幕間 聖女と騎士
王都から神殿への道中、美生は考え込んでいた。
全ての玉をルシスに還した。だから後は最後の仕上げとして、ルシスの神域で『世界の記憶』なるマナを流すだけとなる。
別の世界から引き入れた世界一つ分のマナは膨大で、セネリアの記憶ではルシスの悲願である『安定した世界』が実現するはずだ。
けれどそんな最もたる聖女の本分よりも、美生の心は今、別のことで占められていた。
『セネリアが体験した悲しい記憶も忘れるのなら……お前にとっていいのかもしれない』
レテの村で言われたカサハの言葉が、何度も頭の中を繰り返す。
自分はセネリアだった。ずっと昔から今なお彼を苛む、魔女だった。
それなのに掛けられた声色は優しかった。カサハの気遣いが、大切に想ってくれる気持ちが感じられた。
それはとても嬉しいことで、だけど同時に自分が欲しい想いの形はもっと別なのだと、強く思い知らされた。
(私、元の世界よりルシスを選んで欲しいって、言われたかった)
美生は、もう一人の異世界人である彩子をそっと盗み見た。
ナツメといつもと変わらない様子で会話している彼女は、ルシスに残ることにしたのだろうか。
今朝、彩子の部屋を訪ねた時、彼女はいなかった。ノックへの返事が無いのでどうしたのだろうと思っていたところ、使用人の方に不在だと知らされた。ナツメの部屋にいるのだと。
その時は、こんな朝早くから急ぎの用でも出来たのだろうかと思っていた。でも今思うとそうじゃない、朝早くではなく昨日の夜から彩子はナツメといたのだ。
(羨ましい、な)
そう思って、あっと口を手で押さえる。
(そっか、私……「ルシスを」じゃなくて、「俺を」選んで欲しいって言われたかったんだ)
センシルカの街に入り、神殿へと繋がる転送ポータルがある広場へと向かう。
美生は隣を歩く、昨夕から一度も言葉を交わしていないカサハを見上げた。
カサハの眉尻が、一瞬だけ動いて見えた。
いつものカサハなら、すぐにこちらを振り返る。周囲の様子に敏感な彼が、自分に向けられる視線に気付かないわけがない。居心地が悪そうに微かに彷徨う目が、それを物語っていた。
「そうそう。一旦、邸に寄るよ」
皆が神殿への転送ポータルを潜った直後、転送先に最初に着いていたルーセンが皆に言った。
「神域を長く空けていたから、一回様子を見ておきたいんだ。だから皆で神殿に向かうのは明日にしよう。ってことで、カサハとナツメが先にミウとアヤコを邸に連れ帰ってね」
「わかった」
カサハが彩子を見て、それから美生を一瞬だけ見た後、邸へと向かって歩き出す。
(私の気持ち、伝えないと)
美生はキュッと口を引き結び、カサハの背に続いた。
美生は自室のある廊下を、カサハと二人並んで歩いていた。
そう、今は二人だ。彩子は邸に着いて早々、ナツメと反対側の東館に行ってしまった。
カサハも美生を送った後は、部屋に戻らずどこかへ行くつもりかもしれない。今はまだ夕食にも早いような時間帯だ。
「では俺はこれで――」
不安が的中し、美生の部屋の前に到着した途端、カサハは踵を返した。
「駄目!」
去ろうとした彼の後ろ手を、両手で掴む。
「ミウ?」
引き寄せながら自分も近付き、美生は彼を掴んでいた片手をその腕に絡ませた。
そしてもう片手で扉を開け、カサハごと部屋の中へと入る。
「おい?」
再度のカサハの問いかけにも答えず、美生は扉から遠い窓際まで彼を引っ張って行った。
理由も言わず勝手な振る舞いをする美生にも、カサハはその手を振り払おうとはしなかった。
絡めていた腕を解き、最初にしていたように両手で彼の手を掴む。
美生はカサハと向かい合わせで立った。
(何て、言おう……)
カサハの顔が見られなくて、床を見つめる。その間、こちらの言葉を待つカサハの気配が感じられた。
伝えたい気持ちはある。でもそれを表す言葉が見つからない。
(何て……)
必死で探す。それでも見つからない。かといって、いつまでもこうしているわけにもいかない。
美生は意を決して顔を上げた。
(あ……)
カサハの胸の高さまで目を上げたところで、出窓に飾られたマトリの花が目に入る。
小さなミルクピッチャーのような花瓶に生けられたそれは、秋の赤い花を咲かせていた。
中庭でマトリの花の花言葉を教えてくれた彼女とは、その後も何度か話す機会があり、時折部屋に花を持ってきてくれることがあった。今日も彼女が用意してくれたのかもしれない。
(マトリの花言葉……)
美生は花瓶から一輪抜き、手に取った。
その小さな花を、両手でカサハに差し出す。片手でも余るくらいのそれが、そうしなければ取り落としそうに思えた。
「『あなたを私で染め変える』。私、あなたを忘れたくない。だから私を帰せなくなるくらい、あなたが私を好きになって下さい!」
「なっ……」
「私は、カサハさんが好きだから!」
何か言いかけたのかそれとも驚いただけか、カサハの声を掻き消す勢いで美生は言った。
緊張しているからか、この場から一歩も動いていないのに息が浅くなる。
……。
沈黙が流れる。
まだ収まらない呼吸音が、美生の耳にやけに響いて聞こえた。
カサハの手は動かない。
耐えきれずにカサハを見上げれば、困惑の表情をした彼の瞳とぶつかった。
(やっぱり……迷惑だよね)
落胆とともに、思った通りとも思う。
仲間として過ごした。その時間をカサハも大切にしてくれていると感じる。
でも、それでも自分はセネリアで。彼の友人を奪い、神官を見殺しにした魔女である事実は無くならない。
カサハは後悔しているのかもしれない。憎いセネリアとは知らずに守ってきたこと、冷たく突き放せない程に打ち解けてしまったことを。
マトリの花が震える。
美生は受け取られる気配の無いその花を、それでもカサハに差し出し続けるのを止められなかった。
「――お前はどうしてそう、真っ直ぐに俺を好きだと言ってくれるんだ?」
ようやく長い沈黙が破られる。
「俺は以前、お前に言ったはずだ。俺はセネリアを躊躇いなく殺すだろうと。俺は……お前を殺すと口にした男だ。疎まれこそすれ、好意を向けられるに値しない人間だ」
カサハが顔を背ける。
しかし彼の台詞がその行動に繋がったのなら、それが意味するところは自分が思っていた理由と異なる。美生は目を瞬いた。
マトリの花の震えが止まる。
美生は、顔を背けられたことで見えたカサハの赤い耳に、嬉しいはずなのに何故だか泣きたいような気持ちになった。
「殺されてもいいくらい好きだから、いいんです」
泣き笑いのような顔になってしまう。
カサハが目を瞠って、こちらを振り返る。
「そんなお前だから俺は、殺せないくらい好きになってしまった」
そして振り返ったカサハは、美生と似たような顔になった。
それが何だかおかしくて、どちらからともなく笑い出す。
そうしていて、ふとカサハの目がマトリの花に向けられて、次いで彼は美生に目を戻した。
「お前が話題に出したので、俺もあの後、花言葉を人から聞いた。おそらく、お前は言葉だけを聞いたんだろう」
どうしてか、どこか言い辛そうにカサハが言う。
美生は彼の言わんとするところがわからず、首を傾げた。
「『あなたを私で染め変える』は、心をという意味も確かにあるんだが……一般的に広まっているのは――その、ベッドに誘う意味だそうだ」
「? ベッドに……えっ!?」
カサハの言葉を復誦しようとして、美生は慌てて口を閉じた。
火が出るほど顔が熱くなり、それから大失態に青ざめる。
それを交互に繰り返す美生の手に、不意にカサハの指先が触れた。
「その意味をお前が知った上で、いつかの約束として、俺はそれを受け取っていいだろうか?」
今度は美生が目を瞠る番になる。
カサハの指は、遠慮がちに添えられた程度で。しかし彼の真剣な眼差しに、確かな熱を感じた。
息を呑む。
破裂しそうな程、鼓動が煩い。
それでも、この花を彼に贈りたい。
「受け取って、下さい!」
美生は勢いよく言った――つもりの小声で、カサハに答えた。
想定外に次ぐ想定外の展開に、それが美生の精一杯だった。
「!?」
カサハの指が、美生の手の甲を撫でる。
そしてマトリの花は、その彼の手に引き取られた。
「もう返さない。花も、お前も」
「あ……」
驚きにカサハを見上げた顔を、彼のもう片手でさらに上向かされる。
触れるだけのキスがくる。
落ち着きのない心臓とは裏腹に、その心地良さに自然瞼が下りていく。
『いつかの約束として』
『いつか』も、自分はルシスにいる。
「今度は俺から、この先遠い未来まで、お前にこの花を贈らせて欲しい」
間近に感じるカサハの吐息に、彼がどんな顔をしているのか気になり、美生はそっと目を開けてみた。
途端、瞼でないものに、再び視界が閉ざされる。
大きな手。大好きな彼のそれだから、見られなくて残念なのに、つい口元が弛んでしまう。
「はい、カサハさん――」
美生は大人しくまた瞼を閉じ、もう一度触れてきたカサハの唇に応えるように、彼の胸に自分の両手を添えた。
夕食の食堂。美生は、そわそわしながら隣席のカサハを盗み見ていた。
いつもと変わらない様子に見えて、先程からフォークを手にしたまま動きが止まっている彼に、余計にそわそわが酷くなる。昨日とはまた違った意味で気まずい夕食だ。
(嫌じゃないんだけど、すごくくすぐったい……)
これ以上カサハを見ていると、さらに悪化してしまいそうだ。美生は自分の前に並んだ料理に、意識を集中させた。
「これ、美味しいですね」
ハンバーグ(ここでの料理名は違いそうだけど)に添えられた野菜をフォークで刺しながら、美生は未だ固まっているカサハに話し掛けてみた。
見た目も味も人参によく似ているが、自分の知っているものよりも格段に甘くて美味しい。
「そうか。俺の分もやろう」
もごもごと口の中で堪能していたところ、カサハが自分の皿から美生の皿へと人参(仮)を移してくる。
(あ、ねだるように聞こえてしまったのかも)
遠慮しようにも口の中は美味しさで塞がれている。普段の二倍は早く口を動かした美生の努力も虚しく、口が利けるようになった頃にはすべての人参(仮)が美生の皿に載っていた。
「あ、ミウ。そのまま貰ってあげてよ。カサハってカロテが苦手だからさ」
盛りに盛られた皿に手を掛けたところで、向かい合わせに座っていたルーセンから声が飛んでくる。
「え?」
美生は皿の人参改めカロテを見て、それからカサハを見た。
苦々しい表情で「ルーセン……」と呟くカサハに、いけないと思いつつも笑ってしまう。
「ミウ……笑い終わったらそういうことだから、それはお前が食べていい」
「ふふ……はい。ふふ……」
カサハが平然の顔を装って、飾り気が無くなったハンバーグ(仮)にフォークを刺す。
顰め面で食べ始めたこの人が、自分が好きな人だ。
(私は、この人の隣で生きて行きたい)
ひとしきりカサハを眺め、それから美生は飾り気が有り過ぎる自分の皿へと目を戻した。




