第37話 宵闇の姫【11】
窓の外ではようやく月があがりはじめ、闇を淡く照らし出していた。夜勤の者がいるのか、遠くの方でぽつぽつと篝火が燃えている。
他はもう灯りも消され、皆が寝静まった廊下には静寂だけが漂う。
月と星の明かりだけの薄暗い廊下。シェラートは部屋を出て少し進んだところで、足を止めた。ぼやっとした人影が暗がりの隅に白々と浮かびあがっている。
窓から漏れ入る月光を受けて、腰まで流れる髪は、普段の茶色よりも淡く琥珀そのものの輝きを放っていた。
白い寝着をまとい、両手で抱え込んだ膝に顔を埋めている人物。
「……フィシュア?」
「シェラート?」
ゆるりと顔を傾けて、こちらを向いたのはやはり予想通りフィシュアだった。
「何しているんだ?」
「ちょっと水を飲みに行こうかなと思って」
にへら、と笑うフィシュアに、シェラートは呆れて溜息をついた。
「今度のは嘘じゃないわよ? でも水をもらいに行こうと思って歩いていたら、ちょっとしんどくなって、ここで休憩していただけ」
「お前なぁ……」
シェラートは水の入った木杯を手の内に転移させると、フィシュアに手渡した。
フィシュアは礼を言って、それを受け取ると少し口に含む。
「砂漠で倒れるから立ちあがるなと言ったのはどこのどいつだ」
「いいのよ、私は。こういうの慣れてるから」
また訳のわからない理屈を振りかざすフィシュアに呆れつつ、シェラートは隣に腰をおろした。
「そんなものに慣れるな」
「だって慣れないと生きていけない世界で私は生きてきたんだもの。仕方ないわ。でも、カルレシアにはやられたなぁ。あれって、結構な猛毒でしょう? いつも飲む時は、ほんのちょっぴりのカルレシアに、たくさんの解毒剤を使っていたから、あんまり耐性ができてなかったのね。失敗、失敗」
相変わらず、にへらにへらとフィシュアは笑う。シェラートは眉根を寄せた。
「お前なんか変だぞ?」
「また、変とか言うか」
「変というか、筋肉おかしくなってないか? 顔緩みっぱなしだぞ?」
そんなことない、とフィシュアは今度はかすかに頬を膨らませた。
「フィシュア、お前熱出てきたのか? ……って、やっぱりあるな」
ひたひたとフィシュアの額に手をつけ、シェラートはその熱を確かめる。
たいした熱ではなかったが、恐らく毒からきたものだろう。
薄暗くてよくわからなかったが頬も少し赤いようだ。
「戻るぞ」
シェラートはフィシュアの手元から木杯を取りあげて消すと、座り込んでいる彼女の身体を抱きあげた。
途端、肩の上で「ギャー」という叫びが響く。
「大丈夫。降ろして。ちゃんと歩けるから」
「さっき歩けなくてそこにへたり込んでたんだろうが」
頭上から聞こえてくる慌てた声を無視してシェラートは廊下を歩きだした。
「でも重いでしょう?」
「人並みの重さはある」
「そこは軽いって言うでしょう、普通」
「……どっちなんだよ。大体さっきも運んでる。本当に重かったらとっくの前に魔法で軽くしてる」
何だそれは、と呟きフィシュアは口をつぐむ。
月明かりだけの廊下に一対の足音が響いた。どこか歪んでいるのか、歩くたびにぎしぎしと木の床が軋む。
フィシュアの部屋の前に着き、シェラートは扉の取手に手をかける。
「ねぇ、やっぱり外に出たい」
ぽつりと零された呟きに、シェラートはフィシュアを見あげ眉を寄せた。
「だって、風にあたりたい」
「駄々をこねるな。熱があるんだから早く寝ろ」
「駄々をこねていいのは風邪ひいてる時の特権でしょう?」
「お前のは風邪じゃないだろう」
「ちょっと外に出たら、ちゃんと寝るから。ね、ほんの少しだけ」
「お前ほんと今日変」
緩みっぱなしの表情も、駄々をこねる姿もいつものフィシュアからは想像もつかない。
普段は見た目よりもいくらか大人びて見えた顔も今は大分幼く見えた。
熱からきているのだろうが、これもまたフィシュアの生来の気質なら、今までの彼女は気を張り詰めていたのかもしれないとすら思う。
シェラートは諦めの溜息を落とす。
「転移していいか?」
「嫌だ。歩こうよ」
「歩くのは俺なんだぞ」
「だから自分で歩くって」
「…………」
「あ、今転移しようとしたでしょう? 無駄よ、私ラピスラズリ持ってるから。私が嫌って思ったら、きっと反応するもの」
フィシュアは寝着の下から首飾りを取り出すと振って見せた。
夜に見る石は暗くて濃い。石と同じ色をした瞳を持つ彼女は、楽しげに口の端をあげる。
「なんで寝る時までそんなもの持っているんだ」
「だって、こないだは湯浴みしてる間に外してたら盗まれちゃったのよね。また同じ目にあったら困るし、どんな時でも外さないことにしたのよ。やっぱり、つけていて正解」
勝った、と得意気に笑うフィシュアを無視してシェラートは再び取手に手をかけた。
「わぁっ、待って! わかった。転移していいから」
シェラートは目の前に流れ落ちてきた琥珀に光る髪束を一つ取ると引っぱった。
「い、痛い」
「はじめからそう言っとけ」
不機嫌な声と共に頭上の景色が夜空へと鮮やかに変わる。
昼間の熱気をまだかすかに含む柔らかな風が髪をさらった。並んだ木立が建物に沿ってさやと葉を揺らしている。
ゆるく吹き抜けた風を、フィシュアは瞼を閉じて受けた。
「気持ちいい」
何も言わないシェラートに、フィシュアはそろりと目を開く。見下ろせば、そこにあったのは不機嫌そうな顔だった。
「シェラートはいつも眉を寄せすぎ。皺になっちゃうわよ?」
言って、フィシュアは指でシェラートの眉間をぐいぐいと揉みほぐした。
これでいいかな、と適度なところで彼女は指を放す。けれど、シェラートの表情は変わらなかった。
「……なんか、怒ってる?」
「ああ」
「結局テト巻き込んじゃったから?」
「それもある」
「シェラートにも迷惑かけたし?」
「それだけじゃないだろう?」
「じゃあ、何?」
首を傾げて問いかけてくるフィシュアに、シェラートは再び溜息をつく。
「護衛官はどうした?」
「え? あぁ、そっか、聞いたんだ、宵闇の姫のこと」
「さっき自分でも少し話していたぞ?」
「うん、そういえば話しちゃってたね。ロシュはね……あ、ロシュって私の護衛官の名前ね。私たち、元々はアエルナ地方で仕事があったの。だからロシュは予定通りそっちを通って先に皇都に向かわせた」
「いないのなら、なぜ警備隊に言わなかった?」
「え? どうして?」
「一人で乗り込んだだろう」
あぁ、とフィシュアは納得した。
「もしかして、一人で無茶したから?」
聞き返せば、無言が返ってくる。それが肯定を意図することは明らかだった。
「今回は、私一人のほうが都合がいいと思ったの。被害者が多いみたいだったし、警備隊のところに行っている間にまた誰か襲われたら困るでしょう? 大勢で動いても気づかれるしね。警備隊も警備隊で動けない理由があるのなら、顔が割れていない私だけのほうが動きやすいかなって。強盗団縛り上げて連れて行った後に詰所視察すればいいかって思っていたから。カルレシアは予想外だったけど。その甘さは認める」
「テトがすごく心配してたぞ」
「うん、明日テトにちゃんと謝る。本当はテトにあんなこと見られたくなかったし、知られたくなかったんだけどなぁ」
フィシュアは頭上の星を振り仰いだ。
その拍子にぐらりと揺れたフィシュアの身体をシェラートが慌てて支える。
「――あっ、ぶないだろうが、ちゃんと持っとけ」
ごめん、ごめん、と笑いながらフィシュアは手をシェラートの肩に置くと、首を傾げ翡翠の瞳を覗き込んだ。
「ねぇ、シェラートもちょっとは心配してくれた?」
「誰だって知ってる奴が倒れたら心配するだろう」
ふいと視線をそらしたシェラートを見て、フィシュアはケタケタと笑う。
居心地が悪そうにますます深くなったシェラートの眉間を「ほらまた皺を寄せない」 とフィシュアがぐいぐい押した。
フィシュアはシェラートの首に両腕を回すと、黒髪に顔を埋めるように頭を垂れる。
「ごめんなさい。それと、今日は助かった。ありがとう」
「わかったならもういい」
「うん、ありがとう」
囁くように呟きが繰り返される。
シェラートはしばらく夜空を見あげていた。