34.失くした記憶
独りの空間。
意識が戻り、彩子が最初に感じたのはそれだった。
瞼を開き、目だけで辺りを見回す。
意識を手放す前と同じ穏やかな闇の空間に、彩子は水面に浮かぶように揺蕩っていた。
身を起こす。相変わらず上下もよくわからない場所で、けれどやはり不思議と立つことが出来る。
先程までと違いは、一つだけだ。
「……っ」
彩子は頭を振った。一瞬にして頭を占めたその一つを掻き消すように。
両手の手のひらを強く握って、開く。そうして意識を今の自分に集中させ、彩子は真っ直ぐ前方に向かって歩き出した。
闇の中を当てもなく彷徨う。
(ん?)
その内に、不意に右斜め前の空間の一部がぽぅっと明るくなり、彩子は思わず足を止めた。
(あ、これって)
目の前まで行き、光の中央付近を目を凝らして見る。
ぼんやりとした光の中に映し出される、ぼんやりとした映像。
(ああ、やっぱり。私の『記憶』だ)
映像には、ナツメが映っていた。これは初日の光景だろうか、神殿を歩いている彼の姿が見える。
彩子は、じっとその姿を見つめた。自分の『外』にある、自分の『記憶』。それが意味するところを、彩子は知っていた。
(本編では、美生はここで元の世界を見ていたのよね……あっ)
やがて光とともに、映像は消えた。
程なくして、また別の場所に薄い光が点る。
自然と速くなる足で、彩子は光の側まで歩いて行った。
森の中にいるナツメが、映し出される。何か魔法を唱えているようだが、映像に音声は無いため彼の声は聞こえない。
状況から見て、イスミナ周辺の森で結界を張っている時のナツメだろうか。魔法を唱え終えた彼が歩き出したところで、光は消えた。
その後、センシルカの街、王都、それからレテの村へ。足跡を辿るように、場面は移って行く。
「……っ」
やがて映像は、『交信の間』で魔法陣を描く彼にまで行き着いた。
既に床に描かれた魔法陣の向こう、大鏡に魔法陣を描くナツメの後ろ姿が映る。
彩子は、ナツメから床の魔法陣へと目を移した。自分が開くべき、元の世界への扉だ。
(そう言えば)
ふと、本編のナツメが彩子の頭を過った。
頑なに『美生は帰るべき人』と言い続けるナツメの姿に、彼に『自分は帰るべき』だと言っていた自分の姿が重なる。
(私も、面白くなかった話にしちゃったわね)
センシルカの街で彼に言った自分の台詞を思い出し、彩子は苦笑した。
光が消える。
次の光は、点らない。
そして彩子は、今何を見ていたのか、思い出せないことに気付いた。
(さようなら)
思い出せないのに、その言葉が誰に向けられたものかはわかる。
「さようなら」
彩子の意識は、再び白の世界へと落ちていった。
全身が、柔らかく温かいものに包まれている。
意識が戻った彩子が感じたのは、今度はそれだった。
それから、誰かが左手に触れているようだった。
妙な触れ方なのは、おそらく脈を測っているからだろう。前にもこんなことがあったなと、彩子はぼんやりとした頭で思った。
(……え!?)
そして自分がそう思ったことに驚き、ハッとして目を開く。
「アヤコさん!」
自分以上に驚いた紫の瞳と、目が合う。
そうだ、自分はあの時、この瞳を見て思った。『さすが、ファンタジー』と。
覚えている、その時のことを。
「ナツメ」
覚えている。その時の、そしてここにいる彼の名前を。
「! 俺のこと……わかるんですか!?」
「わかる……わ」
わかる。だからこそ、わからない。
彩子は周りに目を向け、自分の今の状況を確認した。
ここは『交信の間』で、自分は床に描かれた魔法陣の上にいるようだった。正確に言えば、その上に座るナツメの膝の上で横抱きにされていた。
辺りに、他に人の気配は無い。
「! まさか美生が!?」
思い至った可能性に、彩子は大鏡を振り返った。
「ミウさんなら、カサハさんたちと外です。ちゃんと彼女には、元の世界の記憶もあります」
ナツメの的確な答に、彩子はほっと胸を撫で下ろした。
その一方、ナツメが不安に揺れる眼差しを彩子に向けてくる。
「ミウさんに記憶がある。ルシスも未だかつてない程に、マナに満ちた世界になっています。アヤコさん、貴女が元の世界の記憶を失っているということはありませんか?」
青ざめた顔で、ナツメが尋ねてくる。
「それは有り得ないわ。だって、私の元の世界は美生と違って『ルシスの記憶』を持っていないもの」
「でもマナの光は、確かに貴女からルシスに還っていました。俺たちは一体、貴女から何を奪ってしまったんですかっ!?」
声を荒げたナツメが、俯き、額に手をやる。
取り乱した彼を落ち着かせるように、彩子はそっとその肩に触れた。
「本当、ナツメって公式の設定から大分――」
次いで茶化すように、そう口にして――その先が止まる。
公式のナツメの設定。それってどんな?
(どんな……だっけ?)
わからないはずが無い。何度もクリアしたゲームだ、それこそ会話や戦闘の手順を覚えてしまうほどに。
現に他の三人については、各種イベントを問題無く思い出せる。ナツメだけが思い出せない。
「――思い出せない」
「! 何をですか!?」
彩子の呟きに、弾かれたようにナツメが顔を上げる。
「ナツメじゃない『ナツメ』が、思い出せない」
「――は?」
彩子を問い質した口の形のままでありながら、それとは真逆の気の抜けた声が、そこから零れた。同様に彼の表情も、険しいものから困惑したものに変わる。
しかしそうしていたのも束の間、
「ああ……なるほど」
深く息を吐いたナツメは、納得したという顔で、そう口にした。
「そう言えば、あの場にはルーセンさんもいたんでした」
「うん?」
「それは、思い出せなくてもいいですよね? 『貴女を知らない『ナツメ』を、貴女が覚えている必要なんてない。忘れたっていいことです』」
「あ」
ナツメが何に納得したのかがわかり、同時に彩子は自分が失った『ルシスの記憶』がなんであるのかもわかった。
(私、ナツメのことは忘れてない。これからも、忘れることはない)
ドクン
心臓が跳ねる。
早鐘を打ち始める。
熱を宿した血が巡る。
行動を急かすようなそれに、彩子は衝動のままにナツメの頬に手を伸ばした。
「ナツメ」
触れる。触れることが出来る。
そのまま伸び上がって、ナツメにキスをする。
ナツメが目を瞠る。
そのまま固まって、それから彼は少し意地の悪い顔になった。
「貴女からキスとは、何か裏があるんですか?」
その顔に似合いの口調で、ナツメが言ってくる。
(うん。それも覚えているわ)
彼と峡谷でした遣り取りだ。
「裏も、表もあるわね」
散々なことをしておいて、「やっぱり貴方と一緒にいたい」と虫の良い話を言い出すつもりなのだから、そんなの『裏』もいいところだろう。
「そうですか。では、まず表だけ聞きましょう」
「ナツメが……好き」
彩子の『表』の言葉に、ナツメが微笑む。
それから彼は、彩子の耳元に口を寄せた。
「ありがとうございます。裏は――今夜、聞かせて下さい」




