17.恋バナ
「はい、美生。深呼吸深呼吸」
彩子は美生の部屋で、鏡台の前に座る美生の髪をブラシで梳いていた。
一夜明けて、今日は美生が王城を訪問する日。
朝の支度をしていた美生がブラシを取り落とし、それが勢いよく壁にぶつかった音で、隣室にいた彩子が目を覚ましたのが数分前。
どうしたのかと美生の部屋を訪ねれば、扉を開けてくれた彼女の表情は硬いし、そこでまたブラシを床に落とすしで、今に至る。
「落ち着こうと思うと、落ち着かないといけない状態になっている自分に、余計に落ち着かないんです……」
「それはまた、難儀なことになってるわね……。じゃあ、何か気が紛れる話でもしようか」
「気が紛れる話……彩子さん」
「うん?」
「彩子さんて、ナツメさんとお付き合いしてるんですよね?」
「え?」
美生が始めた「話」が何なのか解らず、彩子は素で聞き返してしまった。
(あ、センシルカの時の!)
けれど、すぐに美生の質問――というより確認の言葉の意味に気付く。
(あ、そっか。誤解させたままだっけ)
美生とカサハを尾行するための口実だったそれは、役目を終えた今となっては、彩子の中ではとっくに過去の出来事と化していた。だが、ネタバレされていない美生から見れば、その認識のままになっているのは当然というもので。
(でも今ここでその話が出る辺り、多分美生は恋バナがしたいのよね)
年齢関係無く、女性は恋バナが好きな人が多い。美生くらいの歳なら、尚更にそういう傾向があるだろう。
「――うん、そうね」
少し逡巡した後、彩子は鏡越しにこちらを見ていた美生に、頷いてみせた。
ここでナツメとは恋人の振りをしていたと言ったら、白けてしまうだろう。彩子は美生に話を合わせることにした。
「彩子さんは、どんな時にナツメさんが好きって気持ちに気付いたんですか?」
(わぁ、本格的に恋バナ!)
やっぱり美生は、そういう話がしたかったようだ。
予感が当たり、話を合わせて良かったと思った反面、彼女に何と答えたらいいのかという問題が浮上する。
恋が始まる理由になりそうなナツメの長所は、たくさん知っている。
(でも、ナツメのシナリオを知る機会の無い美生に、踏み込んだ話をするわけにもいかないわよね)
他の人ならともかく、美生は『彩生世界』の主人公。『彩生世界』は、並行してキャラを攻略することは出来ない仕様になっている。迂闊に話すのはまずいだろう。
攻略対象キャラの長所や短所は、どうしても個別シナリオで語られるものが多い。
特にナツメは、エンディング間近で恋を自覚するキャラなこともあって、本編中は割と素っ気ない。なので、それなりに糖度の高い遣り取りを期待するなら、エピローグまで行く必要がある。何気に一番恋バナのネタに向かないキャラかもしれない。
「あー……、最初にナツメも言ってたと思うけど、私、彼の顔がすごく好みなのよ。そう、とても」
考えた末、既にナツメの口から美生たちに話されていた理由を、彩子は口にした。
(ごめん、ナツメ。私が説明出来ないばっかりに、顔だけ男みたいになってしまって)
心の中でナツメに謝りつつ、手にしていたブラシを鏡台へと置く。
それから彩子は、美生の肩の辺りを軽く揉みほぐした。
「ありがとうございます、彩子さん。何だか安心しました。恋って、些細なことでも始まるんだなって」
「安心?」
再び鏡越しに目が合った美生に、聞き返す。
「私、カサハさんに恋をしてるんだと思います。でもいつからだろうって考えても、わからなくて。だから彩子さんが、何か特別なきっかけがあって恋が始まったわけじゃないとわかって、安心しました」
「あー、なるほどね」
適当な答になったことが、却って功を奏したらしい。
「彩子さんとナツメさんは、こう、すごく解り合っている感じがして、とても羨ましいです」
「うーん、私たちの場合は解り合っているというか、私は最初からナツメがどんな人物かある程度物語で知っているし、ナツメはナツメで勘のいい人だからだと思う」
勿論、ナツメのことが好きかと問われれば、好きには違いないと思うが。
(でもそういう意味でナツメを好きになっても、私は聖女の美生と違って元の世界に帰るのが決定事項なわけだしね)
頬を染める美生を微笑ましく眺めながら、彩子は心の中でそう付け加えた。
「私は何だか、空回りしてばかりです。以前、神殿の邸で彩子さんに私が作ったお菓子をあげたと思うんですけど」
「あー、あれね。うん、前も言ったけど美味しかったわよ」
「ありがとうございます。それで実はあれ、カサハさんにもあげていたんです」
(うん、まあ元々カサハにあげるイベントだったから、私の方がついでだったわけだし)
ゲームのイベントを思い起こしながら、「うん、それで?」と美生に話の先を促す。
「だけどその日もその次の日も感想を貰えなくて。三日目に思い切って聞いてみたんですよ。そしたら「美味しかった……と思う」って言われて。「と思う」ってのは、きっと口に合わなかったから気を利かせて言わなかったんですよね。それなのに私、無理矢理美味しいって言わせてしまったみたいです」
(いやあれ、確か咀嚼し過ぎて味がわからなくなったオチだったはず。貰ったのが嬉しくて食べる前に十五分眺めていたんじゃなかったっけ)
自室に戻ったカサハが、手にした小袋を眺めながら「……」の台詞が、色んな表情の立ち絵とともに五回ほど繰り返されていた気がする。
「買い出しの時に小物を売っている店を通りかかったので、さりげなく「私にはどちらが似合うと思いますか?」って聞いてみたんですけど、「どちらでも」と一言あっただけで。明らかにカサハさんが興味なさそうな話題を振った私も、失敗だったんですけど……」
(いやあれって確か、カサハ的には「どちらもよく似合うと思う」って意味で言ってたはずなのよね)
しかもまさに今日、美生と王城へ行ったときに、周りの女性の服装を見ながら「ああいったのもミウに似合いそうだ」とか、無表情の下で考えていた気がする。
「あのムッツリは……」
「え?」
「あ、ううん。何でも無い何でも無い」
危ない危ない。つい口に出してしまっていたらしい。
「うう……彩子さんのおかげでちょっとは楽になったんですけど、やっぱりまだ緊張してます。転んだり、挨拶で噛んだりしたらどうしよう……」
「大丈夫、大丈夫。何故なら問題なく終わることを私は知っているから」
「あっ」
立ち上がって目を丸くして彩子を見てきた美生の肩を、彩子はポンポンと叩いた。
一緒に部屋の外へと出て、玄関ホールが見下ろせる階段まで連れ立って歩く。
階下に、先程まで話題に上っていたカサハの姿が見えた。
「ほら、貴女の騎士がお迎えに来てるわよ」
「! も、もうっ、彩子さんっ」
赤くなった美生が小声で可愛い抗議の声を上げ、階段を駆け下りて行く。
「行ってらっしゃい」
親密さが感じられる距離で言葉を交わす二人を、彩子は手を振って送り出した。




