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『彩生世界』の聖女じゃないほう  作者: 月親
第五章 聖女じゃないほうだからこそ
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33.あの日の望み

 二度目の増援を撃破後、辺りに静けさが広がる。

(勝て、た……)

 気を張っていた反動で彩子は脱力し、側の壁に手をついた。

 先にカサハが『交信の間』に入り、周囲を確認した彼から片手を上げた合図がくる。

 入口に近いルーセンから順に、四人はカサハに続いて室内に入った。

 美生がナツメに声を掛ける。それを見て、彩子は部屋の奥へと向かった。

(綺麗……)

 大鏡の前に立ち、ナツメの手によって描かれた魔法陣の細部を眺める。

 彩子は右手を掲げ、人差し指をペンになぞらえて、彼の軌跡を辿ってみた。

 そうしながら先刻ナツメにされたように、鏡を利用して後ろの様子を覗き見る。

(美生との会話中に、余所見は失礼よ)

 美生にカサハが話し掛ける度、その隙に彩子の様子を窺うナツメに、彩子は苦笑した。

 美生とナツメの間で為される本編の遣り取りが終わり、美生が大鏡の方へ身体ごと向き直る。

 その彼女と正面から向かい合う形で、彩子は振り返った。

「美生、神域には私が行くわ」

 きょとんとしてこちらを見た美生の隣、ナツメがハッとした表情になる。直ぐさま動き出した彼に、彩子も直ぐに身を翻した。

 大鏡に手を触れる。

 その手を前方に伸ばせば、水面に手を差し入れるような感覚の後、彩子の身体は鏡の向こう側へと抜けていた。

 最後に左足が境界を跨いで、空と大地がある物質的なルシスとは別の次元に移動する。今朝、ルーセンが話していたように、上下の無い不思議な場所。

 彩子は、ぐるりと辺りを見回した。

 薄明かりの月夜を思わせる、静かな闇の空間がそこに広がっていた。

(ゲームで見ていた時より、優しい印象かも)

 闇は闇でも、ここに在るのは安らぎを感じさせる闇。それはこの空間の主をよく表していた。

(ゲームではここで、美生の回想シーンが始まるわけだけど……)

 自分は適当に散策でもしようか。そう考え、歩き出した矢先――

(……何?)

 突然背後から強い光が差し込み、彩子はその出所を探ろうと振り返った。

 光は一時、直径二メートル程まで拡がり、そこから徐々に収束して行った。

「え?」

 この場にいるはずのない人の姿を、残して。

「貴女のその顔、見物ですね」

 もし目に映るのなら、それは幻のはずなのに。その幻は、不機嫌そうに彩子に話し掛けてくる。

「どうして」

 彩子は幻――ナツメを呆然として、見上げた。

「入口が消えたはずなのに、ですか? 確かに一つ目の魔法陣は跡形も無く消えていましたね」

「一つ目? どういうこと?」

 大鏡に描かれた魔法陣は、鏡全体に描かれる大きなものだ。もう一つを描くスペースなどどこにも無いはず。

「言葉通りですよ。まったく同じ魔法陣を二つ重ねて描いた内の、一つ目です」

「は……?」

 信じられない種明かしに、彩子は目を瞠ってナツメを見た。

 自分はその魔法陣を間近で見た。重ねて描かれた痕跡など無かった。

 あれが二重だというのなら、その二つは一ミリも違わず完全に一致していることになる。

 そんなまさか。そう思いながらも、そのまさかをやってのけるのがナツメという男だということも、彩子は知っていた。

「変に責任感を発揮した貴女が、こうした行動に出ないとも限らないと思ったので、手を打っておきました。ミウさん本人は、貴女がこうすることを望んではいませんよ。戻りましょう」

(望み……)

 呆気に取られていた隙に、ナツメに両腕を捕らえられる。

「そうね。望んでいるのは、私の勝手」

「だからそれは――」

「ううん、責任感じゃないの」

 彩子は掴まれた自分の腕に目を落とした。

 ナツメの手の中、自分の腕だけが弱い光を放っている。その色は、いつか見たマナの光と同じだった。

「!? 保護魔法をっ」

 事態に気付いたナツメが魔法を詠唱し、しかし現れた魔法の膜は形になる前に雲散する。

「魔法もマナだから。神域で保護魔法を掛けたところで、水の中で氷の壁を出しているようなものよ」

「……っ」

 平常時のナツメなら、そのくらいの判断は出来たはずだった。

(前にも似たようなことがあったっけ)

 崖から転落した時のことを思い出す。あの時の彼は、確か言い慣れた魔法の詠唱を失敗していた。

「責任感じゃない。私は『彩生世界』を見ていて、見る度に、この世界を選んだ美生に、元の世界の大切な思い出も失くさないで欲しいと思ってた。ずっと心にあった願いが、ここでは叶えられるの」

 彩子の腕から離れた光が、ふわりと光の玉となって浮き上がる。

「そうですか。貴女の願いは忌々しいくらいに立派ですよ。言ったのが貴女でなければ、称賛したところです」

 言いながらナツメが、打つ手が無いか思考しているのが見て取れる。焦りと不安で苛立ったナツメ。本編では見られない、彼。

(ああ、そっか。私、今こうしている彼を忘れるんだ……)

 自分だけに向けられる表情。「忌々しい」という言葉にさえ感じられる、愛しさ。

 この彼の姿を、声を、自分は忘れる。

 今になって美生の気持ちがわかった。自分も彼を覚えていたい、例え元の世界の記憶を失ったとしても。

 彩子は思わず目を伏せた。

 『彩子さんの夢は、ナツメさんと離れても叶いますか?』。もしもあの時、自分にそう尋ねたのが美生ではなく目の前にいるナツメだったなら、自分はあの時と同じ答えを返せなかったかもしれない。

 でも、もう引き返せない。

 だからせめて自分が我が侭を通したのだと、思わせなければ。

 本当は後悔したことを、彼に知られては駄目だ。

「前に話したけど、美生とナツメが親密になる物語の結末もあったの。だから私はナツメに対して、「美生でなく私でいいのなら、私じゃなくてもいいんだ」と思ってしまった。酷いでしょう?」

 彩子はルーセンにも話した言い訳を、ナツメに繰り返した。

 本当は、これ以上彼を傷付ける真似はしたくない。けれど――

(けれど、ナツメはきっと、私が後悔したことを知った時に、一番傷付く)

 どこまでも優しい人だから。

 彩子は、瞼をぎゅっと閉じた。

「ええ、酷いですね。だから俺は、そのくらいの理由を持ち出さないと帰れなくなった、貴女がいい」

「……っ」

 こちらの心情を見透かしたナツメの言葉に、思わず肩が震える。

 もう手遅れなのに、耳を塞ぎたくなる。

「私は、帰る。私は、自分がここに喚ばれた意味をそこに見出してしまったから。私の役目は、私がこの世界を去るというところまでだから」

 彩子は塞げない耳の代わりに、思考を閉ざした。彼と向き合う前の自分を表に立たせ、その影に隠れた。

 しかしその途端、強く両肩を掴まれ、彩子は反射的に目を開けた。

「――俺が貴女を大人しく帰すとでも思っているんですか?」

 突き刺さるようなナツメの視線と、かち合う。

「貴女が元の世界に帰るには、俺の魔法が必要です。俺が拒めば貴女は帰ることが出来ない。セネリアのように廃人になれば俺も諦めがつくとでも? 考えが甘いですよ」

 ナツメの口から、険のある声が発せられる。

「俺の方が貴女より余程酷い男です。だから、貴女が抜け殻になったって、元の世界に帰させやしません。貴女の呼吸が止まりその身体が朽ちたって、それでも離してあげません。貴女なんて――あの世で後悔すればいい!」

 睨まれて、脅されて。それなのに、それがこの上なく、愛しい。

「ナツメ」

 他の誰でもない、この人が愛しい。

「ありがとう。貴方のその言葉が嬉しいと思えるくらい、貴方のこと、好きだったわ」

「――っ」

 ナツメが目を瞠り、息を呑む。

 ふわり、ふわり。

 次々に浮かび上がる、彩子のマナの光。

「駄目です……っ」

 それを食い止めんと、ナツメに全身を強く抱き締められる。

 けれど、その彼を擦り抜けて、彩子の光は絶え間なく、もはや光の柱となって立ち上っていた。

(もう……意識が……)

 視界に靄がかかる。

 抱き締めてくれているはずの彼の温もりが、痛みが、遠い。

「! 駄目です、アヤコさん。アヤコさん、アヤコさ――アヤコ!!」

 すべてが、遠い。

 彩子の意識はルシスの中に溶け、一切が白い空間へと落ちていった。


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