第105話 燃える焦げ跡【3】
「ナイデル、さま……?」
対峙する男が、フィシュアの頬を撫ぜる手を止めた。
「そう。久しぶりだね」
左頬に手を寄せたまま、もう一方の頬に祝福の祈りを口付ける。懐かしい紺色の双眸が優しく見つめてくる。
はく、と喉が震えた。子どもだった時分、拗ねて隠れるたびに、見つけ出して慰めてくれた人を思い出す。
何もかも以前と変わらず柔らかく、あたたかく——大好きだったのだ。この男のことも。
フィシュアは顔を歪ませた。泣き出したくなるのを堪え、ナイデルを睨みつける。
「どうして、あなたがここにいるの?」
「私が、じゃないよ。小さな姫君がここに来てくれたんだ。魔人を見れば追いかけてくるだろうと思っていた。知っていたかい? 紋様だけで魔人を正確に判断することができるのはこの国の皇族だけなんだって」
「嘘」
そんな話、誰からも聞いたことがない。
魔人の手首に刻まれた黒紋様は緻密だ。人に真似できる類ではない。その複雑さを目にすれば誰でも魔人だとわかるはず。
心の内でそう反論するものの、漏れた動揺は、恐らくナイデルに伝わってしまった。
「嘘じゃない」
諭し聞かせるようにナイデルは言う。
「五番目の姫から前に聞いたことがあるんだ。現に小さな姫君はあれの紋様を見て追ってきた。私には見分けなどつかないが、皇族が魔人を警戒していると情報が入っていたからね」
きっと来てくれると思ったんだ、とナイデルは明朗と答えた。
頬に張り付いた微笑には悪意などなく、とてもあれほどの事件を起こした者とは思えない。
優しい物言いと仕草が悉く遠い日々と重なっていく。眩暈に似た既視感に、フィシュアは後ずさった。
刹那、左手を強く握られ、フィシュアは悲鳴をあげる。
「あぁ。ひどい火傷だ。さぞ痛かったろう」
ナイデルは呻くフィシュアの両手を開き、火傷の度合いを検分しはじめた。
指を解かれ、右手から零れ落ちた短剣が地に落ち空虚な音を響かせる。
掌は赤く焼けただれていた。短剣を握りしめていたせいで皮膚が破けた右手には血が滲んでいる。
つい先ほどまで痛みを感じる余裕すらなかったのに、手を掴まれ眼前に晒されれば身を刺す痛みがじくじくと走った。
「ねぇ、小さな姫君。五番目の姫がね」
「やめてっ! 私はもう小さな姫君じゃない! 今の五番目の姫はイリアナ様じゃなくて私なの。ナイデル様のせいでイリアナ様はいなくなったんじゃない! イリアナ様も、サクレ様も、あなたのせいでっ!」
「私のせい? あぁ……そう慰めてもらったのか。違うよ。私は何もしていない。君に言付けを頼んだだけ。そうしたらサクレが死んだだけ。まさかイリアナが奴の後を追うなんて思いもしなかったが……」
ナイデルは笑みを深め、フィシュアに語りかける。
「イリアナは奴のせいで死んでしまった。どうしてだろうね。奴から離してしまえば戻ってくると思ったんだよ。きっと目が覚めると思っていたんだよ」
フィシュアの背をぞわりと冷たいものが這った。
ナイデルの指が耳をたどり、首筋にかかる。首元をなぞられたことより、繰り返されたかつての呼称に肌が粟立った。
「どうして君はまだ生きているの? イリアナがいないのに。五番目の姫の名まで受け継いで、どうしてここに立っているの?」
もう褒めてくれる人はいないのに。
ねぇ、とナイデルは問いかけ、フィシュアの咽頭に指を押し沈める。
息苦しさに喘ぐと、なおさら指が喉元深く沈み込んできた。ゆるゆると首を締めあげてくる男の腕を反射的に掴めば、火傷の痛みで意識が飛びそうになる。
「……ル、さまっ」
「だけどね、イリアナの跡を継いでくれていて嬉しくもあったよ、小さな姫君。五番目の姫を忘れないでいてくれてとても嬉しい。だから、君を五番目の姫の座から解放してあげよう。宵の歌姫の役割から解き放ってあげよう。イリアナは歌わなければならなかったから、奴を選んだ。旅をしなければいけないから、仕方なく奴と共にいたんだろう? そう。すべて五番目の姫のせい」
「――違っ……」
ぐっ、とより一層深く喉元に指が食い込み、否定の言葉を飲みこまされる。
「小さな姫君。君はイリアナを死に追いやったから本当はとても憎いよ。だけど、イリアナを慕ってくれているからとても愛おしい。だから、君のことも助けてあげる。五番目の姫のしがらみから救ってあげる」
あまやかな囁きは暗闇に溶け込んで、ガンガンと鳴り響く。
嫌だ、そんなのはもういらない、と声の限りに訴えたくても、息苦しさが増すばかりで、顔を苦痛に歪めて男を睨みあげるしか為す術はなかった。
閃光が音を立てて、夜を貫いた。
「フィシュア様を離しなされ!」
目が眩んだと同時に、ナイデルの腕が打ち叩かれる。
首にかかる手が緩み、均衡が崩れる。フィシュアはぐいと身体を引かれ、ナイデルから引き離された。
急激に気道へ流れ込んできた冷たい夜風に、フィシュアは身を折り激しく咳き込む。とても立っていられず、支えられるがまま目の前の胸に身を任せる。
「まったく。忠言もまともに聞けないのなら、一人で勝手に追いかけないでください」
「ごめっ……ロシュ……老師も」
「いいから下がっておきなされ」
シュザネが油断なく気を配りながら二人を庇い立ち塞がる。
フィシュアは徐々に息が整うにつれ、ロシュが血を流し続けているのに気づき戦慄した。触れあう舞台衣装に護衛官の血が滲み、少なくない湿り気が肌に伝わってくる。
「ロシュ」
「まだ時間はあります」
フィシュアが見上げた先で、ロシュはナイデルだけを強く睥睨していた。
「フィシュア様が惑うのも仕方がありません。どうしてあなたがここにいるのですか」
怒りに満ちた追求に、ナイデルは軽やかに笑った。
「さっきからそればかり質問されている気がするね。私の方が聞きたい。どうして君がここにいるのかな? せっかく追いかけずともすむようにしてあげたのに。よく動けたね。案外浅かったのかな?」
ナイデルは背後に佇む魔人に答えを求める。
「運が悪かったんじゃない?」
魔人は肩を竦めた。
「どうする? これって攻撃した方がいいの?」
黄眸の魔人は、親しい友と軽口を交わすうようにナイデルに聞いた。
「そうだね。小さな姫君にこちらの陣営に入ってもらおうと思ったのだけど、こうなると厄介だ。どちらにいるにしろ結果は同じだしな。いいよ、帰ろう。邪魔されない程度にお願いしようか」
「了解」
淡と落ちた了承の言葉。
シュザネは変わりはじめた辺り一帯の空気のざわめきに戦慄を覚えた。防御魔法の構成をできうる限りの素早さで紡いでいく。
「ロシュ殿っ!」
防ぎきれそうにない魔力の膨張を感じて、シュザネは声を張りあげた。
言われるまでもなく、ロシュはフィシュアを抱き込み覆い隠していた。悲鳴をあげたのはフィシュアだ。
「老師! 待って、やめてロシュ! 大丈夫だから。私の方が大丈夫だから!」
なぜならラピスラズリがある。それさえあれば、魔力はいくらか防げるはず。予想のつかない時ほど前に出て防ぐべきは自分だ。
ロシュは動かなかった。頭から包み込まれ覆い隠された視界では暗闇しか見えない。押しあてられた額に感じるざらつく生地は、間近すぎて色さえ判別がつかない。
「ロシュ!」
フィシュアは歯軋りし、ロシュの胸を押し返す。少しでも間合いを広げ、自分を守る腕から抜け出そうと無駄な努力を試みる。叫んでもびくともしないロシュは、むしろ抱き込む力をいっそう強め衝撃に備えた。
「今度こそ大人しくしていてください。ラピスラズリの力は計りきれないところが多い。防ぎきれなかったらどうするのです。大体、離した隙に連れて行かれでもしたら堪まりませんからね」
諌め諭しながら、こんな時でもロシュは「すぐに終わりますよ」と朗らかに笑う。
闇を揺する轟きと、塞がれた耳の上からも次々聞こえはじめた肉がえぐれる底気味の悪い音にフィシュアは声にならない声をあげ絶叫した。
ロシュの言った通り刹那の時間の出来事は、何事もなかったかのように凪いでいき、辺りに再び静寂をもたらす。
「ほらね」
ロシュは笑った。
「やはり庇っていて正解だったじゃないですか」
藍の瞳を際限まで見開き驚愕しているフィシュアの舞台衣装は右肩付近が擦り切れ破れていた。肩に怪我を負い、血を滲ませている。
呆然と立ちつくすフィシュアの身体を滑り落ち倒れた護衛官の周りには血溜まりが黒々と広がる。
ようやく開けた視界の先で、血に濡れた北西の賢者が荒い息を繰り返し、辛うじて立っていた。それ以外に最早人影などない。
「——やあああっ!」
フィシュアは呻き叫んだ。
動かなくなったロシュを見下ろす。
嫌な冗談が思考を塗りつぶす。
声にならない痛嘆が、夜のはじまりを切り裂いていった。