10.センシルカの街
十七年前。センシルカの街。
街の大半を見下ろせる丘の上に、少年はいた。
広場に並ぶ露店、大通りに連なる専門店。太陽の光が反射した石畳の路を、多くの人々が行き交う。そこにあるのはいつもと変わらない見慣れた街の風景だった。――ほんの数秒前までは。
騎士見習いの少年は食い入るように、雇い主である領主の邸を見つめていた。いや、領主の邸があった場所を見つめていた。
街の巡回中、丘に佇む顔色の悪い若い女性を見かけ声を掛けようとした心優しい少年は、今、自分がそれ以上に青ざめた顔をしていた。
どのくらいそうしていたのか、彼が我に返ったのは街が完全に混乱の渦に呑まれてからだった。
見知らぬ人々の叫び声が、少年を現実へと呼び戻した。
「ライフォード!」
弾かれたように友人の名を叫び、少年は丘を駆け下りた。
防護柵を乗り越え、急傾斜を滑るように走る。
脇目も振らず真っ直ぐに目的地へと向かう。
「はぁっ……はぁっ……」
程なくして辿り着き、少年は大きく呼吸を繰り返しながら周辺を隈無く見回した。
突如現れた巨大な闇。領主の邸の門と僅かなアプローチだけを残し、地表から空の彼方までを覆い尽くす闇。
目の前に来てまで、少年はここに在るべきものを見つけることが叶わなかった。
「ライフォード!」
門の前で再び叫ぶ。
「父さん!」
友人の父である領主を護衛していた少年の父も、この闇の向こうにいたはずだった。
「!?」
ふと、地表近くの闇が揺らいだ気がして、少年は目を凝らして見た。
誰かが逃れてきたのだろうか。そんな少年の淡い期待は、彼が吸った息を吐く間すら与えずに打ち砕かれた。
「何だ、あれ……」
闇の中からアプローチに姿を現した黒い物体。
四足歩行の動物のような、しかしその全体はもやもやとした霧のようで、実体が有るのか無いのか判別が付かない。
「……っ」
だが、その目に捉えられたと、少年は直感した。
初めて目にした得体の知れない『それ』に、本能的に佩いていた剣を構える。『敵』に剣を構えることもまた、初めてのことだった。
黒い物体が少年に狙いを定め、走り出す。
ガシャンッ
少年に飛びかかった物体はその間を隔てる門に阻まれ、反動で地面に転がった。
「物理が効くならっ」
門に飾られていた旗を引き抜き、衝撃で開いた門の隙間からそれを敵に投げつける。
「グルルッ」
少年の背丈ほどある旗の軸は敵に突き刺さり、狙った通りに敵は地面へと縫い付けられた。
すかさず敵に走り寄り、混乱した頭のままで身体に任せて剣を振るう。
「こ、の……っ!」
藻掻くそれに、少年は何度も何度も剣を突き立てた。
「このっ! このっ!」
「グォオオオオ……」
何度目かの手応えの後、咆哮を上げた霧のような敵は、やはり霧のように散って消えた。
「はっ……はっ……」
浅い息をしながら少年は、暫くの間、呆然とした面持ちで地面に突き刺さった剣を見つめていた。
この後少年は、三日間飲まず食わずでライフォードと父親を探し回った後、丘で見かけたセネリアを殺すつもりで追い掛け、神殿で神官たちが惨殺された現場を目撃。大鏡の中へ消えたセネリアを追えなくなった彼は、その後ナツメに出会うまでセンシルカの街で魔獣退治に明け暮れることになる。
彩子は、『少年』を見た。
「ここだ」
センシルカの街の丘の上、少し先を歩いていたカサハが短く言って皆を振り返る。
「思った通り、影響範囲が見渡せる場所を選んでるね」
ルーセンが、眼下から空まで延びる柱のような境界線を目で辿る。
「中心部は領主の邸だったっけ」
「……ああ。催し物の最中で、賓客が大勢来ていた」
「ってことは、魔法衣の人間がうじゃうじゃ!? それ、境界線が無くなったら逆にその人たちが危機的状況じゃない?」
「ここへ来る前に騎士団長の叔父に、俺たちの今回の目的を伝えてきた。その際に、魔法衣を着ている者がいたら直ぐさま脱いでもらうよう頼んである」
「さすがだね、カサハ。って、あー、境界線がゆらゆらしてる。んでもって、アヤコがメモを構えてる。だよね? そう来るよね? 知ってた!」
ルーセンが素早く短剣を構える。
「カサハと美生はその場で待機、ルーセンが西へ一メートル移動して魔獣へ攻撃。ナツメは三メートル北へ」
メモを読み上げる彩子の北北西四メートル地点、境界線の柱から降り立った魔獣が「グルル……」と唸り声を上げた。
「ルーセンの南へ移動した魔獣を美生で攻撃、撃破。ここで新手が二体、カサハの西と南西に出現」
「行くよっ」
最初に出現した一体へと、ルーセンが攻撃を仕掛ける。
「カサハが西の魔獣を撃破、それから東へ一メートルその後南へ二メートル移動。美生がカサハの西に移動してきた魔獣を攻撃」
既に始まった戦闘に、彩子の言葉は自然と早口になって――
「ルーセンが一メートル南へ、次にナツメがカサハに回復を――」
けれどそれは、途切れた。
(待って……)
文章をなぞっていた指先も止まる。
震える指先が置かれたメモをスクリーンに、幻のゲーム画面が彩子の目に映った。
2Dで描かれた魔獣が、やはり2Dのカサハを攻撃。カサハのライフポイントが大きく減少する。
(ライフって……私、私は……)
ドクンと、心臓が嫌な音を立てる。
これまでに補助魔法しか使わなかったのは、単純に回復魔法の方がナツメへの敵視が高まるからだ。治療士のナツメは防御力が低い。だから無くて切り抜けられるステージでは避けていた。
だから、気付かなかった。
(私の指示は、皆に――)
「ようやく回復魔法の出番ですか。俺は補助より回復の方が得意なんです。カサハさんは安心して腕なり脚なりもがれてくるといいですよ」
(――ナツメ?)
思考に割り込むように発せられたナツメの声に、彩子は反射的に彼を見た。
一瞬目が合った気がしたナツメが、その視線をルーセンへと向ける。
「ルーセンさんも瀕死になって構いませんよ」
「僕は構うから呪わないで!」
「それで、カサハさんに回復魔法を掛けた後はどうしますか? アヤコさん」
振り返ったナツメと今度こそ目が合う。
視界の端、二体目の魔獣がカサハの剣に倒されたのが目に入った。
「もう一度カサハが魔獣の攻撃を受け、それからその場で西の魔獣を攻撃。撃破、で終了……」
「だそうですよ、カサハさん。二度ほど痛い目を見て下さい」
「了解した。――くっ」
魔獣がカサハに襲い掛かり、爪を、牙を立てる。
ドット絵では描かれなかった、丘に落ちる血痕。彼の左腕の骨が砕ける音。
減るのはライフポイントではない、彼の血が、肉が、失われていく。
「あ……」
自分に掛かれば、ゲーム画面の現実への置換など、容易だと思っていた。
描かれなかったものを、自分は知らなかった。
「カサ、ハ……」
呼ぶでもなく、彩子はただ、傷付くその人の名を呟いた。




