第101話 夕星の灯し風【8】
「出会ったら打ち合いって、よくあるのよ」
悪びれなく弁解したフィシュアには、もれなくシェラートの小言が飛んだ。
誤解が解けた後も一向に警戒を緩めないテトとシェラートに、フィシュアは困惑する。
「でも、これが普通だし」
「普通ってフィシュア! 大怪我するところだったじゃないか!」
「えっと……でもね、テト。ドヨムだって、さすがに殺そうとまではしないはずだから大丈夫よ」
「なら、テトの言う通り怪我はさせられるってことだろ」
「いやでも、これも鍛錬の内だし……?」
「明らかに本気でかかって来ていただろうが!」
少なくともかすり傷ですむような類ではなかった。いったいどんな兄妹なんだとシェラートがフィシュアの言い分を一蹴すると、フィシュアは居心地悪そうに身じろぐ。
庭まで降りてきたフィシュアの兄だという男をシェラートは苛立たしく睥睨した。フィシュアの手を握ったテトが、庇うように彼女の前に出る。
「完全に危険人物扱いですね、ドヨム様。だから常日頃から控えてくださいと申しあげているのに」
「そう言うなよ」
苦言混じりのロシュの揶揄に気を害した様子もなく、ドヨムは長い付き合いの妹の護衛官の肩を叩いた。
「めずらーしくロシュが手を出してこないから変だと思ったら、まさか噂の魔人が近くにいたとはね」
不躾に寄越された視線が観察するようにざっと動いたのを、シェラートは黙殺した。
兄妹といっても顔だちはあまり似ていない。ただその髪と目の色だけは、血筋が近しいことを証明するように等しい。
「魔人って言っても案外普通なんだな。フィシュアが消えた時はさすがに驚いたが」
もっとすっごいのを想像してたんだけどな、とドヨムは期待が外れたとでも言いたげに、傍らのロシュに話しかける。
「一応挨拶でもしておくか? ドヨムな。よろしく」
友好的に差し出されたドヨムの手は誰にも取られなかった。行き場なくした手を誤魔化すように、ドヨムは不審がっているテトの頭に手を当てがい、強引に髪をかき乱す。
「何するんだよっ!」
テトはのしかかってきた手を振り払い、ドヨムを睨みつける。それでも決してフィシュアの前から退こうとしない彼の態度に、ドヨムは初めて相好を崩した。
「うっわ。ものすっごく嫌われたなぁ、俺」
楽しそうに同意を求められたロシュは無言を貫いた。
性懲りもなく再度テトに向かって伸びてきた兄の手をフィシュアは叩き落とす。
「ちょっとドヨム! テトにちょっかい出さないでくれる?」
「別にいいだろ。減るもんじゃないし」
「減るのよ。こっちの気力は確実に」
フィシュアは乱れてしまった栗色の髪を整えながら、テトを背後から腕で囲った。
「大体ルディは? 上にいたでしょう? 会わなかった?」
「んー? まだいるんじゃないか? 相手にならなかったんだよ。せめてフィシュアくらい反応速度があがってこないと、あいつあんまり正統すぎておもしろくないな。ロシュはやる気ないし。つまらん」
いい加減なドヨムの物言いを受け、フィシュアは外廊を見上げた。
姿は見えないが、ルディのことだから意識を失ってまではいないだろう。それでもドヨムにのされたのなら動けないのかもしれない、とフィシュアは口を結ぶ。
ドヨムの第一撃はほぼ気配を消した上での不意打ちだ。咄嗟の事態に対する経験値が自分たちよりも圧倒的に少ないルディが反応に遅れるのも無理はない。
ドヨムは妹からの無言の非難をものともせず、長剣の柄飾りを指先でなぞって遊んでいた。
「お前のそれもラピスラズリなのか?」
ドヨムが面をあげると、声をかけてきたはずのシェラートは下方を見ていた。その視線の先を追って、ドヨムは長剣の柄から手をどける。
「ああ。これか」
ドヨムの長剣の柄頭には深く濃い藍石がはめ込まれている。
「そう、ラピスラズリだ。あ、そうだ。お前さっき魔法使ったんだよな? なんか来たのはわかったんだが、まさかこれにあそこまで効果があるとは思わなかった。シュザネは俺らに魔法を使ってこないし、実際どれほどのもんか疑わしかったんだが、あんな綺麗に消えるんだな。なぁ、あれ。今度もう一回やれないか?」
「——ドヨム! いい加減にして」
「ちょっとくらい、いいだろ別に」
「よくないって言ってんのが通じないのかしらぁ?」
あからさまに嬉々としはじめた兄を、フィシュアはにこにこと口元だけは笑顔で止めた。
「……どうかした?」
フィシュアに肘で突かれ、シェラートは意識を浮上させた。フィシュアの影からは、テトも気遣わし気な顔を覗かせている。正直二人に伝えられる確かなものは何もなく、シェラートは「いや」と二人にかぶりを振った。
「ドヨム!!」
上階から響いた叱責に、呼ばれたドヨムは顔を引き攣らせた。
外廊の手摺りからこちらを見下ろしているのは、眼鏡をかけた細身の男だ。緩く束ねられた髪が流れる華奢な肩を、自分よりもはるかに体格のよい青年に貸している。支えられている歳下の青年の表情は、離れた場所から見てもどこかぐったりとしていた。
「げっ、ヒビカ……」
ドヨムの口から漏れた呻きは彼らのいる上階まで聞こえるはずがない。それでも察したらしいヒビカが眼鏡の奥で剣呑に藍眼を細めた。
「何をしているのですか。よもや会議の刻限を忘れたとは言いませんよね?」
抑揚のない追及には冷ややかさが滲む。小柄で痩身な人物ではあるものの、背筋の伸びた立ち振る舞いは場を圧倒させる迫力があった。
ドヨムは分が悪そうに目を泳がせ、妹のフィシュアに助けを訴えた。
「まったく。……弟妹に構ってもらいたいのはわかりますが、そんなことばかりしていると嫌われますよ。フィシュアも迷惑なら迷惑と切り捨てなさい。そんな兄とも言えぬ奴にいちいち構う必要はありません。早くおいでなさい。ドヨムのせいでフィシュアまで遅れる必要もないでしょう?」
フィシュアは、ヒビカに首肯を返した。それを認めると、ヒビカはさっきまでとは打って変わり優しげな顔つきになる。
「先に行っていますからね」
ヒビカはテトとシェラートを無表情で一瞥し、宣言通り踵を返す。目があったテトは息を呑んで、背後に佇むフィシュアを見上げた。
「誰?」
不思議そうに聞いてくるテトの髪をフィシュアは安心させるように梳く。
「あれも、私の兄。ドヨムとは違って、まともな方のね。二番目の皇子のヒビカ。隣にいたのは五番目の皇子のルディ。弟よ」
「みんなフィシュアの瞳と同じ色なんだね」
「そうね。言われてみると、そうかも。他の兄弟姉妹もみんな同じね。髪色もほとんど同じだし。……ごめんね、テト。私もう行かなくちゃ。また後でね」
「うん」
テトは繋いだままだったフィシュアの手を一度ぎゅっと強く握ってから離す。
「シェラートも。さっきは助けてくれてありがとう。ロシュ、任せた。行くわよ、ドヨム」
フィシュアはふてくされている兄の背をばしりと叩く。非難がましく顔を歪めてきたドヨムを無視し、フィシュアは兄の背をことさら強く押した。
「さて、どうしましょうか」
フィシュアの姿が見えなくなったのを確認し、ロシュは考え込むように言った。
「お戻りになる前に剣術の稽古を終えておかなければ、また参加したいと言い出しかねません」
「けど、そういう技術だけをフィシュアに教えたのはロシュなんだろう?」
脈絡のないシェラートの確認に、二人の間に立っていたテトは首を傾げた。
「何の話?」
「力の加減を身につけさせるための時間はたくさんあったってことだ。使い慣れない俺らに一から教えようとしているくらいだ。できなかったわけがない」
にも関わらずフィシュアが身につけていないと言うのならば、教えなかったことにこそロシュの意図がある。そう信じ込まされているのなら、なおさらだ。
シェラートは地面に転がっていた剣を拾いあげ、ますます怪訝そうにしているテトに手渡した。自身に貸し出された分も宙に浮かせ、手に余る長剣を鞘に収める。
「まぁ。教えてもらったところで、俺は今さら身につきそうにもないけどな」
「お渡ししたものが大きすぎたテト殿はともかく、シェラート殿もさっさと放り出していましたからね」
「邪魔だった」
ロシュは苦笑した。
「……ご推察通りです。確かに剣術を習いたいと仰ったフィシュア様には急拵えという言葉にかこつけ、わざと極端な技術しか教えませんでした」
それでも、とロシュは言う。
「一瞬の躊躇が命取りになりかねない状況下で、あの方が向き合うのが知人でないとは限りません。ですがフィシュア様の性質上、戸惑わないのは無理でしょう。だからもしもの際、フィシュア様が咄嗟に動いてしまったその瞬間に相手の命を絶つか、最低でも動きを止めておく必要があります。私が何より優先すべきはフィシュア様の命であってそれ以外ではない」
シェラートの傍らで、テトが身の丈にあわない長剣をぐっと握りしめた。無意識だったのか、テトはじっとロシュを見据えていた。
向き合うロシュは空色に翳る目をふと和ませた。
「あなた方はフィシュア様にとって、とても大切な存在です。正直もうどなたの目から見ても」
「……僕たちもフィシュアのことが大切だよ?」
「さすがに危害を加えることはない」
テトとシェラートは口々に仄めかされた懸念に反論する。ロシュは否定することなく頷いた。
「承知しております。でなければ昨日も、あなた方に預けはしませんよ。そのように頼った以上、私が口を出すのはおこがましいですが……それでも。いえ、だからこそ一つ。フィシュア様があなた方に手を差し伸べるのと同じようには、手を差し伸べ返していただく必要はありません。外では構いませんが、この皇宮内であからさまにフィシュア様を庇うのはお控えください。時と場合によっては、却ってあの方を追い詰めかねません」