第104話 燃える焦げ跡【2】
「なんだ?」
顔をあげたシェラートは窓の外を見た。
北西の賢者の塔の上。地平の端では夕陽の名残が消えたところだった。
夜のはじまりの藍空がまだ明るい分、広がる皇都の街並みは暗がりに沈んでいる。
天井に吊られた天体模型の光が照らしだす部屋の中、テトは文字を書く手を止めた。
「どうしたの?」
シェラートが日中シュザネの探し物と部屋の整頓を手伝うために塔に入り浸っていることもあり、テトも最近は学校を終えるとすぐに塔までやってくる。がらくたを押しやり片付けた机の端は、テトの定位置となりつつあった。
テトの宿題を中断させてしまったことを申し訳なく思いながら、シェラートは床に散らばる紙片を拾いあげる作業に戻った。
「今どこかで魔力が弾けた。近くで魔人が諍いでも起こしているみたいだな」
「それって大丈夫なの?」
「この程度なら特に問題ない。魔人同士だとどちらが上か、力を誇示したがる奴らも多いからどの街でもよくある」
「え!? それって大丈夫なの?」
「大丈夫だ。どちらがより大きな音を出せるか、どちらがより風を吹かせられるかとかそういうのだ」
それ以上を望むならこの辺りは邪魔になるものが多すぎるしな、という言葉をシェラートは飲み込んだ。純粋に互いの力量を比べたがる彼らは、決着がつかなければ、より開けた場所に移動するだろう。
多くの魔人はそうやって遊びすぎて消滅する。どちらかというとよく絡まれる側だったシェラートは、「競争みたいなんだねぇ」というテトの平穏な感想に「そんな感じだ」と適当に頷いておいた。
「悪かったな、邪魔した」
「ううん」
テトは元気よくかぶりを振り、紙束に向き直る。
時々突っかかりはするものの、次々に書き出される文字は以前に比べ迷いがない。
テトの成長に目を見張りながら、シェラートはシュザネに声をかけた。
「魔力と言えば、シュザネ。ラピスラズリだけどな、フィシュアのともう一つ確認してみたが魔力が残っているかは判断がつかなかった。二つとも違いはないようにも思えた」
そもそもラピスラズリは魔力を遮断する性質を持つため、感知できる魔力が残るのかはどうか賭けでもあった。少なくとも三番目の皇子と五番目の姫のものからはランジュールの魔力は読み取れなかった。
他のラピスラズリは未確認のため判断がつかないが、シュザネが提示した憶測の一つの通り、二人が持つものはランジュールに与えられたものではない可能性もある。
ただ、とシェラートは先日から思い返していたことを言い添える。
「フィシュアのラピスラズリは、状況によって効果が変わる。一般的にもそうなのか?」
集中しきっているのか、シュザネは膝上に開いた本の頁を捲る手すら途中で止めていた。
様子がおかしいと気づいたのは、一向にシュザネが動かなかったからだ。いつもなら聞いていなくても、ほぼ無意識で返される答えも戻ってこない。
思えば、ずっと魔人の話題だったのに、割り込んでこなかったこと自体が珍しかった。
「シュザネ? どうした」
シェラートが呼びかけ、テトも宿題の手を止める。
何かを見極めるようにすっと目を細めていたシュザネは、ようやく本から顔をあげた。
「シェラート殿。それがどこか、場所がわかりますかな?」
「場所?」
「魔人の魔力が弾けたという場所です。儂には特定できませんでした」
どこか緊張を帯びた表情でシュザネは問う。
「見に行くのか? まだいるかはわからないぞ?」
「このような機会、滅多にありませぬからな」
「ほどほどにな」
「心得ました」
常とは違うシュザネの落ち着き具合をシェラートは訝しく感じはしたものの、聞かれたこと自体は特に隠すことでもなかった。一つの方向を指差す。
「あそこだ。北の方にある広場の先。ちょうどあの奥まった部分だな」
瞬時に窓際に転移したシュザネは窓に張り付き、シェラートの示した場所をしかと見据える。
「では、片付けはまた後日」
言葉半ばで消えてしまったシュザネに、部屋に残された二人は唖然とする。
「どうしたんだろうね」
テトはシュザネが立っていた場所を見ながら首を傾げた。
「さあな」
そもそもシュザネは片付けた端から散らかすばかりでいくら言ってもほとんど片付けないだろう、とシェラートが置きっぱなしになっている本を手に取った。
「僕たちどうしようか」
「だな」
テトとシェラートは互いに顔を見合わせる。自由にしていいとは言われているが、部屋の主人がいないのに留まり続けるのも気が引けた。
普段よりいくらか早いが、部屋に戻り夕食をとるに決める。
窓から一望できる皇都の街並み。都の北側にある食堂を巻き込んだ炎は次第に勢いを増し、煌々と薄闇を照らしはじめていた。
火事の喧騒の最中、フィシュアが目にしたのは手首に絡む黒紋様だった。
一目で魔人と知れる緻密な紋様を持つ若者が人混みに消えそうになる。焦燥に駆られ、フィシュアは地を蹴った。
魔人が偶然この場に居合わせるなどあり得ない。騒動に関与している可能性が高かった。皇都襲撃の計画についても知っているかもしれない。
何より、ここで捕らえておかなければ、また後手にまわることになる。傷ついた護衛官の姿が頭にちらつき、フィシュアは奥歯を噛みしめた。
火事の様子見にやって来た人々の波を逆流しながら、フィシュアは魔人を追いかけた。
細い路地に入り込むたび、相手を見失いそうになる。尻尾のような金色の襟足が道の先に消えたのに続き、フィシュアも角を曲がった。
広場に足を踏み入れた瞬間、無数の石の礫が宙に浮いた。勢いよく飛来した礫は、壁に阻まれたようにフィシュアの目前で跳ね返り地面に落ちる。
黄眸の魔人は、追跡者に一粒も当たることなく地面に還った礫を無感動に見やった。
フィシュアは魔人に短剣を向ける。
「残念。悪いけど魔法は効かない」
不敵に口の端をあげたフィシュアを見つめ、魔人は「らしいね」と肩をすくめる。
「でも別に、ここから先は僕にはどうでもいいしな?」
魔人はあげた諸手をひらひらと動かす。攻撃を仕掛けて来たにも関わらず、まるで敵意が感じられない。
首を伸ばしてフィシュアの向こう側を確かめた魔人は黄眸を煌めかせ、のんびりと言った。
「あらら。大丈夫? 契約者殿」
フィシュアの背後で、喉元に短剣をつきつけられた男が驚きに息をのむ。
フィシュアは肩越しに剣をあてがったまま、正面の魔人を鋭く睨んだ。
「動くな。お前も大人しく掴まれ。そうしたら主人は生かしてやろう」
「別に僕はどっちでもいいんだけど。契約者殿はどちらがいいのかな?」
魔人の黄眸は脅しをかけるフィシュアではなく、背後の人物に注がれていた。
「困ったな。殺されたくはないのだが。いつの間にこんな物騒なものを振りまわすようになったんだい?」
少しも怯えを含まない声は、穏やかにそう告げる。
聞き覚えのある男の声に、耳を疑ったのはフィシュアの方だった。魔人と相対していることすら忘れ、恐々と背後を振り返る。
「……ど、うして、あなたがここにいるの?」
いたのは壮年の男だった。記憶よりも確かに歳をとっていた彼は、以前に比べいくらかやつれた面立ちで意外そうに問い返す。
「どうして?」
男は喉元からわずかにずれた切っ先を指先でつまみ、そのまま剣を取り下げた。
指先で軽く髪をなでられ、フィシュアは思わず首を竦める。
「どこにいたっておかしくはないだろう? 捕らえられたわけでもないのだから」
それは君がよく知っているはず、と間近に迫った男が耳元で嘯く。震えてしまったのは、恐怖からではなく生理的な嫌悪からなのだとフィシュアは信じたかった。
震えただけで硬直してしまった身体では、首すらまともに動かない。フィシュアは言葉を失ったまま、瞬きもできずに男を見上げていた。
髪を伝いおりた掌が、するりと頬を包み込む。頬をさする掌もかつては大きいと思っていたもの。
それでも手つきも、声色も、微笑みさえ——幼かった頃の記憶と一つとして違うところがない。
「大きくなったね、小さな姫君」
紺色の双眸が昔を懐かしみ、なお一層柔らかくなる。濃茶の髪は辺りの薄闇に埋もれ黒に見えた。
愛おしそうに輪郭を辿る指をどこか遠くで感じながら、フィシュアは呆然と男の声を聞いていた。