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『彩生世界』の聖女じゃないほう  作者: 月親
第五章 聖女じゃないほうだからこそ
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34.失くした記憶

 独りの空間。

 意識が戻り、彩子が最初に感じたのはそれだった。

 瞼を開き、目だけで辺りを見回す。

 意識を手放す前と同じ穏やかな闇の空間に、彩子は水面に浮かぶように揺蕩たゆたっていた。

 身を起こす。相変わらず上下もよくわからない場所で、けれどやはり不思議と立つことが出来る。

 先程までと違いは、一つだけだ。

「……っ」

 彩子は頭を振った。一瞬にして頭を占めたその一つを掻き消すように。

 両手の手のひらを強く握って、開く。そうして意識を今の自分に集中させ、彩子は真っ直ぐ前方に向かって歩き出した。


 闇の中を当てもなく彷徨う。

(ん?)

 その内に、不意に右斜め前の空間の一部がぽぅっと明るくなり、彩子は思わず足を止めた。

(あ、これって)

 目の前まで行き、光の中央付近を目を凝らして見る。

 ぼんやりとした光の中に映し出される、ぼんやりとした映像。

(ああ、やっぱり。私の『記憶』だ)

 映像には、ナツメが映っていた。これは初日の光景だろうか、神殿を歩いている彼の姿が見える。

 彩子は、じっとその姿を見つめた。自分の『外』にある、自分の『記憶』。それが意味するところを、彩子は知っていた。

(本編では、美生はここで元の世界を見ていたのよね……あっ)

 やがて光とともに、映像は消えた。

 程なくして、また別の場所に薄い光が点る。

 自然と速くなる足で、彩子は光の側まで歩いて行った。

 森の中にいるナツメが、映し出される。何か魔法を唱えているようだが、映像に音声は無いため彼の声は聞こえない。

 状況から見て、イスミナ周辺の森で結界を張っている時のナツメだろうか。魔法を唱え終えた彼が歩き出したところで、光は消えた。

 その後、センシルカの街、王都、それからレテの村へ。足跡を辿るように、場面は移って行く。

「……っ」

 やがて映像は、『交信の間』で魔法陣を描く彼にまで行き着いた。

 既に床に描かれた魔法陣の向こう、大鏡に魔法陣を描くナツメの後ろ姿が映る。

 彩子は、ナツメから床の魔法陣へと目を移した。自分が開くべき、元の世界への扉だ。

(そう言えば)

 ふと、本編のナツメが彩子の頭を過った。

 頑なに『美生は帰るべき人』と言い続けるナツメの姿に、彼に『自分は帰るべき』だと言っていた自分の姿が重なる。

(私も、面白くなかった話にしちゃったわね)

 センシルカの街で彼に言った自分の台詞を思い出し、彩子は苦笑した。

 光が消える。

 次の光は、点らない。

 そして彩子は、今何を見ていたのか、思い出せないことに気付いた。

(さようなら)

 思い出せないのに、その言葉が誰に向けられたものかはわかる。

「さようなら」

 彩子の意識は、再び白の世界へと落ちていった。



 全身が、柔らかく温かいものに包まれている。

 意識が戻った彩子が感じたのは、今度はそれだった。

 それから、誰かが左手に触れているようだった。

 妙な触れ方なのは、おそらく脈を測っているからだろう。前にもこんなことがあったなと、彩子はぼんやりとした頭で思った。

(……え!?)

 そして自分がそう思ったことに驚き、ハッとして目を開く。

「アヤコさん!」

 自分以上に驚いた紫の瞳と、目が合う。

 そうだ、自分はあの時、この瞳を見て思った。『さすが、ファンタジー』と。

 覚えている、その時のことを。

「ナツメ」

 覚えている。その時の、そしてここにいる彼の名前を。

「! 俺のこと……わかるんですか!?」

「わかる……わ」

 わかる。だからこそ、わからない。

 彩子は周りに目を向け、自分の今の状況を確認した。

 ここは『交信の間』で、自分は床に描かれた魔法陣の上にいるようだった。正確に言えば、その上に座るナツメの膝の上で横抱きにされていた。

 辺りに、他に人の気配は無い。

「! まさか美生が!?」

 思い至った可能性に、彩子は大鏡を振り返った。

「ミウさんなら、カサハさんたちと外です。ちゃんと彼女には、元の世界の記憶もあります」

 ナツメの的確な答に、彩子はほっと胸を撫で下ろした。

 その一方、ナツメが不安に揺れる眼差しを彩子に向けてくる。

「ミウさんに記憶がある。ルシスも未だかつてない程に、マナに満ちた世界になっています。アヤコさん、貴女が元の世界の記憶を失っているということはありませんか?」

 青ざめた顔で、ナツメが尋ねてくる。

「それは有り得ないわ。だって、私の元の世界は美生と違って『ルシスの記憶』を持っていないもの」

「でもマナの光は、確かに貴女からルシスに還っていました。俺たちは一体、貴女から何を奪ってしまったんですかっ!?」

 声を荒げたナツメが、俯き、額に手をやる。

 取り乱した彼を落ち着かせるように、彩子はそっとその肩に触れた。

「本当、ナツメって公式の設定から大分――」

 次いで茶化すように、そう口にして――その先が止まる。

 公式のナツメの設定。それってどんな?

(どんな……だっけ?)

 わからないはずが無い。何度もクリアしたゲームだ、それこそ会話や戦闘の手順を覚えてしまうほどに。

 現に他の三人については、各種イベントを問題無く思い出せる。ナツメだけが思い出せない。

「――思い出せない」

「! 何をですか!?」

 彩子の呟きに、弾かれたようにナツメが顔を上げる。

「ナツメじゃない『ナツメ』が、思い出せない」

「――は?」

 彩子を問い質した口の形のままでありながら、それとは真逆の気の抜けた声が、そこから零れた。同様に彼の表情も、険しいものから困惑したものに変わる。

 しかしそうしていたのも束の間、

「ああ……なるほど」

 深く息を吐いたナツメは、納得したという顔で、そう口にした。

「そう言えば、あの場にはルーセンさんもいたんでした」

「うん?」

「それは、思い出せなくてもいいですよね? 『貴女を知らない『ナツメ』を、貴女が覚えている必要なんてない。忘れたっていいことです』」

「あ」

 ナツメが何に納得したのかがわかり、同時に彩子は自分が失った『ルシスの記憶』がなんであるのかもわかった。

(私、ナツメのことは忘れてない。これからも、忘れることはない)

 ドクン

 心臓が跳ねる。

 早鐘を打ち始める。

 熱を宿した血が巡る。

 行動を急かすようなそれに、彩子は衝動のままにナツメの頬に手を伸ばした。

「ナツメ」

 触れる。触れることが出来る。

 そのまま伸び上がって、ナツメにキスをする。

 ナツメが目を瞠る。

 そのまま固まって、それから彼は少し意地の悪い顔になった。

「貴女からキスとは、何か裏があるんですか?」

 その顔に似合いの口調で、ナツメが言ってくる。

(うん。それも覚えているわ)

 彼と峡谷でした遣り取りだ。

「裏も、表もあるわね」

 散々なことをしておいて、「やっぱり貴方と一緒にいたい」と虫の良い話を言い出すつもりなのだから、そんなの『裏』もいいところだろう。

「そうですか。では、まず表だけ聞きましょう」

「ナツメが……好き」

 彩子の『表』の言葉に、ナツメが微笑む。

 それから彼は、彩子の耳元に口を寄せた。

「ありがとうございます。裏は――今夜、聞かせて下さい」


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