第55話 哀恋 【1】
「うっわぁー! すっごく大きい!!」
テトは両手を広げて歓声をあげた。これほど壮大な大河を目にするのは、彼にとってはじめてだ。
眼下の大地を蛇行し悠々と流れるペルソワーム河は、ダランズール帝国を南から北へと縦断し、やがて海へと流れつく。
南西側一帯を砂漠が占めるダランズール帝国は、砂漠から風が流れてくる分、国土の大部分が乾燥している。だからこそ水は貴重であり、豊富な水を供給してくれるペルソワーム河の恩恵があってこそ、ダランズール帝国は長きに渡り繁栄してきたといっても過言ではなかった。
「海はもっと広いわよ」
大河を見はるかす小高い丘の上。青々と茂る草の上に、薄布を空気を孕ませ広げながら、大河から目を離せないでいるテトに向かって、フィシュアは微笑みかけた。
「さあ、ごはんにしましょう」
声をかけたフィシュアは、さっそく自ら薄布の上に腰を下ろす。今朝、出立の際にエリアールから持たされた籐籠の中からケーキを取り出した。
テトの大好物だという、うっすらと焼き目のついたケーキは、木の実がふんだんに使われていて香ばしい匂いがする。ふっくらとした見た目は、少しでも力を入れると崩れてしまいそうだった。
フィシュアからケーキを受け取ったテトは、嬉しそうに瞳を輝かせる。ふわふわとした柔らかさを確かめるように、指先でちょっとだけ表面を突いてみる。
そうするともう我慢などできなくて、他の二つよりも少し大きな塊に、テトはぱくりとかぶりついた。
「うーん。そんなに減ってはいないような気がするんだけど」
ケーキを食べながら丘下に流れる大河へと視線を落としていたフィシュアは訝しげに眉をひそめた。
「ここでこれだけ流れているのに、本当に水量が極端に下がっているなんてことありえるのかしら?」
上流の水かさが減っているなら、下流も水かさが減るのは当然だ。結果、水不足になっているということなら納得できる。
ただ、テトの村を発った後、上空を飛び、大河の上流からここまで水量を確認しながら辿ってきた限りでは、特段変わった様子は見られなかった。
テトの村の流行病の原因となった蝶——キックリーレの本来の生息地であるガンジアル地方まで辿れば明らかな異変があるかと思ったが、目の前に広がる河を見る限り、少なくともこの時点では何の異変も見られない。豊富な水量を保った大河は下流へ向かって悠々と流れていく。
だが、水場を好むはずのキックリーレの群れの一部が、エルーカ村まで飛来したのは確かな事実だった。
「この先に異変が起きているってこと?」
大河に意識を向けたまま、フィシュアは呟く。
「どちらにしろ行ってみないことには何とも言えないだろう」
シェラートのどこか素気ない言いように、フィシュアは頷いた。シェラートの言い分は正しく、いくらここで考えたところで、らちはあかない。
「……そうね、とりあえず今日は街の人に話でも聞いてみましょうか」
フィシュアは、大河の流域に連なる街に目を移す。
「あの街は大きいし、誰か何か知っているかも」
いいかしら、とフィシュアは二人に問う。テトは、シェラートから譲って貰ったケーキのかけらを頬張りながら頷いた。
シェラートは答えの代わりにエリアールに預けておいた馬と荷物を転移させる。突然の出来事に驚いている馬を宥めながら、シェラートはもう一度だけ、物言わぬ大河を見据えた。
物と人でごった返した市場の中を鼻歌でも歌い出しそうな足どりで、フィシュアは意気揚々と渡り歩いていく。
街に着いて早々に宿を決めた後、フィシュアの散策につきあわされるはめになったテトとシェラートの二人組は、彼女のあとをげんなりしながら歩いていた。
「ちょっと、二人とも早く~!!」
前を行くフィシュアは今までに見たこともないくらい上機嫌にはしゃいでいる。あっちの店へ、こっちの店へと次々に入り、もはやこの市場にあるすべての店を制覇する勢いだった。
「く……くさい……」
鼻を両手で塞いだまま、テトはとうとう音をあげた。同じく鼻をつまんでいたシェラートは深く首肯する。
市場はとてつもない匂いが充満していて、このまま匂いに押しつぶされそうだ。息をした先から、匂いまで吸い込んでしまってテトは泣きそうになった。
「ごめん、シェラート。僕も見てみたいなんて言うんじゃなかった」
「いや。テトは何も悪くない」
大丈夫か、とシェラートが声をかければ、テトは呻いてあいまいに答えを濁す。
二人の随分と先を歩いているフィシュアには、テトの苦悶の後悔など聞こえなかったらしく、相変わらずの上機嫌さで、こちらに向かってぶんぶんと手招きをしていた。
ここ――リシュトワは香油を中心に栄えている街である。
もともと香油とその原材料となる花の生産が盛んなガンジアル地方の中で、リシュトワの香油の市場の規模は一、二を誇った。市場で売られている香油は数千種にのぼると言われている。
加えて各店で、その都度調合される香油は、香りの風合いに微妙な差異があり、どれ一つとして同じものはない。優れた技術と確かな嗅覚を持つ調合師がいる店では、自分の好みにぴたりと添う香りを調合してもらうことすら可能だ。だからこそ、あまたの香油店がひしめきあい、地方からも多くの人が一点物の香油を求めて集まってくるため、リシュトワの街全体が繁盛していた。
店先には客の目を引く香油の大瓶がずらりと並べられ、奥の棚には香油を小売りするためのガラスの小瓶が色とりどりに輝きをはなっている。
煌びやかな瓶の数々は、リシュトワが香油の街と呼ばれるのと同時に、光り輝く宝石の街と謳われる所以でもあった。
ただ、香油の愛好家の憧れの場所であるこの街も、香油に塵ほども興味のない者には、苦痛を与える場所でしかない。
店頭で呼び込まれるまま足を止め、一つ一つ香りを嗅いでは、「こっちの方がいいわね」と香油を選んでいるフィシュアに、テトとシェラートは顔を見あわせる。
よくこんな強烈な匂いの中で嗅ぎわけられるな、と二人揃っていっそ感心しながら、一刻も早く宿に逃れたいとそればかりを切々と願っていた。
ようやく宿へと帰り着いたテトは、パタリと寝台に倒れ込んだ。
「助かった……」
シェラートも、テトがぐったりとうつ伏せている寝台の縁に座り込み、安堵を滲ませた。
「なんか鼻がおかしくなった気がする。まだ、なんか匂いがしない?」
「服に匂いがついてるみたいだな……」
「これ、いつとれるんだろ」
二人が揃って深い溜息をついてるその横で、フィシュアは買ったり、貰ったりしたばかりの香油瓶を布袋から取り出した。赤や青、紫といった色とりどりの鮮やかな小瓶を机の上に一列に並べて、ほくほくと眺める。
「さて、今日はどれにしようかしら」
うきうきした気分のままに、言葉尻が弾む。
テトは信じられない、という顔をしてガバッと寝台から起きあがった。
すぐ横では、やはりシェラートもやめてくれ、と顔をしかめている。
「フィシュア、それつけるの……?」
「大丈夫よ。あそこはすごくたくさんの香油の香りが混じりあっていたから、ちょっと匂いがきつかったけど、一つ一つはいい香りなんだから」
ほら、とフィシュアが小瓶を差し出す。テトは、差し出された小瓶をそのまま即座にフィシュアへ押し返した。
「瓶はきれいなんだけどね……」
「それも、楽しみの一つだからね。ほら、見て。これは花からつくったから花の飾りがついてるでしょう? こっちのは果物からつくっているんだけど、なぜか、鳥の形をしていたり。ね、おもしろいでしょう?」
「うん、おもしろいんだけどね……」
「フィシュア、今日はほんとご機嫌だな……」
「だって、欲しかったものも買えたし、こんなに貰えたんだもの。ほんっと宵の歌姫やっててよかったぁ~!」
「……ちゃんと仕事もしろよ?」
「もちろん。だから今、選んでるんじゃない!」
「……そうなんだ」
「もう、つけなくてもいいんじゃないか?」
どうやら相当嫌気がさしているらしいテトとシェラートを無視し、フィシュアは満面の笑みで深い青紫の瓶を一つ摘まんで、蓋を開けた。
「よし、これにしよう! 爽やかな甘い香り!!」
鼻歌を歌いながら、「そろそろ準備しますかね」とフィシュアは上機嫌で宣言する。
「爽やかな甘い香りってなんだよ」
シェラートが疲労を滲ませぼやく。
ふんふん、と歌い続けるフィシュアは素知らぬふりをして、シェラートの突っ込みを軽く流した。