第57話 三番目の姫と魔神
「これはね、私のおばあ様から聞いた話なの」
フィシュアは、テトが寝台に入ったのを確認すると、その前に椅子を置いて座った。歌う時とは異なる安らかな声で、耳を傾けるテトにフィシュアは話し出す。
「このラピスラズリがこのダランズール帝国のまもり石になったのはそんなに昔のことじゃないの。元々ラピスラズリが魔に対して強い影響力を持ってると教えてくれたのが今から話す御伽話に出てくる魔神なのよ」
「じゃあ、その話は実際にあった話なの?」
テトの問いにフィシュアは笑った。
「さあ、そう聞いてるけど。実際に見たわけじゃないから何とも言えないわね。 とにかくこれは、二百年と少し前のお話。
昔々、この国にはとっても綺麗なお姫様たちがいました。その中でも一番の美人だったのが、トゥッシトリア。三と姫で、三番目の姫よ」
前に習った数字の言葉が出て来て、テトは「なるほど」と頷く。
「月夜に淡く光る茶色の髪に、太陽に煌めく海と同じ青色の瞳。誰もが彼女を美しいと褒め讃えたわ」
「なんだかフィシュアみたいなお姫様だね」
「何、テト? 嬉しいこと言ってくれるじゃない」
ふふふ、とフィシュアは満更でもなく笑って、テトの頬をくすぐった。
「テトはフィシュアが美人だとは一言も言ってないだろうが」
「ちょっとシェラート。水差さないでちょうだい!」
フィシュアの藍の双眸がキッと睨みつけてくる。シェラートは肩を竦めて、小さく嘆息するに留めた。
「とにかく三番目の姫の美しさは他国にも響き渡ったほどでね、この世界にその名を知らぬ者はいなかったのよ。だけどある日、三番目の姫は隣国への旅の途中に恐ろしい魔物に攫われてしまったの。その魔物は巨大な身体に、牛を一呑みにするほどの大きく裂けた赤い口、ぎょろりとした三つの目、二つの角を持ったそれはもう恐ろしいものだった。勇敢な男たちはこぞって、自分が姫を助けるのだ、と意気込んで出かけたわ。それこそ何百、何千人、各国の王から平民までさまざまな民族身分の男たちがね。けれど、誰も三番目の姫を助けることができなかった。それどころか、帰って来ることができた者はほんの一握り。その男たちの誰もが魔物と対峙した時の恐ろしさを思い出して、家から一歩も出てこられなくなった。勇敢だった誰もが、帰ってきてからは人が変わったように怯え暮らすようになってしまったそうよ。それからは、誰も三番目の姫を助けようとする者はなく、みんなは三番目の姫のことを諦め、忘れようとした。
だけど、ただ一人、三番目の姫を助けだそうと名乗りをあげた者がいた。それが……」
「魔神だったんだね!?」
キラキラと瞳を輝かせて見上げるテトにフィシュアは頷いた。
「そう、魔神。唯一、魔物と対峙できるほどの強い力を持った存在。しかも、その魔神は、魔神の中の魔神。魔神の王様だったの。魔神は、みんなが苦労しても倒すことのできなかった魔物を圧倒的な力であっさり倒して三番目の姫を助け出したわ。そして、魔神は自身が助けだした姫に一目で恋に落ちるの。三番目の姫もまた自分を救ってくれた魔神に恋をする。
だけど、ここで問題が一つ。魔神はなかなか歳を取らない」
フィシュアがぴしりと掲げた人差し指を、じっと見つめながらテトは首を傾げた。
「それのどこが問題なの?」
どちらも好きならそれでいいじゃないか、という顔をしているテトにフィシュアは説明する。
「それこそが二人にとっては大きな問題だったのよ、テト。魔神と魔人は人の何百倍もの長い歳月を生きるの。彼らの寿命は人よりも途方もなく長いのよ。ほら、シェラートだって若そうに見えるけど実は二百歳をゆうに超えているでしょう? 私たちのひいおじいさんの、そのまたひいおじいさんよりも、おじいさんなのよ?」
そっか、とテトは寝台の中で感心したように頷いたが、当のシェラートはフィシュアの説明に顔をしかめた。人間の寿命に対して、自分の年齢がどういうものか認識はしているものの、こうも年寄り呼ばわりされるのは、やはり嬉しいものではない。
「つまりね、三番目の姫が歳をとっておばあさんになっても、魔神はまだ若いまま。魔神の力をもってすれば姿形を年老いた姿に変えるのは、きっと容易いのでしょうけど、彼は確実に三番目の姫の寿命が尽きる日を目の当たりにする。一人、老いて弱っていく三番目の姫の姿を見届けなくちゃならないわ。自分は一緒に歳を取れない、必ず置いて行かれるという辛さを抱えながらね。だから、このことは二人にとっては大きな問題だったのよ。特に魔神にとってはね。
そうして、もう一つの問題もあったの。こちらは三番目の姫が姫であったということ。三番目の姫は六番目以下の末の姫君たちではなくて三番目という割と上位の姫だったから、果たす役目も、その大きさも末姫たちの比ではなかったの。だから皇帝、皇妃、皇子、皇女といった皇宮に住まう誰もが三番目の姫を魔神に渡すことを反対した。けど、まぁ、こっちはすぐに解決したのよ。それが、この国のまもり石であるラピスラズリと関係してくるの。魔神は彼らから三番目の姫を貰い受ける代わりに、彼ら皇族に魔に対抗する絶対的な手段であるラピスラズリの力を与えた。そして、その力が子々孫々代々受け継がれるよう守をかけた。だから、皇族が持つラピスラズリは他のどのラピスラズリよりも絶対的な力を持っていると言われているの。
さて、話を戻すわね。こうして、三番目の姫と魔神は誰に文句を言われることもなく一緒になることができたんだけど、さっきも話した通り、魔神が魔神であること自体が問題だったの。二人は世界中を飛びまわって、魔神が人間になれる方法を探したわ。けれど、そんな方法なんてどこを探してもとうとう見つからなかったの。二人は諦めるしかなかった。そして、それと同時に、魔神は三番目の姫から離れることを決意したの。彼は自分と一緒にいたら彼女もまた同じくらい苦しむことを知っていたから。自分と別れた後、三番目の姫が苦しんだとしても、彼女が新たな幸福を見出してくれるなら、その苦しみは長く続く苦しみよりも遥かに短い。だから、魔神は三番目の姫との別れを選んだ。そして、最後に自分の持てるありったけの力を込めて三番目の姫への守護と幸福をあわせ持った別れの口付けをした。
そしてね……、魔神が三番目の姫に口付けたその瞬間、突然魔神の片腕の紋様が光り出したの。もちろん、人間である三番目の姫には魔神の紋様なんて見えなかったのだけど、急に輝きだした光に目がくらんで瞳を閉じた三番目の姫が次に見たのは、呆気にとられて口を開けた彼だった。そして、彼は言ったの。『紋様が消えた』って。紋様は魔神が魔神たりえたる証。紋様が消えたってことは……」
「魔神は人間になれたんだね?」
「そう、その通りよ。愛する三番目の姫との口付けによって人間になった魔神はその後、皇都から少し離れた川辺に移り住み、二人は末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
パチパチと拍手をしながら、「よかったねぇ」と感想を漏らすテトの頭をなで、フィシュアはテトの手を掛布の中へと入れてあげた。
「さあ、御伽話も終わったことだし、テトはもうお休みの時間よ」
はーい、と元気よく返事をしたテトの口が、そのまま素直にあくびへと変わる。
そんなテトの栗色の髪をフィシュアがふわりふわりとなでていると、手の動きにあわせてテトの瞼が落ちていき、やがてすぴすぴと寝息をたてはじめた。
あっという間に眠りに落ちてしまったテトを起こさないように笑いをこらえながら、フィシュアはそっと立ちあがる。
そろそろ部屋に戻ろうと扉へ向かったフィシュアは、テトの向かいの寝台で黙り込んでいるシェラートを目に入れて、思わず足を止めてしまった。
「……シェラート? 何、その顔?」
そこには寝台の上で胡坐をかきながら、今までにないほど奇妙な顔をしているシェラートの姿があった。
いや、とシェラートはかぶりを振る。
「そんな話になっていたのか……?」
ためらいがちに口を開いたシェラートにフィシュアは首を傾げた。
「そんな話って何が?」
「その、魔神と三番目の姫の話だ」
「ああ」
ようやく合点がいったフィシュアは、シェラートの隣に腰をおろした。
「そっか、シェラートも二百年ちょっと前なら生きていたはずだものね。もしかして、この話に出てくる魔神ってシェラートの知り合いなの?」
「知ってるも何も、あのジジイ……」
あからさまに苦々しげに顔をしかめたシェラートにフィシュアは問いかけた。
「ね、ね。その魔神って格好よかった?」
身を乗り出して聞いて来るフィシュアの瞳が心なしか輝いているような気がして、シェラートは後ずさりした。怪訝気にさらに眉を寄せる。
「そんなこと知ってどうするんだ。」
「え~? だって、私の憧れの人だったんだもの」
「は!?」
「あら。女の子は誰だって御伽話の登場人物に一度は憧れるものでしょう?」
驚くシェラートに、フィシュアはそう言ってクスクスと笑った。
それは、どこか遠い昔を懐かしんでいるようにも見える。「それで?」と重ねて尋ねてきたフィシュアに、シェラートは嘆息を落とした。
「あのジジイの性格は最悪だ」
ものすごく嫌そうな顔をしているシェラートは、今まさに彼の魔神を思い出しているらしい。話の続きを待つごとにどんどん表情を顰めていくシェラートに、フィシュアは堪えきれずけらけらと笑いだした。
「何? そんなに仲が悪かったの? 一体どういう縁なのよ?」
「仲が悪かったとか、そういうんじゃないが……俺に魔法を教え込んだのは、そいつだ」
「は!?」
今度はシェラートの言葉にフィシュアが驚く番だった。
「別にそんなに驚くことでもないだろう」
「いや、普通驚くわよ。シェラートが御伽話の中の人物とそんなに近い繋がりがあったなんてね……」
何かを吟味するように口をつぐんで、まじまじとシェラートを観察していたフィシュアは、「ねえ」と再びシェラートに話しかけた。
「あの御伽話って、どこまでが本当なの? 魔物が出てくるくだりは……、まぁ、後から脚色されたんだろうなってわかったんだけど。だって、魔物が実際に存在するなんて話、聞いたこともないしね。シェラートは全部知ってるんでしょう?」
「全部知っているってわけじゃないが……あってるのは五分の一くらいじゃないか? 魔神の性格がよさそうなのは大嘘でしかないし、そもそも三番目の姫をはじめに攫ったのはあのジジイ自身だ」
「嘘!?」
声をあげたフィシュアに、シェラートが呆れた目を送る。
「大声を出すな。テトが起きるだろうが。第一、嘘をついて俺に何の得があるんだよ。ああ、そうだ。別れを切り出したのも三番目の姫のはずだ。自分が歳老いていく姿を見られたくないって言ってな」
「あぁ、うん。それはわかるかも。私も同じ立場だったら、きっとそう思うわ。相手が若いままなら、なおさらよね。……じゃあ、三番目の姫との口付けで魔神が人間に戻れたって話は?」
「そんなことで済んだんなら、ジジイは苦労しなかっただろうな。ましてや今のこの状況があるわけもない」
「シェラート?」
翡翠の瞳が翳ったような気がして、フィシュアは思わずシェラートの顔を覗き込んだ。
けれど、シェラートは苦笑しただけで、フィシュアの頭にポンと手を置いた。
「……悪いが昔話はもうお終いだ。ジジイの話を聞いたせいで、嫌なことまで思い出したからな。今日はもう寝る。フィシュアも早く寝ろ」
「……うん。おやすみ」
シェラートが口にした言葉の意味は、いったいどういうことだったのか。
きっと何かがあったのだろう、と感じたのは確かだったが、その時フィシュアにできたのは、ただ頷いて静かに扉を閉めることだけだった。