28.資格
(やっと戻ってこれた)
一昨日まで泊まっていたナツメの邸の部屋に辿り着いた彩子は、室内に入るなり扉の前で安堵の溜息とともにしゃがみ込んだ。
レテの村から王都への帰り道、カサハと美生が気まずい雰囲気にあったのは知っていた。が、ゲーム中ではそうだった的な文章があっただけで、場面はすぐに王都到着直後に移っていた。
(思ってた以上に気まずかった……)
お互い無言のくせに、並んで歩く距離感は親密なままというカサハと美生の二人。
ルーセンは場の空気を和らげようとして色々と空回りし、ナツメは逆に「俺がどうにかしてしまったら、却ってカサハさんのためになりません」とノータッチ。彩子は彩子で、本編の『気まずかった帰り道』を変えるわけにも行かず。
とにかく心身ともに疲れ果てた。
道中のアレを夕食時にまで見たくない。夕食はパスして、ここは早々にお風呂をいただいて寝てしまおう。
彩子はそう考えて立ち上がり、今来たばかりの扉から再び部屋の外へと出た。
『うーん……』
テレビ画面を睨み、彩子は唸りながらコントローラーを操作した。
戦闘画面用のドットキャラを、ちまちまと動かして行く。
最後にターンを終了し、神殿が描かれたマップの中を魔獣が一斉に動き出すのを、彩子は眺めていた。
『あっ』
その途中、思わず声を上げる。
計算上では持ち堪えられるはずだった囮のナツメが痛恨の一撃に倒れ、魔獣が美生のところまで通ってしまう。
『あー……』
美生はナツメ以上に防御力が低い。あっと言う間にナツメに続いて美生も魔獣の餌食となってしまった。
主人公である美生が倒されたため、画面が暗くなりリトライを尋ねる画面が表示される。
彩子は慣れた手つきで『はい』にカーソルを合わせ、決定ボタンを押そうとした。――けれど、そこで手が止まる。
『え?』
暗くなった画面の中、倒れたドット絵のナツメが彩子を見た気がして、目を凝らす。
しかし当然ながら、そこにあるのは倒れた彼の姿だけで。
『――っ』
そう、倒れた。それが意味するところに気付いた瞬間、彩子の背中にぞわりとした感覚が走った。
『ナツ……メ……?』
ゴトンと、手にしたコントローラーを取り落とす。
『リトライ?』
画面は青ざめた彩子に構わず、問い続けてくる。
『リトライ?』
『はい/いいえ』
「ナツメ!」
ベッドの中、彩子は自分が発した声で目が覚めた。
目が覚めると同時に上体を起こしていた彩子は、バクバクと煩い鼓動を聞きながら、両手で毛布を強く握った。
今見ていた光景を消し去りたくて、何を探すでもなく部屋中を見回す。そして彩子は、目に止まった水差しに手を伸ばした。
震える手でグラスに水を注ぎ、半分ほどの量の水を一息に飲み干す。
喉に水が染み渡る感覚に、彩子は自分の喉が酷く渇いていたことを知った。
幾分か落ち着いて、けれどもう一度眠る気にはなれない。彩子はベッドから降り、窓辺へと移動した。
カーテンの端を少しだけ持ち上げ、その隙間から外を覗く。晴れた空に星が見えた。
邸に着いた頃には既に星は出ていたから、眠っていた時間は短かったらしい。それなら明日に備えて寝直すのが正解なのだろうが……。
枕に目を向けた彩子は、直ぐさま頭を振った。やはり夢で見た光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
(ナツメ……)
ふらりと彩子の足が、部屋の扉へと向かう。
そしてそのまま部屋を出て、足は次にナツメの部屋の方へと向かった。
(私……)
ナツメの部屋の前、扉を叩こうとしていた自分の手に、彩子はハッと我に返った。
あれは夢で、そして今はそんな皆が夢を見ているような時間帯だ。こちらの都合で、そのような非常識な時間に訪ねるわけにはいかない。
(そうでなくても、私にはこの扉を叩く資格は無いわ)
前にこの部屋を訪ねた時のままの気持ちだったなら、自分はこの扉を叩いたかもしれない。上手とは言えない甘えた素振りをしてみせて、それを笑いつつも彼が招き入れてくれる未来もあったかもしれない。
(でも私は、ナツメを置いて元の世界に帰る)
彩子は扉と手を交互に見て、それから静かに手を下ろした。
「どうして止めたんです?」
「!?」
突然の、あまりにも想定外な声。
彩子は大袈裟なほどの動作で、廊下を振り返った。
何故。
何故、会わないでおこうと決めた彼がそこに。
彩子は名を呼ぼうとして呼べなかった口の形のまま、ナツメを見つめた。
何も言わず微動だにしない彩子の方へ、ナツメが距離を詰めてくる。
彼の手には、いつか見た鞄が提げられていた。この時間までナツメは治療に出ていたようだった。
「俺を訪ねて来たんでしょう?」
拗ねたようにも聞こえるナツメのぶっきらぼうな物言いに、その反応としては不似合いな安心感が、彩子の胸に広がる。
それが彩子にいつもの調子を取り戻させた。
「ああ、うん。でも怖い夢を見たなんて、誰かに頼る歳でもなかったなと思ったのよ」
「怖い夢ですか。精神の不調の面から行くと、意外と馬鹿に出来ないですよね。悪夢というのは」
彩子の目の前まで来て、ナツメが鞄をその場に下ろす。そして彼は片手で彩子の頬に触れてきて、その手によって彩子は顔を上向かされた。
「とは言え、アヤコさん。貴女、迂闊過ぎませんか?」
次いで、ナツメにやれやれといった顔をされる。
「念のため聞きますが、そういう意味で俺に慰めてもらいに来たわけじゃないですよね?」
「え?」
そういう? どういう――
「! ち、違う。違うから、全然違うからっ」
夜中に男の部屋を訪ねる女。彩子はようやく自分の行動が周りにどう映るかがわかり、狼狽えながら否定した。
「わかってますよ、念のためと言ったでしょう。まったく。俺がまさにこの部屋で、貴女を抱きたいと思っていると話したのは、そう昔のことでもなかったはずなんですけどね」
「う……」
確かに記憶にある。冗談ではあったが、ナツメにそんな台詞を言われたのは事実だ。
「あげくに俺が付けた痕まである」
「これはなかなか消えない付け方したのはナツメじゃないの」
思わず首筋に手を遣る。付けた本人に隠したところで、まったく意味は無いのだけれど。
「俺は痕を消せなり困るなりを貴方が言ったなら、すぐに消すつもりでしたよ。どうすれば治るかについても完璧だと言ったでしょう?」
「あ」
そう言う意味もあったのか。気付かなかった。というより――
「そもそも消そうって言う発想が無かったわ」
「……っ。貴方って人は……」
口元を押さえたナツメに、衝いて出た言葉が失言だったことに気付くも、もう遅い。彩子は慌てて逃げに転じた。
「ご、ごめん。本当、今後気を付けるから。じゃあ、私は帰――」
「帰しませんよ」
「ひゃっ」
ナツメの横を擦り抜けようとしたところ、ナツメの腕に腰を抱き寄せられ、たたらを踏む。
そうしている内にナツメの部屋の扉が開かれ、彩子はそのままナツメに室内へと連れ込まれた。
「ナツメ!?」
扉を閉めると同時に鍵を掛けたナツメに、夜中ということも忘れて思い切り名を呼んでしまう。
「そう焦らなくとも手は出しませんよ、安心して下さい」
「いやいや言ってることと行動が一致してないというか」
彩子の手を捕まえたまま器用にもう片方の手だけで脱ぎ始めたナツメに、彩子は早口で突っ込みを入れた。
それに対し意に介さず、ナツメが彩子の手を取りベッドの側まで移動する。
「睡眠という意味では、これから貴女と一緒に寝るからですよ。それとも脱いでる俺を見て、その気にでもなってくれましたか?」
「いやいやなってない、なってないから」
「なら大人しく隣で眠りますよ。その気でない女性は人体構造的に感じにくいんです。それなのに俺が下手だと誤解されるのは嫌ですからね」
「そういう理由!?」
「明確な理由があった方が、貴女も安心出来るでしょう?」
「わっ」
不意に床から足が浮き、彩子は反射的にナツメにしがみついた。彩子をそうした――横抱きで持ち上げた彼に、ベッドの上へ降ろされる。
その後中途半端に脱いでいたナツメは襟刳りの大きく開いた長袖一枚になり、彩子に覆い被さるようにしてベッドの上に上がってきた。
(う、わ……)
妖しい構図に、どうしても顔が熱くなる。
けれどナツメは先の言葉通り、彩子の横から毛布を掴むと、それを引きながら素直に彩子と並んで寝転んだ。
「どうせ部屋に戻ったところで眠れないのでしょう? それなら貴女が好きだという俺の顔でも眺めているといいですよ」
言うや否や、ナツメが瞼を閉じる。半身ほど空けた位置で「はい、どうぞ」と彼が言ったものだから、彩子は思わず吹き出した。
笑われたのが聞こえただろうに、それでもナツメは律儀に鑑賞され役に徹してくれる。
そして彩子の笑いが収まった頃、ナツメの口から「貴女が――」と真剣味のある声が零れた。
「貴女が悪夢に苛まれた時、俺を思い出してくれて、嬉しかったです。――おやすみなさい、アヤコさん」
「……っ」
思いがけない言葉が来て、彩子はナツメをまじまじと見た。
既に彼は規則正しい寝息を立てていて、かなり無遠慮に見るも起きる気配は無い。夜遅くまで仕事に出ていたのだから、疲れているのも当然だろう。
眠るナツメは先の妖しい雰囲気とは一転して、どこかあどけなくも見える。
(そう言えば、ナツメの耳を見るのは新鮮かも)
長い髪の隙間から覗く耳を見て、ふとそう思う。
滑り落ちそうな髪の一房を除けて、もっと耳を見てみたい。そんな衝動に駆られて手を伸ばし――慌てて引っ込めた。
(いやいや駄目でしょ、それは)
耳をじっと見ているだけでもアレなのに、それ以上セクハラしてどうする。眺めていろというのはあくまでナツメの軽口であって、さすがに妙なことをされるとは思っていないだろう。
(その気はなくても、触りたい気はあったんだなぁ……)
突き付けられた事実に、彩子は苦笑した。
(あー、何かすぐに眠れそうかも)
ナツメの傍は、ほっとする。
手放さないといけない温もりなのに。それも残された時間は、もう僅かしかない。
(今だけだから……)
言い訳をして、手を伸ばす。ナツメの小指の端、身動ぎすれば離れてしまいそうな申し訳程度に、自分の小指を重ねる。
「おやすみ、ナツメ」
言うが早いか睡魔が訪れる。彩子はそれに誘われるまま、穏やかな気持ちで眠りについた。




