第103話 燃える焦げ跡【1】
「フィシュアの歌ってどんどん綺麗になるよねぇ」
トン、とすじ肉の煮付けが脇に置かれる。料理を運んできた給仕の女は、椅子を引くとロシュの隣に腰を下ろした。
「ツィルタ。いいんですか、堂々とさぼって」
「だって、フィシュアの歌がはじまったら注文する人もいないじゃない。だから休憩。私だってちゃんと聞きたいもの」
「そうなんですか」
「そうよ。ほら、父さんだって休んでる」
壁にもたれ腕を組む店主を顎でしゃくり示したツィルタが、にやりと口角をあげた。目線だけは舞台に向けたまま、彼女は早速すじ肉をつつき出す。
「昔から綺麗ではあったけどさ、張りが出てきたって言うか……代替わりしてしばらくは、みんな結構戸惑ってたじゃない? でも、ここにいるみんなが聞きに来てるのはフィシュアの歌だもの。今じゃ、もうフィシュアの歌を聞いてイリアナ様の歌を思い出す人なんていやしない」
だって、それぞれ全然違う。どっちも綺麗だけど違うの。比べられるものじゃない、とツィルタはしたり顔で言った。
「なんて言ったらいいかな。イリアナ様のは夜空いっぱい広がる銀砂の星でしょ。フィシュアのは一つきりで光る明星。びっくりするくらい綺麗なのは変わらないんだけど根本が違う……って、これじゃ意味わかんないね」
ツィルタは眉間に皺を寄せ、もっと的確な表現がないか探しだす。ロシュは「あぁー」と杯を傾けた。
「なんとなくわかります」
「わかる?」
ツィルタは通じたことがよほど嬉しかったらしく、すじ肉が突き刺さったままのフォークを勢いよくロシュに向けた。
皇都での舞台を提供する店々の一員として見守ってきた分、ツィルタは年月を経るごとに変化したフィシュアの歌や客席の反応に詳しい。
より長く“宵の歌姫”の舞台に触れてきたのもツィルタの方だ。
そのツィルタが、最早フィシュアとイリアナの歌を比べる者などいないと言うのなら、その通りなのだろう。
「フィシュアは、とても頑張ったのねー……」
ツィルタは頬杖をつき、しみじみと呟いた。舞台で歌うフィシュアを見つめる眼差しは暖かだ。
ええ、とロシュは首肯する。
ロシュにしてみれば、そう遠い昔でもない旅のはじまりに思いを馳せる。
大変だった。
役目をこなすにはどちらも幼く、何より先代の宵の歌姫——イリアナの存在が大きすぎた。
それは彼ら自身にとっても、周囲の者にとってもだ。
イリアナは他に類をみない歌い手だった。
吟遊詩人の恋人が爪弾く五弦の楽器もいくらか影響していただろう。旋律にのったイリアナの歌声は豊かで瑞々しく、その美しさは今でも事あるごとに語られる。
舞台上のイリアナを見たのは数えるほどしかないが、ロシュも歌を聞いたことがあるからわかる。
先代がつくり出す奏は自然そのものだった。川のせせらぎであり、風が揺らす葉擦れであり、陽だまりの光であり、小さな星の瞬きである。いつの間にか耳に入っていた、という不思議な感覚をもたらす。聞くのではなく、気付いた時には聴こえていた歌なのだ。
対してフィシュアの歌は大気をゆり動かすような力強さを持つ。結果的に風がそよぐ。だがそれは人為的な現象で、だからこそ少なからず生じる違和感が否めない。
イリアナの歌に慣れ親しんでいた者にとっては特にそうだった。
宵の歌姫が拠点としている皇都はまだよかった。
皇都の住人にとって宵の歌姫は身内に近い存在だからだ。イリアナの元で修行する幼いフィシュアを可愛がってもいた。
代替わりの際も、イリアナの不在を惜しむことこそあれ、励ましてくれる者が大半だった。
しかし一歩皇都を出ればそうはいかない。人はあからさまに眉をひそめる。歌の途中で席を立つ者も一人や二人ではなかった。
歌い手の年齢は関係なく、“宵の歌姫”の歌を聞きに来た“客”の不平不満はすべてフィシュアに降りかかった。野次だけでなく時には物も飛んできた。
徐々に縮こまっていくフィシュアの声が震えて掠れるから、客の失望はさらに深くなり、悪循環を繰り返す。
それでもロシュは舞台上のフィシュアを助けるわけにはいかなかった。ロシュはロシュで、悪態の間に零れる情報を拾わねばならなかった。
明るい煌めき満ちる泉の傍で楽し気に歌っていた少女が、歌いたくない行きたくないと泣き喚いても、ロシュには無理矢理引きずっていくことしかできなかった。
下される命に従い一緒に旅をして、旅をさせて。
観衆の視線に怯えながらも歌い続けた小さな主をずっと見ていただけだ。
宵の歌姫の名は代々継がれるもの。
それでも今の評判は彼の主が苦労してようやく作り上げてきたものだ。
歌姫として名を馳せたのは、宵の歌姫だからではなく、フィシュア自身だ。
その名を耳にした人々がこぞって親愛の念を彼女に寄せるのは、すべてフィシュアが尊敬に値する定評を勝ち取ってきた結果だ。フィシュアの人柄があってはじめて成し得たものだ。
ロシュはそのことを身に沁みるほど深く、痛く、知っている。
だからこそ、彼はフィシュアに変わらず付き従い支えて行くと決めた。
「フィシュア様はとても頑張っていますから」
ロシュは微笑みながら、今夜も歌声を響かせる主を見やる。その横顔をツィルタはまじまじと眺めてから「ロシュもね」とカラカラと笑った。
フィシュアが異変に気づいたのは、次の歌のために深く息を吸い込んだからだ。
歌う代わりに息を潜め、気のせいではないと確信する。
鼻に残る焦げ臭さにフィシュアは総毛だった。
考えるまでもない。火事だ。
ロシュも気づいたらしく、目が合うや否や頷きが返る。
さっと外の様子を確認しに行ったロシュが、店表付近に異常はないと手振りで示す。
漂う異臭にざわつきはじめた客へフィシュアは舞台上から落ち着くよう声をかけ、店員と協力し集まっている人々を表へ促した。
店内で出火があるとすれば奥の調理場だろう。
もし事件性のある火点けなら、さらに奥の店の裏手の可能性が高い。続く裏通りは、表に比べ人気がない。
フィシュアが客の流れに逆らい店奥に向うと、奥から店員の男が顔を出した。彼は騒然としている店内に目を丸くさせる。
「いったい何事だ。ん? なんだこれ。臭いな」
「火事が……」
フィシュアは答えかけ、逆に店員を問いただした。
「奥は何ともなかったの?」
「奥? あっちは何ともないぞ。注文があっても困るから一人で残っていたんだが、こっちが騒がしいから来てみたんだ。どの店が火元だ? これだけ臭いなら随分近いだろう。さっさと出よう」
「ええ」
上の空で同意しながらも、訝しさが拭えない。
店員は火事を知らせにきたわけではなかった。ならば、出火元は調理場でも、そこに程近い店の裏手でもないということだ。
そして、この場にも店表にも火の気はない。
そこまで考え、フィシュアは煙が立ち込めていないことにはじめて気づいた。
これだけ異臭がしているのに、どこにも火元がないのはおかしい。
瞬間、フィシュアは店員の腕を力任せに引いた。
手近にあった椅子を掴み、振りかぶられた剣に投げつける。出口近くで避難誘導に徹していたロシュも引き抜いた短剣を投合した。
襲撃者の男は、飛んできた短剣を避け後ずさる。
そもそも隠すつもりもないのか素面をさらしたままの男は、落ち窪んだ眼窩の皺を皮肉気に深めた。抜き身の長剣を手にしたまま、近くの窓を破って勢いよく外に飛び出す。
襲撃者を目の当たりにした店員は尻をつき呆気に取られていた。
フィシュアとロシュは警戒を緩めず、辺りに気を配る。
「何だ?」
相変わらず店内は焦げ臭い割に煙も火もない。早々に襲撃を切りあげ逃げ出した男の行動も奇妙だった。
幸いにもほとんどの客を外へ誘導し終え、店に残っている者はわずかだ。
嫌な予感は拭えないが、このまま留まっていても仕方がない。
腰を抜かしたままの店員をロシュが助け起こす。ひとまず外で状況を確認した方がよさそうだ、とフィシュアとロシュは無言でやり取りした。
刹那、顔を強張らせたロシュが、フィシュアを店員ごと突き飛ばした。
突然のことに受け身が取れず、フィシュアは床に全身をしたたかに打ちつける。
痛みで漏れた呻きは、けれど、フィシュアの耳にすら届かなかった。
激しい轟音が聴覚を支配する。
落雷の衝撃に耐えかねた大木が爆ぜ折れるように、柱が軋みをあげた。熱風が店内を揺さぶり、遅れてばらばらと降り注いだ木片が肩を打つ。
何が起こったのか理解するより早く、辺りは猛火に包まれた。
至るところで炎があがり、店内が不気味なほど明るく照らし出される。
火にのみこまれた柱が次々に炭に変わり、抜け落ちた天井から火の粉が降ってくる。
気絶しそうな熱風にフィシュアはむせかえった。先程とは打って変わり、もうもうと煙が立ち込めはじめている。
長剣を支えに膝をつく護衛官の名をフィシュアは叫び混じりに呼んだ。
「……ご無事ですか?」
苦痛に汗滲む顔を辛うじて笑みに変え、ロシュが問いかけてくる。落ち着いた声は、震えを一切含まない。
息を詰まらせたフィシュアは、何も言うことができなかった。
頷くことさえままならない。身を起こす手にうまく力が入らない。
二人を庇いロシュが負った傷はそれほど深かった。折れた柱の一部が横腹に突き刺さり、とめどなく溢れ出る血は周囲を照らす炎よりもなお鮮やかだ。
「生き残りたいなら思考を止めるな、……そう教えたはずです」
静かに叱責する剣の師の眼差しの強さに、フィシュアは震えながら頷き返す。
ロシュの瞳にはまだ光がある。
まだ大丈夫。まだ、大丈夫だ。
言い聞かせ、フィシュアは怖気づく足を叱咤する。
フィシュアはロシュに駆け寄った。止められるよりも早くロシュを突き刺す木片を握りしめ、燃え移った火を消し止めにかかる。
じゅっと嫌な音がして掌に鋭い痛みが走った。
消火できたものの、刺さっている木片を引き抜くことはできない。
そうしたら、すべてが零れ落ちる。
咎めを含んだロシュの眼差しをフィシュアは無視した。
「歩けるか?」
「当然です」
ロシュが強く言い切ったことに、フィシュアは少なからず安堵する。
一緒に難を逃れた店員もすぐにロシュの状態に気づき、肩を貸してくれた。
出口よりも襲撃者が割って飛び出た窓の方が近い。
窓を完全に叩き割ってから、迫り来る火の手から逃れるように三人は外へ這い出た。
窓枠から転げ落ちた途端、新鮮な空気がすぐに三人の肺を満たした。外に出て間もなく、気づいた者たちが慌てて手を貸してくれた。火の手が及ばない場所まで離れて、開けた場所にようやくロシュを横たえる。
道を挟んだ向こう側で、店は焼け落ちかけていた。煤まみれの者たちが怒号をあげ、延焼を防ぐべく隣接する店を打ち崩しにかかっている。
警備隊も既に出動していた。火消し衆の手伝いと負傷者救助に分かれ、慌ただしく動いている。
ルディにも間もなく知らせが届くはずだ。
おーい、こっちもだ、と手を貸してくれた人たちが、フィシュアに代わり救助者を呼びにいく。
フィシュアは横たわるロシュの傍に両手をついた。
「ロシュ……」
「大丈夫ですから、私に謝らせてください。またこのような失態を犯してしまい申し訳ありません」
ロシュが普段通り朗らかに言う。
フィシュアはふるふるとかぶりを振った。
麻痺してしまっているのか火傷を負ったはずの掌は痛みを感じない。それよりも寄せすぎた眉間の方が痛かった。
悪い予感を打ち消すように、フィシュアは空を見あげた。銀砂散らばる夜空に、煙が巻きあがっていく。
「ホーク、近くにいるか?」
フィシュアの呼びかけに応じ、鳥の鳴き声が鋭く響き渡った。
背後からホークが滑り降りてくる。こんな時でも優雅に地に降り立ったホークにフィシュアは口元を緩ませた。
ホークは地面に寝そべるロシュを一瞥し、すぐにフィシュアの命を待つ。常にも増して呆れられた気がして、ロシュは自嘲した。
「ホーク。兄様にも一応知ら……」
途切れた言葉に、ホークは首を傾げた。ロシュも訝しげに、フィシュアを見あげる。
フィシュアは行き交う人波でごった返す通りを見据えた。
何かが引っかかった。
懸命に目を凝らし、違和感の正体を探す。
その答えに辿り着いた瞬間、フィシュアは血相を変えた。
「ホーク、兄様に知らせを! ロシュ、これ借りる! いいか、このまま絶対に動くな!」
それだけ言い終えると、フィシュアはロシュの了承も得ずに短剣を引き抜き、一方向に駆け出す。
「ああ、もう、あの人はっ!」
こんな時くらい大人しく休ませてくださいよと、悪態をつきながら身を起こしたロシュは、追うのに邪魔な木片の先をへし折った。
横腹に激痛が走り、噛み締めた奥歯が音を立てる。
意味はないとわかってはいるが、衣服を割いて簡単な血止めを残った木片の上から施す。
上下する肩を、息を、整え、長剣を支えに立ち上がる。
「ホークは命令通り、オギハ様のところへ。フィシュア様の方、は、ちゃんと私が追いかけます、からっ……」
主の消えた先を睨むロシュの言葉に応じ、ホークは飛び立つ。空高く舞いあがる間際、片羽がロシュの肩をかすった。
「……はい、……頑張りますよ……」
荒く息を吐き出して、ロシュは地を蹴った。
無理をしても可能な限り最速で駆けつけなければならない。
何としても間にあわないといけない。
他の火点けがどうであったかは知らない。
ただ今回に限っては狙われたのがフィシュアであるのは間違いなさそうだった。
火が爆ぜる前、襲ってきた輩は他には目もくれずフィシュアに向かった。
そしてたった今、恐らく何かを目にしたからこそ、フィシュアは走り去ってしまった。
それがきっと罠であると彼女はまだ気づいていない。