16.名前
(やっと着いた……今度こそ)
彩子は目の前に建つ豪邸を見上げ、大きく息をついた。
「今度こそ」と付くのは、ルシルサの街に着いた時にも「やっと着いた」と思ってしまったからだ。街に着いたからといって、すぐそこで休めるわけではない当たり前をうっかり失念し、がっくりきていたのはつい先程の話。
「えっと……宿屋じゃないですよね? さすがに」
呆然と邸を見上げていた美生が、滞在先に当てがあると案内を買って出たナツメに尋ねる。
「俺の養父の別邸ですが、本人は亡くなっていません。邸の維持に最低限の使用人がいるだけなので、活動拠点とするなら宿よりこちらの方が便利かと思います」
ナツメがやって来た初老の使用人らしい男性に声を掛け、彼に門を開けさせる。
「暫く滞在することになると思います。それから、食事もこちらで取ります」
「かしこまりました」
使用人の男性が一礼して去って行き、ナツメが皆に「どうぞ」と言って歩き出す。
ナツメの後を真っ先にルーセンが追い、美生、彩子、カサハと続いた。
(ゲームでは外観は文章説明だけだったけど、なるほど、これは確かに豪邸だわ)
何も植えられていないもののかなりの面積を占める前庭の花壇、門から玄関まで延びる石畳は種類の違った石を使うことで模様になっている洒落たデザイン。ナツメの養父は神官だが、これは神官の家というより丸きり貴族様のお邸だ。まあ実際、貴族の邸だったものを買い取ったという設定だったはずだから、間違いではないのだけど。
(二階のバルコニーも、某シェイクスピアの悲劇に出て来そうな奴ね)
ナツメのシナリオでしか明らかにされないが、ナツメの養父は表向き神殿の邸で質素な生活をしながら、王都では贅沢三昧な日々を送っていた曲者で。それを外部に知られないようこの邸をナツメ名義で購入し、ナツメのための邸と位置付けていたのだから質が悪い。
その養父が例のセネリア神殿襲撃事件の際に亡くなり、名実ともにナツメの邸になってしまったのが何とも皮肉な話である。
「さっき街の入り口で早速ミウは聖女だってバレて、明日ミウは王城へ行く話になったから。今日はこの後ゆっくりするといいよ」
「えっ!? 初耳です!」
まるで今日の天気でも話すように言ったルーセンに、美生が彼の方へ向き直る。
「いきなり王城へ連行は、嫌かと思って。先手を打って、衛兵に「聖女様が明日王城を訪ねる」旨の伝言を頼んだんだよ」
「あ、引き延ばして明日だったんですね……ありがとうございます」
「ここからなら今いる通りを真っ直ぐ西に行けば王城だから、明日の朝もそこまで慌てなくていいと思うよ」
「あの、ルーセンさんも来てくれるんですか?」
「うっ……ごめん。僕が一緒に王城へ行くのは、ちょっとまずい。あっ、カサハに行ってもらおう。いいよね?」
ルーセンは反転し、後ろ歩きしながらやや離れた位置にいたカサハに手を振った。
「わかった――あ、いえ、承知しました」
「いやいやいや、「わかった」でいいから。言い直さなくていいから。今まで通りでお願い」
「……わかった」
アプローチで交わされていた三人の話がまとまったところで、丁度邸の玄関ホールへと到着する。
(そうだった……)
そこで彩子はゲーム画面でも見た光景を目にし、思い出した。
ロの字型をしているこの二階建ての邸。目の前に立ちはだかるは、貴族の邸にありがちな大きな大きな階段。
(確か客室は二階だ……)
今度こそ休めると思いきや、何という伏兵。
「客室は二階の東側になります。アヤコさん、部屋はこちらの一存で割り振って問題ありませんか?」
「え、あ、うん。大丈夫、ここは細かい設定なかったから……」
彩子の返事を受けて、ナツメが各人に部屋の場所を伝える。
ナツメは神殿の邸の部屋割りで言ったことを覚えていて、センシルカの宿の時もちゃんと聞いてくれていた。
「あ、ナツメ。僕は先に書斎を借りたい。この辺の地図とかあるよね?」
「ありますよ。書斎は一階東側の手前から三つ目の部屋です」
「俺は邸の構造を確認したいのだが、勝手に出歩いて構わないか?」
「問題ありません。荷物はこの辺りに置いておいて大丈夫ですよ、運んで貰いますので。それから一階西側に行けば誰かしらいるので、何かあれば彼らに聞いて下さい」
「わかった」
ルーセンが書斎へ向かい、カサハが今入ってきた扉から前庭へ出て行く。
(皆、きびきびしてるなあ)
羨望の眼差しで二人を見送る。
早速次の行動に移っている彼らの後では、「もう疲れたから一階の応接室にでも転がらせて」とは余計言い難い。頑張って階段を上ろう。
「どうやらかなり疲労困憊な感じですね。俺がアヤコさんを部屋まで持って行きましょうか?」
「持って行くって……」
「彩子さん大丈夫ですか? 私、肩貸します」
隣の部屋になった美生が、心配そうな顔で申し出てくれる。が、その貸してくれるという華奢な肩に凭れるという選択肢はあるのか、いや無いだろうと瞬時に彩子の中で結論が出た。
「ナツメ」
「はい」
「持ってって」
「承りました」
ナツメが笑って背を向ける。丁度良い角度に屈んだ彼の背中に、彩子は遠慮無くおぶさった。
「美生もありがとう」
「いえ、それじゃあ私は先に部屋で休ませてもらいますね」
「また後でね」
美生が軽快に階段を上がって行く。
年齢の違いはあるだろうけど、ここまで差があるのはヒロイン補正という奴なのでは。山道も平気そうだったし、これもまた聖女じゃないほうの弊害のように思えてきた。
「一人だけフラフラとか、情けないなあ。ナツメ、悪いけどよろしく……」
「では行きますよ」
「わっ」
予想外に軽々と持ち上げられ、驚いて思わずナツメにしがみつく。
「すごいわね。私は昔から背が高かったから、おんぶなんてしてもらったの二十年は前の話だわ」
「そうですか。二十年後でもしてあげますよ」
「ふふっ、まるで殺し文句ね」
階段も楽々上っていくナツメに何だか楽しくなって、彩子は上機嫌に返した。
抜群の乗り心地は、一刻も早く休みたいはずなのに部屋に着くのが惜しくなるほどだ。
「楽しそうですね」
「正解。ナツメは重いだろうけどね」
「いいえ? 貴女がご希望なら、背中と言わず膝でも腹でも好きな場所に乗せてあげますよ」
「あははっ、そんな変な趣味は無いわよ」
程なくして二階の東側、一番手前の部屋の前に到着する。先程ナツメが言っていた、彩子に割り当てられた部屋だ。
「ありがとう、ナツメ。本当、いつもいつも貴方にはお世話になってばかりだわ」
ナツメの背中から降り、彩子はナツメの正面に立って、彼に礼を言った。
「構いませんよ。でも、そうですね。折角だから礼代わりに、俺の名前を呼んでもらっていいですか?」
「? ナツメ?」
「礼代わり」の意味は解らなかったが、呼んで欲しいと言った彼の名を彩子は呼んだ。
その間、ナツメが妙にこちらの唇を見つめている気がして、どぎまぎする。
「以前から思っていたんです。どういう原理なのか、貴女は貴女の母国語を話しているようなのに、俺たちと話が通じている。つまり、俺たちが聞いているのはお互いの意訳なのではないかと」
「え? そうなんだ」
普通に考えればそうなんだろうが、そもそも考えようと思ったことも無かった。
「貴女とミウさんは、話している時の口の形が話している内容と異なるんです。もう一度俺の名前を呼んで貰っていいですか?」
「ナツメ」
「ああ、やっぱり。それはルシスと同じ口の動きです。叶うならすべての会話においてありのままで聞いてみたいところですが、それでも貴女そのものの言葉で俺の名が聞けるのは、素直に嬉しいですね」
「そ、そう」
ナツメが唇を見つめていた理由はわかったというのに、落ち着くどころか鼓動は余計に速くなる。
「!?」
ナツメが彩子の手を取り、その指先に口付けたものだから、触れられたそこに否応なく目が釘付けになる。
「それでは、よく休んで下さいね。アヤコ、さん」
指から僅かに離れた場所で、ナツメの唇が動く。
ナツメの顔が離れ、手が離れ。そして彼の姿が廊下の曲がり角に消えても、彩子は先程まで彼の唇があった位置をぼうっと見ていた。
(ああ、うん。名前は同じ口の動きだったと思う。うん)
扉に背を凭れて、やはりぼうっとした頭で思う。
次いでバッと両手で熱くなった顔を覆う。
「絶対、わかっててやってるでしょ。あの男……」
そして恨みがましい一言を吐いた後、彩子は送ってもらった部屋に入れないまま、扉の前で不本意な小憩を取った。




