩んだ隙を見逃さず、フィシュアはシェラートの拳を解いていく。
開かれた掌にはうっすらと血が滲んでいた。
「それに、こんなに強く握りしめたら傷になっちゃうでしょう? 私とテトには傷を治してあげる力なんてないんだからね」
「……悪い」
シェラートは自分の手の内に視線を落とした。重い息を吐き出して、両手を重ねあわせて己の傷を消す。
跡形もなく消えた傷の上に重ねるように溜息を落としたシェラートの背を、フィシュアは今度こそ容赦なく叩いた。
バシッという景気のよい音が響く。シェラートが睨むと、フィシュアは腰に手をあて、にやりと口の端をあげた。
「悪いと思っているなら、テトに謝ってきなさい!」
フィシュアに苦笑を返しつつ、言われた通りシェラートはテトの元へと向かった。見つめてくるテトの栗色の頭をぽんぽんとなでる。
「悪かったな、心配かけて。何ともないから、もう行こう」
「本当にもう大丈夫なの?」
心配そうに問いかけてくるテトに「ああ」と頷き返し、シェラートは慣れた手つきでテトを持ちあげた。
シェラートがテトを抱えたまま、フィシュアの元へと戻り、次いで馬の方へと向かう。
「さあ、じゃあ次に行くか」
「次って、ここから先どこに行くのよ?」
シェラートと共に馬の方へと歩みを進めつつ怪訝そうに尋ねるフィシュアに、シェラートは「簡単だ」と答えた。
「魔人が関係しているなら、その魔力を辿ればいい。さっき言っただろう、痕跡が残っているって。さっきの河には魔力の残り香がありありと残っていたからな。それを辿るのは簡単だ」
「魔力って匂いがするの……?」
「僕には何の匂いもしないけど」
フィシュアが不審そうな顔になり、テトはくんと鼻を動かしながら眉根を寄せる。
シェラートは噴き出した。
「悪い、そうじゃない。言葉のあやだ」
確かに俺も匂いはしないな、とシェラートは笑った。
「だけど、どうして誰も気づかなかったんだろうね」
再び馬に乗り歩を進めていると、テトが唐突に疑問を口にした。テトは答えを求めるように首をそらして見上げてくる。手綱を握るシェラートは、前に座るテトが間違っても落ちないよう、テトの額を押さえた。
「だって、おかしいと思わない? あんなに急にぷっつりと河が途切れてるんだよ? 絶対に誰か気づいたはずじゃないか」
「あら、テト。よく気づいたわね」
テトの言い分はもっともだ。
フィシュアは、その点に気がついたテトを馬上で褒めつつも「けどね」と続けた。
「テト、辺りをよく見回してみて。私たちの他に誰も見当たらないでしょう?」
フィシュアの問いに、テトが頷く。
ここから見えるのは横を流れるペルソワーム河と、やわらかく瑞々しい青葉、ぽつぽつと見かける灰色の岩、そして晴れ渡る雲一つない青い空ばかりだ。
「もう少し――あと一時間もすれば、また道と合流するけどね、ペルソワーム河のどこで異変が起こっているのか知りたかったから私たちはわざと道を外れて河沿いを歩いてきたでしょう? だからほら、ここも道が整備されてない。理由がない限り、人は皆、道があるならそちらを通るわ。そっちの方が安全だし、次の街へ最短距離で繋がっているからね。だから、あの場所にわざわざ立ち寄る人なんていなかったのよ。結果、水が減ってしまった原因に誰も気がつかなかった。まさかあんな形でなくなっているなんて夢にも思わないでしょうしね。水が減っているっていう地域は雨も長く降っていないらしいから、河の水量が減ってしまったのはそれが原因だと単純にそう思ってしまったのでしょうね」
そっかぁ、と呟き、テトは馬上から傍らに見える大河を見下ろす。
水がほとんどないその河は、ちょろちょろという心許ない微かな音を立てながら、テトたちの進行方向へと流れ続ける。
テトは水が流れるその様を、そして、少ないながらも確かに流れて行くその先をぼんやりと眺め続けた。
風がそよぐ。
水晶がいくつも連なる飾りを首にかけ、白い衣に身を包んだ少女は、風が吹いてきた方へと目を向けた。
風に巻きあげられた金茶の髪を手で押さえ、顔をほころばせる。
「メイリィ様! どこへ行かれるのです!」
青々と茂る柔らかな草を蹴って駆けだした少女は後ろからかけられた男の声に身を翻らせた。彼を振り返った少女は、後ろ手に両手を組んで、楽しそうに口をゆっくり大きく動かす。
『お・きゃ・く・さ・ま!・は・な・を・つ・み・に・い・か・な・い・と!』
村へと繋がる外の道を指し、咲き乱れる花畑へ再び軽やかに駆けだした少女の言葉に男は眉をひそめた。
「よりによって、こんな時期に客とは……。部外者に邪魔をされなければいいんだが」
男の懸念は誰に聞こえるでもなく、風に吹かれ、澄んだ空の下、溶けて消えた。