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『彩生世界』の聖女じゃないほう  作者: 月親
第五章 聖女じゃないほうだからこそ
36/40

31.誤算

 彩子はバスケットを手に、神殿の地下へと続く階段を下りていた。

 約束のお茶は水筒に入れて、サンドウィッチと一緒に持ってきた。『お茶をする』というよりピクニックだけれど、そこは許して欲しい。

 緩やかに螺旋を描く階段を一段一段下りていく。ルシスに喚ばれて最初に上った階段だ。懐かしいものがある。

(ここでナツメに夢じゃないと言われた時には、信じてなかったっけ)

 あの時にはそれどころでなくて気付かなかったが、頼りない光源が照らす壁には一面に何かの模様が彫られていた。

(模様に見えるけど、魔法的な記述なのかも。やっぱりファンタジーだなぁ)

 何となく空いている方の手で壁に触りながら、彩子はさらに階段を下りていった。


 最下層に近付くと、『交信の間』から漏れ出た光が見えてくる。

(まだ暫く鏡の方の魔法陣は、描き終わらないはずよね)

 『彩生世界』で、ナツメは二箇所にそれぞれ種類の違う魔法陣を描いていた。

 一つは床へ、異世界と繋がるもの。もう一つはルシスの再生とともに修復された、ルシスの神体である大鏡へ、神域へと繋がる扉となるもの。

 美生が元の世界の『ルシスの記憶』を捧げる場合も、こちらのルシスを忘れて帰る場合も、異世界に繋がる魔法陣は必要になる。本編ではどのルートでも、ナツメは先に床の方の魔法陣を描いていた。

 ナツメルートでは、その魔法陣が予め『帰還』仕様になっていたが、それ以外のルートでは、その場で美生がナツメにどちらにするか伝える場面がある。

(ナツメルートだとその『帰還』部分の記述を、ルーセンが消すのよね)

 自分で描けはしないものの、ナツメに魔法陣を教えたのはルーセンだ。記述の意味は読み取れるのだろう。

(私は、さっぱりわからないわね)

 『交信の間』の入口、真っ先に目に入った淡い赤色の光を放つ魔法陣を前に、彩子は思わず足を止めて魅入った。

 コンパスで描かれたように正確な三重の正円。その円の間に、美しい文字が整然と等間隔に並ぶ。そのどれもが違う文字のはずなのに、あまりにも整ったそれは、綺麗な左右対称に見えた。

(確かにこれは、誰にでもは描けないでしょうね)

 ナツメはルーセンが大雑把だからだと言っていたが、実物を前にすると「ナツメが変態レベルで細かい」と反論していたルーセンの言い分の方がもっともだと思える。

 彩子は苦笑し、今度こそ『交信の間』へと足を踏み入れた。

(ナツメ)

 部屋の奥、こちらに背を向ける形で立つナツメの姿が目に入る。

 真剣な様子で大鏡に向かう彼の気を逸らさないよう、彩子は息を殺して『交信の間』をぐるりと見回した。

 相変わらず石壁に松明のみのシンプルな内装だが、今日は前回と一つだけ異なっていた。

 左の壁沿いに、ナツメが持ち込んだのだろう、小さな作業台が置かれている。彩子は物音を立てないよう慎重に、作業台に近付いた。

 側まで来て見ると、作業台には形状の異なる羽根ペン数本と、色違いのインクボトル数個が載っていた。

 スペース的に、端にバスケットの中身を広げても差し支えなさそうなものの、そういった判断は使用者本人にしかわからないもの。彩子は再度、大鏡に魔法陣を描いているナツメに目を向けた。

「アヤコさん?」

 丁度ペンを替えるところだったのか、ナツメがこちらを振り返る。

「軽食とお茶を思ってきたの。お茶は水筒だけどね。ここの台って、使っていい?」

「構いません。ありがとうございます」

 言いながらナツメが近付いてくる。そんな彼の一挙一動を目で追っていたことに気付き、彩子は慌てて自分の手のバスケットに意識を移した。

 許可が出たので、バスケットの中身を作業台に並べる。

「俺は描き終えてからいただきます。アヤコさんの分もあるようなら、気にせず先にどうぞ」

「あ、ナツメ」

 ペンを取り替えただけで直ぐに大鏡に引き返そうとしたナツメを、彩子は呼び止めた。

「貴方が描いた魔法陣を模写してもいいかしら? 惹かれるものは描きたい性格なの」

 そしてここへ来たもう一つの目的の許可についても、彼に可否を尋ねてみた。

 ナツメが彩子が指す床の魔法陣を一度見て、それから彩子に向き直る。

「ああ、貴女はルシスの文様が好きだと言ってましたね。ええ、いいですよ」

「ありがとう。私が喚ばれた時はそれどころじゃなかったけど、それでも貴方の描く魔法陣が素敵だなとは思っていたのよ」

 彩子は既に大鏡の方へ歩き出していたナツメの背に礼を言いながら、持ってきていた鞄からお手製のスケッチブックを取り出した。

 側の壁に凭れ掛かり、鉛筆を取り出す。それから彩子は紙面の下部に、魔法陣を描き始めた。

 さすがに正確に描くのは無理だが、文字を模様として捉えて描いて行く。

 ナツメが描いている姿を思い浮かべ、彼の手の動きを辿るように自分の手を動かす。

 作業台を照らす松明の火が、パチンと爆ぜた。

 大まかに仕上げて、手を止める。

 次いで彩子は紙面の中央に鉛筆を移動させた。

 少し目線を上げ、大鏡の前に立つ背を向けたナツメを見る。

(ナツメ……)

 滑らせるようにしてペンを動かす彼の姿を、彩子は紙面に書き加えていった。

 『忘れたくないという気持ちごと忘れてしまう』。ルーセンに言った自分の言葉が、ふと頭を過る。

 忘れたくない。それが自分の本音で。自分がこの地を去った後にこの紙をナツメが見つけ、思い出のよすがにしてくれたならと、そんな浅はかな気持ちもそう。

 松明の火がまた、パチンと爆ぜた。

(ナツメ。私、貴方のことが――)

「アヤコさん、俺のことが好きなんですか?」

「!?」

 あまりのタイミングの良さに、彩子は反射的に自分の口を手で押さえた。

 しかし、声に出ていたわけではなく、却って振り返ったナツメに訝しむ目で見られる。

「と、唐突ね」

 彩子は出来るだけ平然を装って言った。

 ナツメが再びこちらに向かって歩いてくる。

 彼の後ろに描かれた大鏡の魔法陣は金色に発光しており、いつの間にか完成していたようだった。

「貴女、俺も描いていたでしょう?」

「!」

 目の前まで来たナツメの指摘に、息を呑む。

 疑問の形を取ってはいるが、その射るような眼差しには彼が確信を持っていることが見て取れた。

「床の魔法陣を描くだけなら、鉛筆を持つ手の縦の動きはそこまで大きくなりません。貴女の『惹かれるもの』とは、俺を含めてでは?」

(! そうだ、大鏡……鏡!)

 カツン

 軽い音がして、鉛筆が床の上を転がった。

 けれど彩子にはそれを気に留める余裕は無く、ナツメも彩子から一瞬足りとも目を外そうとはしない。

「別に俺に知られて困るものでもないでしょう。貴女は俺の恋人なんですから」

「……事情を知らない美生たちならともかく、恋人のふりしようを言い出した貴方がそれを言う?」

 ようやく出てきた声は、軽口に合わない少し震えたものになる。

 彩子はナツメの視線から逃れるため、思い出したようにして転がった鉛筆を拾おうとした。

 しかしもう一つ軽い音がしたかと思えば、彩子はナツメの両腕に囲まれていた。

「……っ」

 もともと壁際にいたのが災いして、ナツメに追い詰められる形になる。

 彼が床にほうったペンは、彩子の鉛筆にぶつかって止まった。

「俺は「恋人のふり」とは一言も言っていませんよ。はっきりと、「恋人として」と貴女に言いました」

「え……」

「そうやって貴女が本気にしないことを利用して、言質を取ってやろうとは思っていましたけどね」

 視界が翳る。

 ナツメが肘を曲げ距離を詰めた分、光が遮られる。

「キスしていいですか?」

「なっ……」

 額と額が触れ合う。

 ナツメの熱が、伝わる。

「な、何言ってるのよ。か、仮に恋人だとして、その、だってほら、私は初めてじゃないし!」

 彩子は混乱し、自分でもよくわからないまま早口で捲し立てた。

 『彩生世界』では、美生はどのルートでも初めてのキスだった。美生に限らず、この手のゲームでは多くがそうで。それなのに何故、自分がそういった場面に遭遇しているのか。そんな妙な憤りさえ覚える。

「貴女こそ何を言っているんです? 貴女にしたいのに、未経験の女性にしろと言われても困るのですが」

「それは正論、すごく正論。でも違うの、そういうことじゃないの」

「そうですか。それで、いいですか?」

 相変わらず形ばかりの問いではあるが、それでもナツメは嫌だとはっきり言った相手に強引に迫るような男でもない。

(問題は……私が嫌だと思ってないこと)

 それなら「嫌」ではなく「駄目」だと答える? でもそれだと駄目な理由を問い質されるだけだろう。

「どう返事していいか……わからない」

 拒めない自分への呆れも相俟って、彩子は力無く答えた。

(私が物語のヒロインなら、「嬉しい」という正解の選択肢を迷わず選べたのにね)

 未練がましく、そんなどうにもならないことまで考えてしまう。

「そうですか。それは良かった」

 だから彩子はナツメの言葉を聞き逃し、彼が触れていた額を離した理由に気付けなかった。

「貴女は断らなかった。断りたくなかったから。貴女は、俺のことが好きなんです」

「! ナツ――」

 遅れて意図に気付き呼ぼうとした名が、その主の口に呑み込まれて消える。

 押し返そうとナツメの胸に伸ばした手は、謀ったかのように彼の手に絡め取られ、壁に縫い付けられた。

「んん……っ」

 息苦しさに開けたはずの口が、さらに空気を奪われる。

 眉根を寄せたナツメ。額よりも熱い彼の熱に、歯列をなぞられる。

「ふ……ぅ、ん……っ」

 逃げるふりをする舌を追われる。押し返すふりにかこつけて縋った手を、握り返される。

 望んで囚われた檻を免罪符に、彩子は抵抗を止め瞼を閉じた。

(ナツメ……)

 この状況を避けようとして、言葉を選んだつもりだった。

 それなのに強く自分を捕らえるナツメの手に、隙間無く重なる唇に、自分は安堵すら感じている。

「――アヤコさん、俺のことが、好きなんですか?」

 唇が掠める距離で、再度問われる。

 聞かないで欲しい。答えられない。

「もっと、貴女にキスしても?」

 聞かないで。

 聞かないで。

 答えてしまうから。

「アヤコさん。このまま俺と――」

 ゴトンッ

「!?」

 突如、物音が室内に響き、彩子はハッとして目を開いた。

 松明の一つが床に落ちているのが見えた。

(嘘……)

 最初は音に驚いた。けれどその次には、それ以上に別の理由が彩子の身体を震わせた。

 身を起こし振り返ったナツメの向こう、黒い影が揺らぐ。

「魔、獣……」

 自分で発した言葉のはずなのに、彩子は信じられない思いでそれを聞いた。

 魔獣は、集めたマナをルシスに持ち帰る。それはつまり、魔獣の本当の住処は境界線を通ったその先、ルシスの神域ということだ。そして今、その神域への扉はナツメによって開かれた。

「私……」

 知っていた。

 ナツメが開いた扉を通り、大鏡から魔獣が現れることを、自分は知っていた。

「私、私はっ!」

 彩子は叫んだ。

「私、知ってたのに!」

 揺らぎが魔獣の姿に定まる。

「グルル……」

「あ……」

 そしてそれは、彩子に向かって真っ直ぐに突進してきた。


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