第112話 紡ぎの言葉【3】
「まぁ、適当にくつろぎなさいな」
慣れた自室のように連なる部屋をすいすいと通り抜け、義妹の寝室に入ったイオルはためらいなく寝台の縁に腰かけた。
いつの間にか雲が切れたらしい。飾り格子の窓の向こうでは、雲間から出た十六夜の月が星空を圧倒していた。頼りないランプの灯火よりも、窓辺から差し込む月光の方が部屋の隅々まで照らし出しているようにさえ思える。
皇太子妃に続くかたちで寝室に入ったシェラートは、フィシュアの部屋に足を踏み入れた時から感じていた漠然とした違和感の正体にようやく気づいた。
小綺麗に整えられた空間は雑多なところがまるでない。選び抜かれた調度品は見るからに質がよいものの展示品として陳列されているような歪さがあった。
主がいつ帰ってきても、くつろげるよう心を砕いて管理された場所。心配りは透けて見えるものの、使い込まれた形跡がほとんどないせいか、部屋全体が浮いていてやけに広く見えた。
宿にいた時の方が、よほど生活感があったように思う。
シェラートは鏡台に並べられていた香油瓶に目を留めた。その一帯だけが部屋全体にある纏まりをわずかにうち崩している気がした。
彩り豊かな瓶は、灯火と月どちらの光も受け、複雑な陰影を艶めいた机面に作り出している。ひときわ深い青紫の小瓶に入った香油は夜の海によく似ていた。
シェラートは見覚えのあるその小瓶に手を伸ばしかけ、指先に触れる直前でイオルに遮られた。
「さっき言ってたこと。何があったのか、だけどね」
イオルは人のよい笑みを浮かべ、優位を誇示するようにシェラートに明かした。
「フィシュアは、魔人の襲撃にあったのよ」
「それは知っている」
シェラートはあっさり認めた。驚いたのはイオルだ。
奢りさえ含ませていた女が、表情を取り崩す。付きあわされたシェラートは、イオルを感慨なく見据え返した。
「何だ。それだけか?」
「え?」
「それだけなのか、と聞いている」
問いただされ、イオルはようやく自失から立ち直った。
対面の双眸が灯火を受けて翡翠色に照らし出される。意味もなく深淵に立たされたような悪寒を覚え、イオルは慌てて魔人のから目を逸し、口を開いた。
「――ちょ、ちょっと、待ちなさい! ……まだあるわよっ!」
イオルは頬を紅潮させ、息を継ぐ。息まきながら、寝台の掛布を冷えた指先で握りしめた。下唇を噛み締め、シェラートを睨みあげる。
「だけど……、その前に教えてもらいましょうか。なぜあなたがその事実を知っているの。私たちも詳細はシュザネ様から聞いたばかりよ。つい今しがた意識を取り戻したシュザネ様から、ね」
尋ねながらイオルは一つの可能性に思い当った。
「……もしかしてフィシュアから聞いた? あの状態でよくまともに話ができたわね。そのくらいあの娘も落ち着いていたってこと?」
「聞いたわけじゃない。どちらにしろ聞く前から、知っていた」
「知っていた?」
イオルが首を傾げる。
彼女の肩から滑り落ちた薄茶の髪が緩やかに光を孕み、近しい色を思わせた。束の間、それに気を取られたシェラートは瞑目し苛立ちを逃す。
「……言葉通りだ。見ればわかった。皇都の範囲なら魔人が発した魔力ぐらい捕捉できる。その内のものとフィシュアとロシュのものが同一だった」
「へぇー。じゃあ、魔人が攻撃をしてきた時点で気付いたんじゃないの? なぜ助けに行かなかったの? 結局フィシュアを含め三人も負傷した。おかしいじゃない。シェラート殿、あなたなら迷うことなく真っ先に駆けつけそうなのに」
「あのくらい魔人同士じゃ日常茶飯事だ。結びつけろと言う方が無理がある」
「あのくらい、ねぇ」
いくらか余裕を取り戻したイオルが皮肉気に漏らした。弾力のある寝台の表面を、イオルは指先でトントンと打ち叩く。
「それは、あなたの感覚でしょう、シェラート殿。魔人にとっては些細な力も、人間《私たち》にとってはそうじゃない。事実、北西の賢者でさえ回避できてないじゃない。ロシュなんか死んでいたも同然。そうでしょう?」
シェラートは無言を貫いた。
まだ魔人になって間もなかった頃、シェラート自身痛いほど実感していたことだ。だからこそ他の魔人の存在を確かに危惧していたはずだった。
ただ、魔人として過ごした年月は疾うに人間だった時のそれを追い越していて、魔人にとって当然の感覚は、シェラートにあまりに馴染み過ぎていた。
ひどく取り乱し助けを求めてきたフィシュアを思い返しては、自身の感覚の変わりようと過信が腹立たしくなる。
それに、とイオルが意味深に含みを持たせて言った。
「フィシュアから何も聞いていなかったの?」
「何のことだ?」
「だから、魔人のことよ」
シェラートがにわかに眉を寄せる。イオルは、さもおかしげに花色の唇を歪めた。
「——魔人とその契約者が皇都を襲う恐れがある」
「何?」
「フィシュアからそう報告を受けたのは随分前よ。もちろんあなたたちのこととは別件。だから、“魔人”と聞けば真っ先にその可能性に思い至る。結びつかない方が無理よ」
「いつから」
「あなたたちが皇宮にやってくる三週間ほど前かしらね。だけどあなたとフィシュアはとっくに出会っていたはずよ。あなたたちについての報告書はそれより先に受け取っていたもの。魔人と契約者の少年——そしてエルーカ村の疫病」
一体いつだ、とシェラートは記憶を探るが、答えは何も見つからなかった。何かを警戒しているような素振りをフィシュアは見せなかった。いつそのような情報を得たのかすら、まるでわからない。
「何も知らされていなくって悲しいでしょ」
嘲る響きが癇に障る。見定め観察してくる視線から逃れるようにシェラートは顔を背け、煩わしさに嘆息した。
「別に。言う言わないはフィシュアが決めることだ。強制するものでもない。正直ここまで関わりあうつもりもなかった。それはフィシュアにとっても同じだろう」
「なら、何もできなかったことが悲しいのね」
イオルは含み笑って断言した。「それからもう一つ」と人差し指を口元に寄せる。
「あの娘を襲ったのは魔人だけど魔人じゃない。フィシュアから聞いたわけじゃないのなら、さすがに知らないでしょ? 指示を出したのは先代五番目の姫の元婚約者――フィシュアとも親しかったんですって」
「親しかった?」
「そう。名はナイデル。とっても仲がよくて、子どもの頃、フィシュアはよく懐いていたそうよ」
なのになぜ、とシェラートは率直に顔をしかめた。
わかりやすく疑念に沈むシェラートに失笑したイオルの指先が滑らかな敷布の表面を辿る。
「知っている? 代々、第五位までの皇子と皇女は次世代の教育に携わる慣習がこの国にはあるの。そうやって彼らの座と役目は長い間引き継がれてきた。フィシュアの先代は早くに亡くなったから、あの娘が五番目の姫の仕事を継ぐのも早かった」
「それは、……フィシュアが子どもの頃から役目を負っていたことは聞いてる」
シェラートの言葉に、イオルは「ふうん」と相槌をうった。
「何でも知っているのね」
ちらと扉を確認したイオルは、膝を掌で払った。
「先代の五番目の姫は、恋人を殺されて自殺した。その犯人だと言われているのがナイデルなの。そしてフィシュアがその恋人を誘い出してしまったことが事件の直接の起因になっている」
だからかしらね、とやおら立ち上がったイオルは寝台から離れた。
シェラートが佇立する鏡台までゆっくりと近づいてくる。
「あの娘は身近な者を守ろう守ろうとする癖がある。また自分のせいで誰かを失いたくはないのね」
反応を窺うようにシェラートを一瞥したイオルは、緩慢な所作で数並ぶ香油瓶のうちから一瓶、引き抜いた。
「大切に守りたいものほど本当のところは難しいでしょうに。あの娘はそうせずにはいられない。かわいそうにねぇ?」
イオルは持ち上げた青紫の小瓶を指先でゆすり、内側の香油がゆったりと揺れ動く様をとくと眺めながら口角をあげた。
「あのねぇ、シェラート殿。あなたたちが出入りしているあの場所——北西の賢者の塔を帝国《私たち》は無闇に暴くことはできないの。賢者の管轄と庇護する者を脅かしはならないという暗黙の了解もある。超越した力を持つだけでなく、民の信頼も厚いあの者たちを敵にまわすほどの愚策はない。
賢者自身も求めに応じて知見を与えはしても、国への関与を基本的にはよしとしない。皇宮と敷地は同じとはいえ、あの場所は帝国ですらない。
あの子どもが通う学校も似たようなもの。皇立とはいえ、あの場にいる教育者と研究者に政治的介入は厭われる。皇宮の手の者が頻繁に出入りすることは至極不自然で目立ちすぎる。
だからフィシュアはここに着いてすぐ、あなたたちをそれぞれの場所に連れて行ったでしょう。今まで平穏無事に過ごせたのはフィシュアのおかげ。何も知らずに、あなたたちはずっと大切に守られてきた」
イオルは愉快そうにくすくすと喉を震わせながら、小瓶を手中で転がした。重みを確かめるよう、香油瓶を軽く投げては掌で受け止める。単純な動作を緩慢に繰り返し、遊び続ける。
「フィシュアもね、あなたに頼らないようにしていたのよ。せっかく形式上は賢者の庇護下においたのに、皇族であるあの娘自身があなたを引っ張り出してきたら前提が崩れてしまうものね。賢者の庇護下という建前がなくなる。そうでなくとも、あなたは皇族の頼みを聞く存在と証明してしまう。
せっかく頑張っていたけど無駄な足掻きだったわね。ロシュ一人切り捨てられない。あんなに私たちに手を出されないよう注意していたのに、あなたがあっさり応じたから退けるための理由付けもなくなった。おかげで堂々とあなたに会いにくることができた」
「魔人との契約を望みにか?」
「そう。話が早くていいわね。今のこの国には魔人の力が必要なの。代わりにこれから先もここでの平穏な暮らしを保障しましょう。私の言うことを聞いてくれさえすれば、普段はどこにいたっていい。必要なら情報も余すことなく伝えてあげる。フィシュアや、あの子どもの安全を確保するためにも必要だものね? 今回みたいに何にも知らないままじゃ不安でしょ?」
「断る」
上機嫌なイオルの口先を、シェラートは一言で止めた。
「断る? 帝国にいてそれが通ると思っているの」
イオルはせせら笑った。なおも片手でぽんぽんと香油瓶で遊ぶのをやめないまま、冷ややかに眼差しをあげる。
シェラートは、イオルを見下ろした。
「お前らと契約してやる義理はない。だが、皇都を狙う魔人については手を貸してやってもいい。それで充分だろう。確かにお前の言う通り、ここにはテトがいる。危険に晒すわけにはいかない。
ただしテトを巻き込むな。その瞬間、テトを連れてお前たちの前から去る。後はどうなろうが知らん」
「なら、フィシュアはどうなってもいいのね?」
シェラートは、睥睨した。
イオルは知らず跳ねた動悸を誤魔化すように、腕をさすった。
「脅しとしては不充分だ。ここを出た後は、何が起きようが俺は知る由もない。お前たちが何をしようが、感知できないことに対しては動きようがない。出るのはそっちの損失だけだ。結局、お前は何もできない。だから、ここらで妥協しろ」
「……そう」
イオルは、香油瓶を手中にきつく握りしめる。
終わりだと言わんばかりに、翡翠の双眸から鋭利さが消え去った。
竦んでいたはずの身が急に軽くなったのを感じたイオルは、飾り窓に向けられた魔人の横顔を前に、奥歯をギリと噛み締めた。