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『彩生世界』の聖女じゃないほう  作者: 月親
第五章 聖女じゃないほうだからこそ
35/40

30.ルシス

 朝が来た。

 彩子はベッド代わりの長椅子から身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。

 窓辺に寄って、少しカーテンを捲る。

 よく晴れた空がそこにあった。

(『彩生世界』最後の日、か)

 暫く青い空を眺める。

 風に揺れる草木を眺める。

 生きている世界を、見つめる。

 それから彩子はカーテンから手を離し、元の長椅子のところまで戻った。


 毛布を綺麗に折り畳み、長椅子の背に掛ける。

 枕代わりのクッションも、乱雑に見えないように配置する。

 それが終わったら、着替えだ。

 昨夜着たTシャツとジャージのズボンから、ルシスの服へと着替える。寝間着の方が元の世界の服だが、置いて行くしかないだろう。これを着て行ったものなら、ナツメに理由を問い質されること必至だろうから。

 脱いだ服もきちんと畳み、クッションの側に置いた。

 仕上げにいつもの肩掛け鞄を身に着け、部屋の出入り口へと向かう。

 一度、室内を振り返る。

(ありがとう。楽しかった)

 そして彩子は、資料室を後にした。



「はい、ルーセン。香草茶」

 ルーセンの私室。彩子は二人分の茶の入ったカップとティーポットを、木製の丸いミニテーブルの上の置いた。

「ありがとう。アヤコ」

 膝上に両手を乗せた姿勢で椅子に座り、やたら行儀良く待っていたルーセンから、礼の言葉が来る。

 早速一口飲んで「これこれ」と嬉しそうに言う彼に、彩子は口元だけで笑いつつ、彼の向かい側の席に座った。

「やっぱり美味しいよね、これ。初めて飲んだ時にすごく気に入って。それで僕の部屋に茶葉を置いてもらったんだ。でも何でだろ、僕が淹れるとこれじゃないものにしかならなかったんだよね……」

 ルーセンが満面の笑みで茶を飲み、しかし話している内にそれが悲しげなものに変わる。

(そう言えば前に鍋の番をしていた時にも、失敗談を話してたっけ)

 料理同様、神は茶を淹れる機会もなかっただろうから、そうなるのも必然か。彩子は、次の一口でまた笑顔に戻っていたルーセンを眺めながら、自分の茶に口を付けた。

「そうそう。昨日、神域の――セネリアが死んだ場所に行ってきたよ。上下も無いような空間だけど、意外にわかるものだね」

 空になったカップを、ルーセンがテーブルに戻す。

「ミウがセネリアなのは驚いたけど、セネリアがちゃんと生まれ変わっていてよかった。そこの世界は、僕と違って安定した良い世界だったみたいだし。それに新しい家族も良い人たちみたいだ」

「それだけど、美生はルシスに残るそうよ」

「へ? 何で――って、あー、カサハがいるからか」

 ルーセンが空のカップに二杯目をなみなみと注ぎ、それをぐいっと一息にあおる。

「勿論それはあるけど、それを抜いても美生はルシスだって好きみたいよ。セネリアが言ってた『親愛なるルシス』って気持ちは、美生にもあると思う」

「それ。それがまたわからないんだよね。僕は彼女の村を滅ぼしたのに」

 一瞬で再び空になったカップをテーブルに戻し、ルーセンが腕を組んで唸る。

「ルーセンのせいじゃないでしょう」

 彩子は半分になった茶を飲み干し、自分もカップをテーブルに置いた。

「人間だって自分の体の細胞がどう働いてるかなんて、把握してないわよ。私はセネリアが言う親愛、わかる気がするけど」

「それって、どんな?」

 難しい顔のルーセンが、テーブルに頬杖の格好で彩子に聞き返してくる。

 態度こそそんなだが、彼が真剣に尋ねていることは、彩子にはわかった。

 ルーセンをじっと見る。

(ここの『彩生世界』はカサハのルートなのよね)

 ルーセンのルートであるなら、彼はセネリア亡き後、どう過ごしていたかを美生に話す場面もあったのだけれど。

(……少しだけ、『予言者』してもいっか)

 彩子はルーセンを真似て自分も頬杖をつき、彼と目線を合わせた。

「殺しに来たと思ってた人間に、それでも感謝する優しいところとか? ルーセンて名前、『ルシス・セネリア』から来てるんでしょう」

 「どんな?」の問いにそう答えれば、ルーセンの口が「え」の形で開いて固まる。

 しかし直ぐに彩子がそれを知っている理由に至った彼は、くしゃっと崩した顔で笑った。

「そんなことで許せるなんて……そりゃ『聖女』だよね。で、ミウは残るとして、アヤコはどうするの?」

 変わらず頬杖の体勢で、けれど今度は気軽な感じでルーセンが聞いてくる。

 その様子に、彩子は少し答えることを躊躇った。自分のそれはきっと、彼が予想したものと違ってしまうだろうから。

「――私は、帰ることになるわ」

 不自然な間を置いて、出て来たのは不自然な言い回し。

「帰る『ことになる』?」

 当然、ルーセンに訝しがられる。

 彩子はおもむろに両手をテーブルの上で揃え、彼の方へとやや身を乗り出した。

「ルーセン。神域で巡らせるのは、美生の『ルシスの記憶』じゃなくて、私のものにして欲しいの」

 寄ってきた彩子に、ルーセンが反射的に背筋を伸ばす。

「アヤコのって……ああ、それで帰る『ことになる』わけ」

 察しがいい彼に、彩子は「そういうこと」と乗り出していた身を戻した。

「ナツメには言ったの?」

 次に来るだろうと予測していたその問いには、彩子は頭だけを振ってみせた。

「言ったところで美生に差し出せと言うような人じゃないでしょ。無駄に板挟みにさせるだけだわ」

「それはそうだけどさ……」

「――私の知る物語では、展開によってはナツメが美生と親密になって、彼女に救われる結末があるの。こう言ったら何だけど、美生でなくて私でいいのなら、それは私でもなくてもいいということよ」

  複雑だけれど、突き詰めればそういうことだ。彩子は物言いたげなルーセンに、敢えて淡々とした口調で言った。

「酷いことを言ってる自覚はあるわよ? けど、美生が記憶を手放さないで済む方法を知った今、私がルシスに残って元の世界を忘れた彼女を見るのは正直きつい。私は、彼女が見てきた世界を知っているから。物語として外から見ていた時も引っ掛かっていたそれを、間近で見ていて平気でいられる気がしない」

 テーブルに揃えたままだった手に目を落とし、続けて一息に口にする。

「アヤコは……ナツメを忘れてもいいの?」

 目を伏せた彩子の耳に、それでも悲しげな表情とわかるルーセンの声が届く。

 彩子は片手を自分のもう片手に重ね、ぎゅっとそれを握った。

「忘れたくないという気持ちごと忘れてしまうわけだから、いいんじゃないかしら」

 屁理屈もいいところの答を返す。

「――そう、忘れたくはないんだ。ナツメが完全に振られてなくて、ほっとした」

「何だかんだで仲良いわよね、貴方たち」

 捨て鉢な自分にも寛容なルーセンに、彩子は知らず強張っていた身体をふっと弛ませた。

 伏せていた目を上げれば、ルーセンと目が合う。

「アヤコの知る物語でも、そうだった?」

「そうね。煮え切らないナツメに、世話を焼いていたわ」

「煮え切らないナツメ? こっちでは煮え滾ってるよね。両極端だなあ」

 ルーセンがまた頬杖の格好に戻って、苦笑する。

「そう言えば、アヤコ。ミウの代わりにってことは、アヤコの予言はもういいの?」

 ルーセンの疑問に、彩子は『物語』を思い返した。

 『彩生世界』は、後は最終戦を残すのみ。そしてその前にも後にも、判定があるようなイベントは存在しない。

 『物語』は、間もなく終わりを迎える。

「神域に入る頃には、いいと思ってもらっていいわ」

「そっか。わかった。ナツメはもう、マナを巡らせる魔法陣を描きに神殿へ行ったよ。あの様子じゃ朝食にも出ないだろうから、アヤコから会いに行ってあげたら?」

「そうするわ」

 彩子は言いながら立ち上がった。

 今日はもとよりそのつもりでいた。

(あ、そうだ)

 ふとティーセットが目に留まり、以前ナツメとした『お茶を淹れる』という約束を思い出す。あの後、結局機会が無くて果たされずじまいだった約束だ。

(軽食と一緒に持って行こう)

 彩子は先に食堂へ寄ることに決め、「それじゃあ後で」とルーセンに退室の挨拶をして、部屋の出入り口へと向かった。

「アヤコ」

「ん?」

 扉の前まで来たところで呼び止められ、ルーセンを振り返る。

「僕はね、ナツメだけじゃなくてアヤコとも仲良しを自負してるから!」

「へ?」

 途端、いきなりルーセンにビシッと指差される。加えてこれまたいきなりな宣言もされ、彩子は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 けれど次の瞬間には、それらが温かいものに変わり胸に広がる。

「私も、そう思ってるわ」

 彩子はその温かいものに応えるように、ルーセンに笑顔で手を振ってみせた。

 例え忘れるとしても、今在る想いは本物だから。

 ルーセンへの友情も、そしてナツメへの愛情も。

 嬉しそうに手を振り返してくるルーセンに見送られ、彩子は彼の部屋を後にした。


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