あくる日
鳥の囀りが聞こえる。もぞりと動かした腕は冷気にさらされるも心地よく、ゆっくりと瞼を上げる。
目に飛び込んできたのは白い天井でした。否、裾を纏められたままのベッドの天蓋でした。
最後の服装は似合いもしない桃色のフリフリドレスに合わないお古の貴金属を身に着けた絶賛残念令嬢だったが、雲の中かと錯覚させる心地よさの寝具を包むさらりとした絹のシーツは、その滑らかな感触を大部分の肌にダイレクトに伝えてきている。もぞもぞと俯せうっとりと溜息をこぼしつつ感触と弾力を堪能し、大きなマシュマロのような枕を抱きしめた。天国とはかくありなん。
ガチャリ。見知らぬこの部屋の片開の扉が開く。
アルハはゆるゆるとマットレスに両腕を突っ張り上体を起こした。扉が避けて露になったのは灰菫の髪の美少年で、とたんに、走馬燈のように昨夜の出来事が脳裏を駆け抜ける。
蜂蜜坊やみたいな人に大変な醜態を、みっともなく縋りついて大泣きして、とにかく淑女にあるまじき狼藉を働いた気がする。さらに彼は蜂蜜坊やのような言動のわりに髪は褪せた菫のような髪色をしていた。ちょっとなにがなんだかわからない。上体を起こしたまま扉の向こうを呆然と見つめ、扉の向こうもまたアルハをみつめていた。深淵を覗く者は、深淵に覗かれている。見つめあって十秒、現状にまったく意味合いのそぐわないフレーズが浮かんだ瞬間、その深淵は何も発することなく目を合わせたままそっと扉を閉じた。
なんだ?なんだったんだ?と静寂のなかアルハの脳内だけが忙しなく駆け回る。
「失礼いたします」
しばらくすると固く冷静な女性の声がして再び扉が開かれた。お仕着せを纏った侍女であろう女性の目配せを読んで布団から出ると、アルハは見覚えのない若草色のベビードレスにパンティという極上の寝具を味わうに適した格好をしていた。普段侍女に世話をされることがないので恥ずかしさはあったが、されるがまま湯を浸した布で体を拭われ動きやすさ重視の深緑色のドレスを着せられ髪を整えられる。
侍女は終始無表情で緊張感を崩さなかったが、なぜが執拗に身体の各所の肉を掴んでは離していた。痩せてはいないが太ってもいないのでそれほど贅肉は気にならないはずだが、なんなのだろうか。肉質を確認していざこれから調理でもされるのだろうか。
アルハはしょうもない不安を抱いてようやっと自らに課せられた危機を思い出した。
夜は明けている。夜会中彷徨って蜂蜜坊やを思い起こさせる少年になんやかんやで迷惑をかけてとりあえず家には帰らずに済んでいるのだろう。しかし、子は親元へ帰すのが常識である。引き渡される前に逃げなくてはならない。感謝と謝罪とを述べてこの明らかに実家ではないお屋敷からいとまさえすれば晴れて自由の身なのではないのだろうか。
「すみません。こちらがどなたの邸宅でなにがどうなっているのか私には皆目見当がつかないのですが、助けていただいたこと感謝いたします。お礼のご挨拶をさせていただきたく思うのですがお目通り叶いますでしょうか」
侍女はその無表情の奥に剣呑な光をのせると、アルハの申し出を無視して一礼し部屋を出ていってしまった。逃げようにも纏った衣服は自分の物でなし、ひとさまの屋敷をむやみに歩き回ることも憚れ、会った少年も侍女も会話が出来ず、いっそ衣服を拝借したまま窓から逃走しようかとのぞき込めば一階ではない。これはもう八方塞がりではなかろうか。
かっくりと膝を落としたとき、再び扉が開き先ほどの二人が同時に現れたのだった。侍女はベッドから離れた場所にある応接セットの机に紅茶とサンドイッチをセットして去り、少年は先ほどの邂逅とうってかわって目線を合わせないままアルハに座るよう促し自身も椅子に腰を下ろした。
「話の続きをしよう。私の名を知っているか」
わかりません、と正直に答えると、少年は変わらず目線は合わせないままその優美な表情でアルハを咎めた。
「む、昔、蜂蜜色の髪の殿方に声をかけていただいて、その方がライオンなんとか公爵令息だということは髪の赤い別の殿方に教えていただきましたの。似てらしたものでてっきりその名を答えようとしたのですが、元来物覚えの悪い不出来な頭のため正確に思い出すことができず申し訳ありません。再度問いかけくださいましたが髪色が違うものですから、やはり私は貴方様のことを存じ上げないのです」
視線を左右に忙しなく彷徨わせ俯きどもりながらなんとか弁明するアルハに少年は何か思い至ったようだった。
「そうか、あのころ私は髪色を隠していた。鬘の色であの不可解な呼称になったのか」
「あ、はい。どこぞの坊ちゃんが蜂蜜色だということで脳内で蜂蜜坊や、と。公爵位と教えられて蜂蜜公爵令息と。実際のところヅラ公爵令息だったわけですが・・・」
「おい」
少年の胡乱げな視線がアルハを刺した。一方失言を盛大にかましたアルハは『ヅラじゃない、鬘だ』という前世の創作物のフレーズを思い出してひとり緊張をほどいている。アルハの様子に少年は盛大な深ーいため息をつき、全身から力を抜いた。
「ライオット・ライオネルだ」
「らいおっと・らいおねる」
アルハの胸にすとんと落ちてきた名前は、不思議ともう零れ落ちることはない気がした。極上の寝具のおかげだろうか霧が晴れたように頭がすっきりしている。
「あれ?なんだかもう忘れないような気がします」
「不思議か」
「はい。天上を思わせる至高の寝具には記憶力を向上させる効果があるのかもしれませんね」
うっとりとベッドに目をやるアルハの視線を追ってライオットは片手で顔を覆い、かぶりを振った。そして、ひとつ咳払いをして一転真面目に問う。
「家に戻りたくはないか、アルハ・リューン」
「戻りたく、ありません。絶対に。あの、私市井にでて平民として暮らそうと思います。徒歩で家に帰ると言って出ていった、としていただければこれ以上のお手間もかからないのではないでしょうか。働いていつかどうにか御恩はお返しいたします。ライオネル様に両親の相手をさせてしまうことは誠に申し訳ないのですが・・・あ、あと我が家には奴隷にされそうな少年少女たちがおりますゆえしかるべきところに通報の手間もお願い申し上げたく・・・」
実家に突き出されるのを想像しているのか、わなわなと震える両手を重ね握りしめて誤魔化しながらなんとか見逃してもらおうと俯きながらも言葉を紡ぐアルハにライオットは一言、逃げるのか、と問うた。びくりとアルハの肩が跳ねる。
「そう、ですね、逃げては駄目、ですね。子は親の元に、そして、リューン家の者として裁かれなくてはなりませんものね。せめて、せめて我儘とはわかっていますが牢は親と別にしていただきたく。首を刎ねられても同じ血だまり同じ墓は容赦していただきたいですが可能でしょうか」
全身まで小刻みに震えだしたアルハの頬に触れると、びくりと大きく跳ね、恐怖にまみれたモスグリーンの双眸がようやっと持ち上がる。合わさった視線に目を細めたライオットは脅すように言葉を重ねた。
「市井に下ったとしてまともに暮らせはしない。助けてやった恩から逃げるのかと言っている」
前世ではバイト経験も社会人経験もあったと反論したかったが、しかし世界が違いすぎる今世においてやはり市井での暮らしは絶望的であろうことは想像に難くない。どうすればいい、と問うより前に回答はもたらされた。
「リューンの名を捨て、私の駒となれ。術は学ばせる」
逃げ場などない、有無はいわせぬ、そんな荘厳な雰囲気でもって告げられた言葉に、アルハは惑った。爵位ある家名を捨てることは厭わない、あの下卑た両親の駒よりもライオネル様の駒のほうがいい、さらには教育すら施してくれると。それはなんという救いの手だろうか。固まるアルハにライオットは首を傾げた。
「お、おおおお返しできるものがありません!」
アルハの目からぽろぽろと感動の涙がこぼれる。そんな都合のいい話などないと首を振って、夢幻のような提案によって生まれた希望を振り払う。
「家から解放してくださると、身柄の保護すら、教育の機会すら与えられるなど、そんな都合のいい話に私が差し出せる対価などありません」
「リューン家の悪行について情報をもらう」
「足りません!そんなものなんの対価にもなりはしません!差し上げますいくらでも!」
「私の配下として働いてもらう」
「足りません!器量のない私などどれほど働いてもこの御恩に報いきれはしません」
働く気はあるらしいが、働くことを褒美としてしまってただ与えられるものばかりと固辞し委縮しているアルハにライオットは心地よい愉悦を感じながらとどめを刺した。
「配下に必要なものは何だと思う」
「え、と、あの、器量や腕っぷしではないでしょうか」
「より根本的なもので得難いもの。私はそれを貴女に求めている」
アルハは必死に考える。ライオネル様が私に求めているならば私に差し出せるものだ、と。どれだけ器量がよくても、腕に覚えがあっても、信頼を置けない理由。逆に、器量や腕が不足していても信頼を置ける理由とは何か。気付いたのはあまりにも当然で、必然のものだ。
「家名を捨て、ライオネル様の配下となり、必要な技術を修めるよう努めます。私の心も身も差し出します。決して背することない絶対なる忠誠をライオット・ライオネル様にお誓い申し上げます」
それでもこんな小娘の忠誠など何の役に立とうか。それでもライオネル様はそれは対価に値すると言ってくれた。だから私は浅ましくもなけなしの対価を差し出して自分の言葉で求めなくてはならない。
「ライオネル様、お願いします。助けてください!」
椅子から降りて土下座しようとしたアルハの右手を取って、ライオットは己の手を持たせた。アルハはよくわからないままなんとなく誓いの儀式って手の甲だった気がするけど、とは思いつつ向けられているのが手のひらだったので左手を添えながら恭しくそこにキスをした。顔を上げれば正解だったのだろう、満足そうに笑み華やいだライオットの青紫の瞳には底知れない感情がゆらりゆらりと揺蕩っていた。
「決して背することのない絶対の忠誠と懇願を受け取ろう」
なんだか大変なことになってしまったな、と。アルハは安堵感からか処理能力超過した諸々の葛藤やこれからのことを適当かつ曖昧な一言のラベルを張り付けて隅に追いやり、サンドイッチを眺める。
「ところでアルハ、家でなく私の所有物だろう?私をどう呼べばいいか、わかるね?」
「は、はい。・・・ライオット様」
名で呼んだところでついにぐうとアルハの腹の虫が呻いた。いたたまれなく首から上を真っ赤に染めて俯くアルハに、ライオットは椅子に座るよう促す。ライオットがサンドイッチに手を付けてようやくアルハも朝食にありつけたのだった。