野に望む
半ば個室となってしまっているライオネル公爵令息付使用人部屋でアルハは今日もひとり目覚めた。続き向こうの主部屋の主も昨夜立ち、またしばらくの一人暮らしが始まる。
オルガイアとの雑談時間まで一通りのルームメンテナンスを終えいくばくかの手持無沙汰を予期する手前、とてつもない何かが迫りくる気配に慄いた。無音ながらドドドとした気配は扉の前で綺麗に止まる。
コツコツコツコツ、神経質さを感じる素早く均一な四回のノックと同時の開扉音。
「失礼いたします。」
え、え、え? と困惑している間に4名の侍女が雪崩れ込み周囲確認を行ったかと思えばアルハの両脇をとり、さながら捕獲された宇宙人のような形態で部屋を連れ出される。ひとつふたつ確認する伺いなどされたところで混乱の最中では適当に頷くしかない。
困惑に溺れながらようやっと反ライオットなり『書庫』目当てなりの有事であろうかと危機感が仕事をし始めたが、その出鼻さえ挫くようにルルスが一行に立ちはだかった。
「あ、アルザ令嬢…もうアルハ様でいっすか。今日この瞬間から王宮預かりっす!ごあんなーい!」
詳しくは後で! と一転し一行の先導として小走りを始め、侍女も劣らぬ競歩でルルスに追従する。
ライオットにより確かに『殿下と共に』と命じられた。それでもこの騒動は大袈裟すぎやしないか。そして慌しすぎやしないか。そう口に出す余裕はなかった。
王宮預かりだと謳った割に向かっているのは見慣れぬ場所で。ライオットの巡礼中によくよく見慣れた制服と、周囲の視線が一段低いことから学園であることを察した。
「遅い!!」
「ジャクターパイセーン!さーせーん!!」
「単語を組み替えるな!!発音ははっきりと!!!」
大柄ゴールデンレトリバーなルルスが、少し目線の低いドーベルマン先輩(比喩)に腹の底から叱られている。二十代半ばくらいに見えるルルスより年上の先輩のようだが、それでも三十路は超えていなさそうな実直堅物っぽい男性だ。
体育会系コントを繰り広げる二人の脇、いつの間にやら三人に減っている侍女から解放され息を整えるアルハをオルガイアやその友人たちが迎えてくれた。
「アルハー、神殿のステンドグラスきれいだからいっしょに見に行こー!」
「ご機嫌麗しゅう! ライオネル公爵令息の赴任を受け、差し当たって殿下とアルザ辺境伯令嬢はセットでお得に保護しておきましょうねという流れは至極当然の流れ!」
「別に急ぐ必要はなかったのですが…」
「殿下が本日の課外学習の神殿見学にアルハ様の帯同をおねだりされまして、急遽の招致と相成りました!」
オルガイア、デザーディ、エンシュロン、その他の言うなんのこっちゃな理由にアルハの困惑は晴れない。オルガ殿下に、ご配慮は嬉しいですが我儘はメッですよ、と苦言申し上げるわけにもいかず。
引きつった笑いを浮かべ身の置き場に惑って周囲を見渡し、侍女衆の退散を知る。全く親しくもない侍女衆に置いて行かれたような寂しさを覚えたところで、ガクンと左足が崩れ左肘をとられた。
「王都神殿はほぼ隣接の距離だけどね、殿下を連れ出す位置ではないんだよ。教会管轄だし表立って警備不安を漏らせる場所でもない。なのに、だ。異例に課外訪問が決まるわ国教会の不手際で孤児招待日と予定を重ねてしまっただとか。
殿下は、能天気に、心から、ああ言っているけれど。周囲の本音は君の護衛の間借りだよ。」
膝かっくん犯ユユギによる背後からの耳打ちで、ようやくアルハも事態を把握できた。
ちょいちょい指摘されてきたライオットがアルハに配しているらしいカゲ。神殿に物々しく護衛を大勢連れて訪うわけにいかず、孤児の予定をずらせなり我らが訪問を取りやめるなどと拗らせて国教会側に貴族糾弾のエサを撒くような真似もできないなかで、見えない護衛を増やすのが最良なのだろう。護衛人員の実態はまったくわからないが、オルガイアの有益とあらばアルハに否やはない。
腕が解放されたので姿勢を正し目線を合わせようと屈むと、ものすごく嫌な顔をされた。
「うちの担任は貴族籍ではあるけど教会所属でね。ま、全部仕込みだろうってこと。」
「えええ、それ大丈夫なんですか?」
「愚鈍。大丈夫じゃないから呼ばれてるんじゃないの。」
「あ、はい。ごめんなさい。」
ぷりぷりしながら集団の中に帰るユユギを見送り、オルガイアに呼ばれ駆け寄ったところでルルスと合流する。ユユギの方へ視線を投げたルルスが「聞きました?」と確認を取ってきたので護衛合流のことだろうとアルハは頷いた。そこへ先ほどのドーベルマン先輩が歩み寄る。
「貴女がかのアルハ・アルザ辺境伯令嬢か。私はオルガイア殿下の護衛の任を陛下よりを賜りましたジャクター・コートレバー、お見知りおきを。」
かのとは。どういった意味でしょうかと茫洋としてしまう思考をなんとか繋ぎ留めて礼を返すアルハに、ルルスがコートレバーはユユギ・マッカーレ御令息と同じ侯爵家ですよ、と耳打ちする。オルガイアとの雑談を回顧すれば、国際派マッカーレと対立する保守派筆頭の尊王主義すなわち陛下の最側近な現当主侯爵は宰相閣下であったような。ますます背筋が伸びる。
「こちらこそ。アルザ辺境伯より厚い庇護をいただいておりますアルハと申します。よろしくお願いいたします。コートレバー様。」
「どうぞジャクターと。」
端的で侮蔑も阿りもない。任務を念頭に置いたジャクターの態度にアルハは好感を抱いた。コンラードに似た芯を持った人柄はおそらくライオット様も気に入るところだろう、となんとなしに思う。
挨拶を終えて配置に戻るジャクターと入れ替わりに、見知らぬ男性がぬうっと顔を挟んできた。薄亜麻色の長髪を緩く束ねたナイスミドルはオルガイアに伺いを立て了承を得ると、アルハに向き直り紳士の礼をとる。
「私は引率教師、バイソン伯爵家のトーサと申します。」
人好きする笑顔に愛想笑いで礼を返すと朗らかに「新緑に一輪の花、よきですな。」と一言告げて引率業務を再開する。その言葉で、先ほどからアルハにまとわりついていた居心地の悪さの正体がみえた。
学舎を抜けて王宮の端の学徒用関所を通り、区壁に沿ってすこし歩くと豪奢な神殿の全貌が見えてくる。
全市民に開放されている礼拝堂の脇の扉から談話室へ進むと、煌びやかな内装から浮いた孤児たちがおり、その前で何かしら喋っていたふくよかな壮年男性がこちらに気づく。向けられた底意地の悪そうな笑みはユユギのいう仕込みを納得させた。
司教を名乗ったその男は試すように孤児たちと隣接した席に一行を勧めたが、一行の最も尊い人物が友人たちと共に何の気兼ねもなく席についてしまい他の令息たちを招く。「みんないっしょがたのしいよ!」と。たじろぎこそすれ令息たちは十中八九オルガイアの言動を察していたことだろう。困惑する孤児たちを一瞥して各々席に着いた。貴貧の二極が眼前にすんなり収まって司教の笑みが引きつる。
「んんっ…では先ほどの続きから。信仰とは神の与えたもうた知性の証です。算術や読み書き、生活技術の云々より前の最根幹の教養。人が人として集団生活を営むうえでの善悪を学び、全の内の一たりうるべく規範恭順や倫理観を備えること。
唯一神アイフラの定めし慈愛に満ちた理想郷を実現せんがために私たちは存在しているのです。」
御令息たちは整然と佇まい、孤児たちはなかば首を傾げながら司教を眺めている。司教は聖典片手に朗々と読み上げる。まさか令息組に「つづきから聞いておけ」という対応をとるとは、とアルハは不躾に周囲を見渡してしまう。ユユギと目が合い、その胡乱さに慌てて姿勢を正す。
「不殺・不淫・不盗・不奪・不偽・不欲を貫き、孝行・祈念・喜捨によって世に奉仕する。唯一神アイフラの望みに沿い、恙ない安寧を築くことこそが我々に課せられた使命なのです」
履修済みなのだろう微動だにしない令息組と、なんのこっちゃ理解不能だと集中力の切れている孤児組を見てアルハもげんなりとした。挨拶代わりにしては度の過ぎている説法を延々続けかねない司教の様子に気が遠くなる。
アルハの様子に気が付いたのか、オルガイアが動いた。きょろっと引率教師のトーサ・バイソンに目配せし、トーサが御託の節を見定めてやんわりと中断させたのだ。
「では司教、あとは私がまとめて監督いたしますのでお任せください。この神聖なる場で、幸運にも、立場の違う子供たちが縁づいたのです。唯一神アイフラの慈愛の思し召しを私達は活かさねば。でしょう?」
にっこりとするトーサに司教はややたじろぐもすぐに表情を取り繕い、尊大に譲ってみせた。
「さて、どこへいきましょうか殿下。」
「書館にしよっか! いこ、君たちも!」
一番ぽややとしている子が主導権を握っていることに摩訶不思議そうな顔をしながら孤児たちが令息組の後に続く。イフスエルの文明文化の水準が未だによくわからないアルハは、ようやく本が読めると期待した孤児たちの目の輝きを微笑ましく眺めた。
移動中、オルガイアとアルハの二人が孤児と同じように神殿観察を楽しんでいる様子に、貴族組が生温い視線を向けていたことには気付かずに。
小学校体育館的な広さにずらりと書架の立ち並ぶ吹き抜け四階式。図書室と形容するには壮観な書館に到着すると、トーサが孤児組に声をかけ机や椅子を円卓状に配しはじめたのでアルハも手伝う。アルハが動くとオルガイアも動き、側近候補なご友人組も動がざるをえず、なれば皆自ずと追従する。あっという間に整えられた席にトーサが効率よく孤児組と令息組を配した。
そしてトーサはするりと円卓の中に躍り出る。…アルハを伴って。
「さてみなさん、神殿へようこそ。お日柄も良く場所が場所なだけに今日一日教典を眺め神の教えを深めたいかもしれません。イフスエル国教会が誇る蔵書を堪能したいかもしれません。が、せっかく普段相見えることのない生活圏の人間同士が会していますので、交流の時間をとらせていただきます。」
有無は言わせません、とばかりに爽やかに言い切った。
「いかに暮らしぶりに差があろうと、皆さん等しくアイフラ神の愛し子です。隔たりなどあってないようなものですよ。ね、アルハさん。」
話を振られ、トーサがこれみよがしに撫でた視線を辿る。令息組も孤児組も明らかな否を唱えた表情でアルハを見ていた。さぁ、どうします?と片眉を上げたトーサにアルハはお手上げしたい気持ちでハの字に眉を下げたが許されようはずもなく。
くるりと向けられた視線を一巡して、天を仰ぐ。どうしろと。彼らの共通項と言えば未成年であることくらいで、と目を細めたところで天井から見下ろす女神アイフラのレリーフと目が合った。逡巡して向き直り、オルガイアの期待に観念して口を開く。
「…皆様、頭を空っぽにして自分の一番大好きな人を思い浮かべながら目を閉じていただけますか? なにより誰より大事な人を。」
私のお母さんは死んじゃったもん。そう零した孤児にアルハは亡くなった人でもいいですよと答えると孤児たちの目が閉じていく。貴族組へ目配せをするとバツが悪そうにこちらも目を閉じていった。ちなみにオルガイアは一番最初に目を閉じている。
「大事な『誰か』を『わるいやつ』が苦しめています。順に肩を叩くのでなにをされているか教えてください。オルガイア殿下は『誰か』をしあわせにする方法をお願いします。最後に伺いますね。」
「はーい!」
なんとなく貴族組から言わせていく。意に添わぬ政略結婚、詐欺、陰口、嫌がらせ、晒上げ、暗殺、戦死、毒殺、裏切り、など。おそらく身近で見聞きしたことや直面したもの、自分がされて嫌だったことや恐れていることが溢れ出てくる。目を瞑っている孤児の幾人かが信じられないように目を開け、アルハはそっと目と口を閉じるように促した。
半周し、孤児の番になると発する声が震えはじめる。殺人、強姦、強盗、暴力、飢え、病気、貧困、居住地の収奪、誘拐、遺棄。じっと歯を食いしばる孤児たちに今度は貴族組が痛ましそうに目を開いた。人の手によらない不幸も参入してしまったことに内心狼狽えながら、アルハは再度目を閉じさせて、説く。
「今、皆様が思い浮かべた『誰か』を苦しめた何か。それらを最小限にするために大切なのが先ほどの司教様のお言葉です。思い出せますか?」
躊躇いつつ首を傾げる孤児たちに笑って、私も思い出せませんと白状すると少しだけ場が緩んだ。そこへ、注ぐ。
「皆さまは今、身分を超えて互いの立場にある苦しみを吐き出しました。暗記できなくても、ひとくくりに理解はできたはずです。そんな目には遭いたくないし遭わせたくない、その気持ちは皆同じですね?
癒えぬ病が、怪我があり、不幸は不規則に降りかかって、誰もが必ず死を迎えます。が、述べていただいた苦痛のほとんどは『わるいやつ』の所業です。
どんな情状があれ、誰も不幸にしない苦しめないと各々が己を戒め律すること。誰も『わるいやつ』にならなければ『わるいやつ』はうまれません。これが先程の司教様のお言葉に繋がり、すなわちアイフラ神様の思し召しの一端であり、私たちの隔たりなく志すものかな、と。それで、ええと…」
歯切れ悪く縺れたところで、トーサがオルガイアを伺う。
「オルガイア殿下は『誰か』をどうやって幸せにされますか?」
いよいよの出番となり嬉々として喜楽を羅列するかと思われていたオルガイアは、普段と打って変わって柔く、網膜の裏に『誰か』を映した瞳で皆々に言紡ぐ。その双眸に、声色に、慈しみを宿して。
「みんなをしあわせにする。やさしい目で世界を見渡して、喜怒哀楽に振り回されながら大好きな人と大好きだなぁって顔をして向き合って、飢えることなく、苦痛に喘ぐことなく、心安く、その生が終わるときに満ち足りていてほしいから。
そのために、ぼくにできることをなんでもしてあげるんだ。」
あまりに抽象的で具体例に欠けたきれいごとだとわかっているのに、息が詰まる。
場が飲まれ、完全に取り込めた。そう判断したのか、トーサはさっとアルハと立ち位置を交換し柏手を一発響かせて学徒の関心を円卓の中心の己に引きあげた。
「素晴らしい! 全体の幸福指数は個の指数を引き上げる。しあわせは人を寛容にし、余裕は施しの心を育みます。喜捨は誰かを救う種となり、感謝は両者を笑顔にします。すなわち善の循環。誰も不幸にせず、誰もが幸せを希求する。理想的です!
が、これすなわちと成立しないのは皆さんもお分かりですね。では、不可能なのか、…不可能ではありません。さて、そこでしあわせの定義を擦り合わせてみようか。みんながしあわせになる、とは? さあ考えて。」
戸惑っているアルハに手際よく助手をさせながら本領を発揮する。
その場で唐突に聴取し、作成してみせた平民と貴族の生活習慣の簡易比較表をもとに重責の比重に伴う義務と権利の違いを解し説き、貴族の常道を示す。各々の抱える損益に続いて平民の生活向上手段を並べ、社会構造の現状と理想と現実を要点よく取り出しながら問題点と改善案までを提示し妥協点をこそ考察させる。論説のいずこにも神を挟まず人世の言葉を練りあげて。孤児を慮ってかトーサの教鞭スタイルなのか、ノートをとらせない生き生きとした講演だった。疎らにいた書院の一般利用者のほぼ全員がこそっと近くに座ったり耳目を傾けたりしているほどの。
取り出した懐中時計を見ていったん話を切り、皆の肩の力を抜いた。
「境遇は与えられたものです。そこから何を求め、何を得るか。今日の出会いがみなさんのしあわせに繋がれば神アイフラもお喜びになるでしょう。もちろん、私も嬉しいですよ。」
課外学習の経過課題として孤児の自立を見届けることを令息組に提案し、トーサは聞き耳を立てていた観衆へ慇懃な礼をとってみせた。
控えめに落ち着いた拍手が収まる際、孤児の一人から零れた本音が思いのほか浮いて響く。
「でもさ、私たちの言葉なんて誰もきいてくれないし世の中なんて変わらないよ。みんなをしあわせにするって言ったって、ねぇ、あなたに何ができるっていうの。」
「このお方は、オルガイア・ライオネル・イフスエル第一王子。次代の国王陛下だよ。」
孤児組がユユギのつっけんどんな言葉を理解するまでに十数拍要し、その二拍後に周囲を含めた驚愕の声があがった。その、一挙に集まったオルガイアへの意識を変換するようにトーサは語彙の網を編んで投げる。
「王が民の幸せを願い、民は王の安寧を願う。陛下はその体現として第一王子殿下を選定しておられます。国も、家門も、個も、より高みを目指すべく連綿と積み上げられた積み木です。もちろん思い思いに積んだものが複雑に絡みあっているものですから歪みも生じます。間違っていてもそれなりの重みがあることを理解して崩れないように矯正しながら、私たちも積み上げましょう。誰かのために、よりよい未来へと想いを重ねて。」
トーサの演説で人々の胸にほんのりと温かなものが灯る。そこにもう一つの声が重ねられた。
「高い志も手が届いてこそ、でしょうトーサ・バイソン殿。我々は共に光を掴む方法を学ばねばならない。平民であろうと、貴族であろうと、…王族であろうとも。」
オルガイアが暢気にジョシューだ!と声をあげるも、階段を下りてきた第三王子ジョッシュはまっすぐに円卓に歩み寄ってトーサへ軽く膝を折ってみせた。
「第三王子であるジョッシュ・カカロン・イフスエルが、貴賤なき「学び」と「理解」を広めたく貴殿に協力を乞う。国とは、民とは、我々とはなんたるやを説く先ほどの講演に心打たれました。イフスエルの万民に貴殿の解く理に触れる機会を与えたい。いかがだろうか。」
ジョッシュはアルハの知る義務教育に近い施策を敷くべく動いているのだと語った。前世のような進学目的や汎用労働者を育成するためのものではなく、自分たちを取り巻く政令や施策を理解し国体の一部としての思考ができる民衆を増やすのだと。
トーサは支配層の反発がありそうな教育方針ですねぇと興味深そうに口端を持ちあげ、ジョッシュはだからこそ王室主導でなければできないことなのだと口説く。が、トーサは惜しむように首を横に振った。
お声がけいただけたことは光栄ですけれども、私には妻も子も孫すらおりますから、と。貴族界隈の反感を買う教育方針を矢面に立って広めるには後ろ盾が必要で、ジョッシュにそれがないと。返す言葉もなく臍を噛むジョッシュの様子に目を瞬かせたオルガイアにアルハが解説を耳打ちすると、オルガイアは卓をくぐってトーサに駆け寄った。
ごみょごみょと内緒話をしながらジョッシュをも呼び寄せるので、アルハは一部の卓を着席者と協力してどかして道を作りジョッシュを通した。そして、周囲の関心を奪ったまま行われる内緒話に皆が皆否応なく注目している。と、トーサががばっと顔を上げ発奮した。
「私はずっと、ずうっと気に入らなかったんですよ! ふんぞり返った馬鹿者共が愚論を書き殴り、互いに引用し合って、さもそれが真実だといわんばかりに戯言を冊子にまとめて並べ立てていくこの書院の有様がね!
今の評議会の連中は、探求をわすれ干からびた梅の種のような脳みそをからんからんと振り回して、使い物になりもしない古びた杵柄に乗って空を飛んでいるつもりなんだ!
杵柄程度の高みから神の御名を騙り命ずるなど、傲慢かつ怠慢の極み! 拝命を読み解き、理解し、自らの身で実行し、自らの理論で説得する! それが信徒たるものの勤めでしょうよ…っと、
…はい。というわけで、私はたいへん多くの鬱憤をため込んでいたわけです。
書院の全権…ほんとうに、信じてよろしいと!?」
「いいよ!」
この国教会の神殿の書院の全権というのはつまり、王家が国教会の管轄に対し干渉するということでは。ジョッシュも、トーサすらも、持ち帰りの検討が要るのではと気を揉んだが、オルガイアはにこっとして再び是を示した。
「できるよ。」
ジョシュも箱がほしいならあげるね! シルルも喜ぶね、ふふふー。と楽しそうなオルガイアにたまらずジョッシュが膝をついた。これには令息組がどよめく。オルガイアと同年代内であるとはいえ、第一王子と同じクラスを許された階級の令息たちの前で、第三王子が服従を示したのだ。
「シルルって、第四王子のシルブルム殿下のことだよね。」
「ってことは…うわぁ、本当に継承争いが決着してるんだぁ…」
「ユユギ様たちもすでにお側にいるし、オルガイア殿下に…敵…いなくない?」
「ほんとだ…。僕らが大人になったとき、どうなるんだろう。」
令息組の騒めきをよそに、なんとなくえらい場面に居合わせていることだけは把握できている周囲はあっけにとられ、アルハは遮蔽物にならないように隅っこにしゃがんでいる。
そんな状況を打破したのは当の三人。差し出した手を重ねて確かめ合った協調の意志は、そのまま周囲に示された。ぴょんこぴょんこ跳ねだしたオルガイアがアルハを呼んだときには、令息組の一部が孤児組や居合わせた平民らと雑談しており、トーサは司祭数人に囲まれており、公的に何か催されたわけではないにしても何かしらの歯車が回り始めたことが察せられた。
課外訪問を終えて学園へ戻ってくると令息組は解散し、各々のカリキュラムをこなすために散っていく。オルガイアも例外なくルルスごとご学友方に引っ張られていったし、課外護衛任務を終えたジャクターは生真面目に護衛協力の礼をアルハに告げて持ち場に戻っていった。そして、担当科目を終えたトーサが王宮までの送ってくれるというので甘えたところ、アルハはトーサの嫁自慢子供自慢を延々聞かされることになる。微笑ましく羨ましい歓談をオルガイア付きの侍女の出迎えをもって切り上げたトーサは改めてアルハに向き直った。
「先が思いやられますよ。あの場にいた司祭、何人か消えていましたし。貴女も侮れませんし。殿下に勧善の印象を与えるためにまず悪辣を想起させたのでしょう?」
「え…消え、ええ…? いや、幸福追求は千差万別無限大ですけど、苦痛にはまま限りがあるじゃないですか…?」
まごつくアルハにトーサは肩をすかして、たしかにそうですねと笑った。
「はー、オルガイア殿下も成績上なにかあるとは思っていましたが…いやはや想像以上です。」
首を傾げるばかりのアルハに、歓喜か畏れか、トーサは辞去の礼の後に身震いしながら眼をぎらつかせる。
「だって彼、本当にみんなをしあわせにする気ですよ。おそらくたったひとり定めた誰かのために。」




