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10

(1)


 それからトールは、3人の男の家に行き、四川省の売春宿に行きついた。既に、4年の月日が流れていた。


(2)


「もういいかな」



 食べることには不自由していない。でも思わずそう口にしていた。おかしなものだと思う。物心ついたときには、生きていくこと、食べていくことが日々の目標であったというのに、今それを成しえて思うことが、死にたいなのだから。



 今日も出勤をして、元締めの部屋のいる前を通る。話し声が聞こえて、なんとなく、耳をすましたらなぜだかすんなりと入ってくる。それはなんだか懐かしい聞き覚えのある声だった。


「おかげでいい女が入ってきて商売繁盛しております」


「それはよかった」


「これは、今月分の女たちの稼ぎです」


「うん。確かに」


 売春宿では、女性は売られた金額の半分を売人に渡し、残りの半分を自分たちの稼ぎで返す。そして晴れて自由の身になるが、だいたいまた新たな買い手が現れて女性は買われる。ようは堂々巡りになる。


「しかし、あなたも考えましたな。ソロモン街の子どもたちに目をつけるとは」


 トールはその言葉を聞いて、驚きを隠せない。


「なーに簡単なこと。世の中需要と供給ですよ。ソロモン街にはその日食べる物に困る子たちで溢れてる。そして飢えて死んでいく者も ごまんといる。そんな子どもたちに愛の手を差し伸べるのは当然のことです」


 もうトールはわかっていた。声の主が誰であるかということを。でも会いに行けないのは、マイロの言葉に翳かげがあるから。それはトールがあのマイロとともに過ごした青春の日々にはなかったものだった。


 それがあって、トールがそこから一歩踏み出せないでいた。


「そして、あなたは晴れて官僚だ」


「面接でアピールできますからね。1点を争う勝負で出来のいい奴らはごまんといる。そんな中で面接官に、他の連中と歴然の差を見せつけられるような物が欲しかった」


「それがソロモン街というわけだ」


「そう。誰もが嫌がるわざわざあのような場所に出向いて、困っている人たちのために無償でボランティアをしています、なんてこんな最高のアピールないだろう」


「学校に行けず、読み書きや計算ができない子どもたちにあなたが、それらを教える。あなたのその経験は面接で充分なアピールポイントになる。そして子どもたちは皆あなたに感謝の意を表する。そんな時間や金や労力のかかること、誰もやりたがらないからね。よっぽどの聖人なら別だかね」


「そうか。僕はさしずめ聖人といったところか」


 マイロの高笑いが辺りに響いた。あの人のこんな笑い方 私、聞いたことがない。トールの体に身の毛がよだつ。


「そこまでならね。笑って済ませられる話ですが……ま、おひとつ」


 酒を注ついでいるのだろう。


「いえね、なぜあなたはこの売春宿でお金を受け取り、わたくしめの杯さかずきを受けていらっしゃるのかと思いましてね」


「まあ、そうだな。『ロイダ』まあ、お前も飲みなさい」


「はい。これはまた結構なことで」


 酒を注ぐ間まがあった。


「聞けば、あなたがボランティアなさる子は女ばかり。これは何故なぜですかな」


「さあ」


「あなたのおかげで読み書きや計算を覚えた女たちは繁華街へと働きに出る。そしてその頃には必要になっているある物を買う」


「ある物」


「とぼけなさんな。生理用品ですよ」


「なるほど」


「あなたは素知らぬ顔で、女たちのテントに行き、『仕事はどうだった』と話を聞き、そこに生理用品があるかを確認する。そこに女としての商品価値が誕生したかどうかの品定めを」


「……それで?」


「めでたく生理用品をその目に焼き付けたあなたは次の段階へと進む。人身売買業者に襲われるという荒療治にね」


「……」


 マイロは手酌てじゃくした。そして声に出さずほくそ笑む。その沈黙がトールに、マイロは否定しているのだと、一筋の光を見せる。


「あなたも罪なお人だ。何もわからない。生娘の純情な乙女心を踏みにじって。……聞けば、襲われた女たちの中には、着飾り、髪を整え、化粧をほどこしていたとか。あなたの来るのを今か今かと待ちわびていたのではあるまいか?」


 ロイダの杯に酒を注ぎ、ロイダが注ごうとするのを手で断り、再びマイロは手酌する。マイロは何も言わない。変わりにロイダの顔を真顔で見る。


「俗にいう、年頃の娘になっている。商品価値としては真まこと、申し分ない。まさに願ったり叶かなったりというわけだ」


「わかっているな。お前も同じ穴あなの狢むじなだぞ」


 そこまで聞いて、トールは部屋の仕切りをかいくぐって二人の前に現れた。


「『風莱燐ふうらいりん』!何をしておる。ここはお前のくるような場所じゃない」


 風莱燐は、トールの源氏名であった。トールはロイダの言葉には見向きもせず、マイロを見つめる。


「マイロ。嘘だと言って。全部嘘だと言って」


 懐の中に短剣を潜めていた。「もういいかな」と思ったあの日から、いつでも命を絶たてるように。


「私は誰」


「知らない」


「お願い。私のことを名前で呼んで。マイロ」


「知らない。僕はお前のことなど知らない」


「あのとき私のために泣いてくれた涙はなんだったの?ねえ、あの涙も嘘だったの?ねえ!答えてよマイロ!!」


「ああ。嘘だよ」


 その言葉を聞いてトールは、その場から駆け出した。



 そして、トールは崖へと行くのである。


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