第100話 夕星の灯し風【7】
「なんだか雨が降りそう」
曇天の空には見渡す限りどんよりと厚い雲が広がっている。ほとんど黒に近い雲からは今にも雨が落ちてきそうだった。
「朝はあんなに晴れていたのに」
フィシュアのぼやきに、隣を歩く弟のルディが頷く。
「季節風が吹く季節は天候が変わりやすいから」
ルディの言う通り、皇宮の外廊から見渡せる階下の樹木や旗は強風で揺れていた。
外気を遮断する壁がないためルディの薄茶の短髪も風を受けている。フィシュア自身、乱れた髪を耳にかけなしながら、暗い真昼の空を見あげた。
上空はここよりよほど強い風が吹き荒れているはずだが、分厚い雲が連なっているせいか雲が流れているようにはまるで見えない。
「このまま雨が降ってくれると助かるんだけどね」
空を見つめるルディの横顔には、わずかばかりの苦さが覗いた。
同じ五の位を担う五番目の皇子の弟は皇都警備隊を統括し、皇都周辺の治安維持につとめている。
気にかけているのは、皇都を騒がせている火付けとそれに伴う物取りだろう。
「ルディが見まわりを強化したから火付けは大分減ってきたじゃない」
「完全になくならないと意味ないよ」
フィシュアは手を伸ばし、力不足を嘆く二歳下の弟の頬をぺしぺしと掌で叩いた。
「そんな顔しないの。まずは減った事実を喜びなさい。ルディの成果でしょ。それに部下の尽力は素直に労うべき」
「ありがとう」
「よろしい」
フィシュアは満足して笑う。納得したかはともかく、ルディ自身で落とし所を見つけたらしい。同じ藍色の双眸からは、憂いの影が薄らいだ。
事実、はじめて報告があがった三か月前と比べ、火付けの被害は格段に減り、ようやく落ち着いてきたと聞いている。警備隊の人員の配置と巡回地域の区分を平常時よりも細かく割り当て直すようルディが指示した結果だ。
目が行き届いたおかげで火付け自体が減り、発生した場合も初期消火につながり被害の拡大が抑えられた。
「ルディはもう少し自信を持ったらいいのに。ドヨムとまでは言わないけど」
「ドヨムはねぇ」
三番目の兄の名をあげ、二人は揃って背後を振り返る。誰もいない外廊に顔を見あわせ忍び笑う。
フィシュアは隣を歩む弟を盗み見た。
帯剣の柄頭にかかるルディの左手首にはラピスラズリがついた銀の腕輪があった。叔父から譲り受けた際にはまだ腕が細く随分ゆとりがあったのに、今ではしっかりと手首に嵌まっている。
毎日の鍛錬の賜物か身体つきもしっかりし、ほんの数年前までは確かに並んでいたはずの背も、信じられないほど伸びた。
まっすぐな眼差しだけは変わらないが、その横顔もぐっと大人びて精悍になり、すっかり青年のものになってしまった。
いつも皇都にいるわけではない叔父に代わり、ルディの仕事を補佐する必要も今ではなくなってきた。そのうちフィシュアは安心してルディからの指示を受ける側にまわるだろう。
「いつの間に大きくなっちゃって……」
「何それ。急にどうしたの?」
「次に手合わせしたら負けそうだなと思って」
それはまだちょっと嫌だ、とフィシュアはぼやく。
「あぁ、それは……今度こそ絶対フィシュアに勝つからね」
自信あり気に宣言したルディを見上げ、フィシュアは「楽しみね」と弟の背を叩いた。
あれ、とフィシュアは庭先の人影に目を留めた。
ルディに「先に行ってて」と言い残し、外廊の手摺りに手をかける。
「テトにシェラート? それにロシュまで……みんなで何してるの?」
二人の部屋からそう遠くない場所だ。ロシュが連れ出したのならここにいるのもおかしくはないが、珍しいことにロシュだけでなくテトとシェラートも長剣を手にしていた。
テトには重すぎるのか鞘がついたままの剣先が地面についているが、シェラートとロシュは抜き身の剣の切っ先を互いに向けあっている。
テトはもちろん、シェラートが長剣を使うところなどフィシュアは一度も見たことがない。
フィシュアは身を乗り出して下を覗きこむ。
「シェラートって剣、使えたの?」
「いや。使えない」
すぐさま返ってきた否定に、「じゃあ、それは何よ」とフィシュアは訝しげに問う。
何って言われてもなぁ、と泳いだシェラートの表情は明らかに困っていた。シェラートの視線を受け、ロシュが朗らかに答えを繋ぐ。
「とても暇そうだったので、私がお誘いしたんですよ。お二人ともせめて護身程度使えて損はないでしょう。私が剣術をお教えする代わりに、対魔法の戦術でも考えようと思って、シェラート殿には剣と魔法を使っていただいているんです」
暇ってなぁ、とシェラートが抗議したが、ロシュは「暇そうでしたよ」と受け流し、テトも「そうなんだ。だから教えてもらっているの!」と元気よく請け負った。
「へぇー。おもしろそう。ね、私も……」
「だめです」
仲間に入れてほしいと皆まで口にするより早く、ロシュはフィシュアの頼みを遮った。むっと睨みつけても、ロシュに譲る気配はない。
「何で」
納得がいかない、とフィシュアが不満を込めて聞けば、ロシュは「当り前でしょう」と言い切る。
「フィシュア様は手を抜けません。あなたが入ったらシェラート殿は死にますよ。あなたの相手はある程度実力がある者でないと。テト殿に教えるにも今の身体にあった正規の型がいい。あなたじゃ無理です。お暇ならまずは手を抜く練習でもしていてください」
フィシュアは、ぐっと黙り込んだ。
ロシュが言っていることは正論だ。
ロシュに教えを乞うたフィシュアが、まず第一に望んだことはより早く実戦で役に立てるよう強くなることだった。
急所を狙えば、弱い力でも相手に打撃を与えることができる。だからこそ徹底的に人体のあらゆる急所を叩きこまれた。
年中“宵の歌姫”として旅をしてきたフィシュアは、武術の修練が可能な時間と場所が圧倒的に少なく、他の技術を学ぶよりも習った技術を繰り返し身体に覚えさせることを優先させた。
フィシュアが今までに手を合わせたのは、師であるロシュと犯罪者や襲撃者、それから武術を得意とする叔父と兄弟たちだけである。
諦めきれなかったフィシュアは「けち」と口だけ動かし、庭にいる三人を羨ましく眺める。
「だいたい私とは違ってフィシュア様はこれからお仕事があるのでしょう? お仕事が」
わざとらしい反復にフィシュアは昨夜の飲み比べでの賭けの対象を思い返した。
「……まさか、そのことを根に持っているのか?」
「まさか」
相変わらずにこやかな受け答えに反し、ロシュの空色の双眸は冷え冷えとしている。
「嘘は言ってない。賭けの対象はあくまでロシュの休暇だったろう? はじめから私の分は入っていない。それに今日の会議のことは知らなかったんだから仕方ないだろう」
「ええ、仕方がないことです。だから、諦めてくださいね」
反論を許さぬ言葉に、フィシュアは今度こそ完全に口をつぐんだ。
庭に降りていきたいが、降りたとしてもここにいられるのは結局せいぜい十数分程度なのだ。
「後で、会議が終わってから、は……?」
悔し紛れに提案すれば、目があったテトが嬉しそうに笑った。
「待っておくよ、フィシュア。だから早く帰ってきてね!」
片手を振りあげ手を振ってくるテトに、フィシュアはほっと破顔する。
「できるだけ早く戻って来るから」
もう一度だけ身を乗り出して、フィシュアは手摺から手を離す。
急に揺らいだ空気に、フィシュアは素早く身を捩った。
ガキンと金属がかちあう鈍い音と共に、名を呼ぶテトの悲鳴が庭からあがる。
寸で短剣を引き抜き長剣の襲撃を防いだものの、のしかかってくる男の力が強すぎた。
受け流そうにも、刃は噛み合ったままびくともしない。あまりに相手との体格が違いすぎる。あとは押し負けるか、短剣が先に壊れるかだ。圧倒的にこちらの分が悪かった。
剣身越しに相手の深色の双眸が炯々と光る。フィシュアは押されるまま身を沈ませた。力の均衡が崩れた瞬間、腰に帯びていたままの鞘を抜き取って、男のみぞおちに投げつける。
相手の意識が一瞬鞘にそれた隙をつき、フィシュアは右肩めがけて剣を打ち下ろした。当たるかに思われた短剣は、男の長剣に難なく弾き飛ばされる。
飛ばされるに任せ後方に退いたフィシュアを追い、詰められた間合いの先で、目を眇めた彼はにやりと楽しそうに口元を歪めた。
振りかざされた柄先が側頭部に迫る。
受け止めるべく腕を交差させた瞬間、ふわりと腰を引き寄せられた。
予想外の浮遊感に、フィシュアは瞠目する。
「えっ!? えええっ!?」
すぐ傍に黒髪と険を宿したシェラートの横顔があった。
さっきまでいた外廊からはかけ離れ、上階から見ていたはずの緑の景色が間近広がっている。
強靭な風が、自分たちがいる場所を中心に半円状に走っていくのをフィシュアは感じた。
相手が一瞬で消えたことに驚きながら、外廊に取り残された男は自身の剣を手前に掲げる。男を貫くはずだった風の刃は、彼の茶髪すら揺らすこともなく凪いで消えた。
一連の出来事に呆然としていたフィシュアは、「弾かれた」という忌々しげな悪態に我を取り戻した。
なおも攻撃を繰り出そうと手を掲げたシェラートに気付き、フィシュアは目の前の腕にしがみつく。
「わっ、ちょっと、待った、シェラート!」
「はっ……って、おいっ!?」
しがみついたせいで体勢を崩し、落ちかけたフィシュアをシェラートは危ういところで抱えなおす。
「いきなり動くな。危ないだろ!」
「でも、だって」
「大体どうして皇宮内でまで襲われているんだ!」
「いや、えっと、襲われたわけじゃなくて、ね」
「今、まさに襲われていただろうがっ!」
シェラートの怒りようは、とても見覚えがある。
一刻も早く誤解を解かなければ怒鳴り倒されると思い至り、フィシュアは呻いた。
「とにかく落ち着いて」
シェラートの両肩を叩いて宥めるが、あまり効果はなかったらしい。
テトに助けを求めようにも、テトすら今まで見たことのない怒りの様相で上階を睨みつけていた。
ならロシュにと目を向ければ、微笑を崩さぬまま目をそらされる。賭けを相当根に持っているらしい。
他に方法もないので、フィシュアは諦めてシェラートの説得を自ら試みることにした。
「えっと、シェラート? テトも、聞いて? 助けてくれて本当に、本当にっ、ありがたいんだけど、ね……?」
警戒を崩そうとしないシェラートに戸惑いつつフィシュアは口を開いた。真実を告げても怒られそうなので、それはもうとても気が重い。
「あれ。一応、私の兄で、三番目の皇子なのよ」
外廊の手摺りに頬杖をつき傍観に徹している男をフィシュアは指差した。
テトとシェラートが同時に頓狂な声をあげて、フィシュアを見る。
フィシュアは、二人に対し深々と頷き無言で肯定した。
なおも疑わしげなテトとシェラートは揃ってフィシュアとその兄だという人物を交互に見比べる。
手摺に肘をついたまま、機嫌よく手まで振り出した兄は、離れた位置から見てもなんともおかしそうだ。
どうやら妹が困っているのを知り、喜んでいるらしい。
兄の様子に気付いたフィシュアは、頭痛がしはじめそうなこめかみを手で押さえて長く長く溜息を吐いた。