30.ルシス
朝が来た。
彩子はベッド代わりの長椅子から身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。
窓辺に寄って、少しカーテンを捲る。
よく晴れた空がそこにあった。
(『彩生世界』最後の日、か)
暫く青い空を眺める。
風に揺れる草木を眺める。
生きている世界を、見つめる。
それから彩子はカーテンから手を離し、元の長椅子のところまで戻った。
毛布を綺麗に折り畳み、長椅子の背に掛ける。
枕代わりのクッションも、乱雑に見えないように配置する。
それが終わったら、着替えだ。
昨夜着たTシャツとジャージのズボンから、ルシスの服へと着替える。寝間着の方が元の世界の服だが、置いて行くしかないだろう。これを着て行ったものなら、ナツメに理由を問い質されること必至だろうから。
脱いだ服もきちんと畳み、クッションの側に置いた。
仕上げにいつもの肩掛け鞄を身に着け、部屋の出入り口へと向かう。
一度、室内を振り返る。
(ありがとう。楽しかった)
そして彩子は、資料室を後にした。
「はい、ルーセン。香草茶」
ルーセンの私室。彩子は二人分の茶の入ったカップとティーポットを、木製の丸いミニテーブルの上の置いた。
「ありがとう。アヤコ」
膝上に両手を乗せた姿勢で椅子に座り、やたら行儀良く待っていたルーセンから、礼の言葉が来る。
早速一口飲んで「これこれ」と嬉しそうに言う彼に、彩子は口元だけで笑いつつ、彼の向かい側の席に座った。
「やっぱり美味しいよね、これ。初めて飲んだ時にすごく気に入って。それで僕の部屋に茶葉を置いてもらったんだ。でも何でだろ、僕が淹れるとこれじゃないものにしかならなかったんだよね……」
ルーセンが満面の笑みで茶を飲み、しかし話している内にそれが悲しげなものに変わる。
(そう言えば前に鍋の番をしていた時にも、失敗談を話してたっけ)
料理同様、神は茶を淹れる機会もなかっただろうから、そうなるのも必然か。彩子は、次の一口でまた笑顔に戻っていたルーセンを眺めながら、自分の茶に口を付けた。
「そうそう。昨日、神域の――セネリアが死んだ場所に行ってきたよ。上下も無いような空間だけど、意外にわかるものだね」
空になったカップを、ルーセンがテーブルに戻す。
「ミウがセネリアなのは驚いたけど、セネリアがちゃんと生まれ変わっていてよかった。そこの世界は、僕と違って安定した良い世界だったみたいだし。それに新しい家族も良い人たちみたいだ」
「それだけど、美生はルシスに残るそうよ」
「へ? 何で――って、あー、カサハがいるからか」
ルーセンが空のカップに二杯目をなみなみと注ぎ、それをぐいっと一息に呷る。
「勿論それはあるけど、それを抜いても美生はルシスだって好きみたいよ。セネリアが言ってた『親愛なるルシス』って気持ちは、美生にもあると思う」
「それ。それがまたわからないんだよね。僕は彼女の村を滅ぼしたのに」
一瞬で再び空になったカップをテーブルに戻し、ルーセンが腕を組んで唸る。
「ルーセンのせいじゃないでしょう」
彩子は半分になった茶を飲み干し、自分もカップをテーブルに置いた。
「人間だって自分の体の細胞がどう働いてるかなんて、把握してないわよ。私はセネリアが言う親愛、わかる気がするけど」
「それって、どんな?」
難しい顔のルーセンが、テーブルに頬杖の格好で彩子に聞き返してくる。
態度こそそんなだが、彼が真剣に尋ねていることは、彩子にはわかった。
ルーセンをじっと見る。
(ここの『彩生世界』はカサハのルートなのよね)
ルーセンのルートであるなら、彼はセネリア亡き後、どう過ごしていたかを美生に話す場面もあったのだけれど。
(……少しだけ、『予言者』してもいっか)
彩子はルーセンを真似て自分も頬杖をつき、彼と目線を合わせた。
「殺しに来たと思ってた人間に、それでも感謝する優しいところとか? ルーセンて名前、『ルシス・セネリア』から来てるんでしょう」
「どんな?」の問いにそう答えれば、ルーセンの口が「え」の形で開いて固まる。
しかし直ぐに彩子がそれを知っている理由に至った彼は、くしゃっと崩した顔で笑った。
「そんなことで許せるなんて……そりゃ『聖女』だよね。で、ミウは残るとして、アヤコはどうするの?」
変わらず頬杖の体勢で、けれど今度は気軽な感じでルーセンが聞いてくる。
その様子に、彩子は少し答えることを躊躇った。自分のそれはきっと、彼が予想したものと違ってしまうだろうから。
「――私は、帰ることになるわ」
不自然な間を置いて、出て来たのは不自然な言い回し。
「帰る『ことになる』?」
当然、ルーセンに訝しがられる。
彩子は徐に両手をテーブルの上で揃え、彼の方へとやや身を乗り出した。
「ルーセン。神域で巡らせるのは、美生の『ルシスの記憶』じゃなくて、私のものにして欲しいの」
寄ってきた彩子に、ルーセンが反射的に背筋を伸ばす。
「アヤコのって……ああ、それで帰る『ことになる』わけ」
察しがいい彼に、彩子は「そういうこと」と乗り出していた身を戻した。
「ナツメには言ったの?」
次に来るだろうと予測していたその問いには、彩子は頭だけを振ってみせた。
「言ったところで美生に差し出せと言うような人じゃないでしょ。無駄に板挟みにさせるだけだわ」
「それはそうだけどさ……」
「――私の知る物語では、展開によってはナツメが美生と親密になって、彼女に救われる結末があるの。こう言ったら何だけど、美生でなくて私でいいのなら、それは私でもなくてもいいということよ」
複雑だけれど、突き詰めればそういうことだ。彩子は物言いたげなルーセンに、敢えて淡々とした口調で言った。
「酷いことを言ってる自覚はあるわよ? けど、美生が記憶を手放さないで済む方法を知った今、私がルシスに残って元の世界を忘れた彼女を見るのは正直きつい。私は、彼女が見てきた世界を知っているから。物語として外から見ていた時も引っ掛かっていたそれを、間近で見ていて平気でいられる気がしない」
テーブルに揃えたままだった手に目を落とし、続けて一息に口にする。
「アヤコは……ナツメを忘れてもいいの?」
目を伏せた彩子の耳に、それでも悲しげな表情とわかるルーセンの声が届く。
彩子は片手を自分のもう片手に重ね、ぎゅっとそれを握った。
「忘れたくないという気持ちごと忘れてしまうわけだから、いいんじゃないかしら」
屁理屈もいいところの答を返す。
「――そう、忘れたくはないんだ。ナツメが完全に振られてなくて、ほっとした」
「何だかんだで仲良いわよね、貴方たち」
捨て鉢な自分にも寛容なルーセンに、彩子は知らず強張っていた身体をふっと弛ませた。
伏せていた目を上げれば、ルーセンと目が合う。
「アヤコの知る物語でも、そうだった?」
「そうね。煮え切らないナツメに、世話を焼いていたわ」
「煮え切らないナツメ? こっちでは煮え滾ってるよね。両極端だなあ」
ルーセンがまた頬杖の格好に戻って、苦笑する。
「そう言えば、アヤコ。ミウの代わりにってことは、アヤコの予言はもういいの?」
ルーセンの疑問に、彩子は『物語』を思い返した。
『彩生世界』は、後は最終戦を残すのみ。そしてその前にも後にも、判定があるようなイベントは存在しない。
『物語』は、間もなく終わりを迎える。
「神域に入る頃には、いいと思ってもらっていいわ」
「そっか。わかった。ナツメはもう、マナを巡らせる魔法陣を描きに神殿へ行ったよ。あの様子じゃ朝食にも出ないだろうから、アヤコから会いに行ってあげたら?」
「そうするわ」
彩子は言いながら立ち上がった。
今日はもとよりそのつもりでいた。
(あ、そうだ)
ふとティーセットが目に留まり、以前ナツメとした『お茶を淹れる』という約束を思い出す。あの後、結局機会が無くて果たされずじまいだった約束だ。
(軽食と一緒に持って行こう)
彩子は先に食堂へ寄ることに決め、「それじゃあ後で」とルーセンに退室の挨拶をして、部屋の出入り口へと向かった。
「アヤコ」
「ん?」
扉の前まで来たところで呼び止められ、ルーセンを振り返る。
「僕はね、ナツメだけじゃなくてアヤコとも仲良しを自負してるから!」
「へ?」
途端、いきなりルーセンにビシッと指差される。加えてこれまたいきなりな宣言もされ、彩子は思わず素っ頓狂な声を上げた。
けれど次の瞬間には、それらが温かいものに変わり胸に広がる。
「私も、そう思ってるわ」
彩子はその温かいものに応えるように、ルーセンに笑顔で手を振ってみせた。
例え忘れるとしても、今在る想いは本物だから。
ルーセンへの友情も、そしてナツメへの愛情も。
嬉しそうに手を振り返してくるルーセンに見送られ、彩子は彼の部屋を後にした。




