相ての思い
「おいおいおいおいどうした!?どうしてそうなる!?」
ぎょっとしたギルスナッドが気を入れようと揺さぶってしまうほどアルハの顔色は悪く、絶望を体現していた。ちょっと捕まえてくるから待ってろと言ってギルスナッドが部屋の外に駆け出していき、つられるようにフラフラと部屋を出ていくアルハをオルガイアが追いかける。結局アルハはオルガイアと近衛のルルスと共に使用人部屋まで戻ることになった。一緒に部屋に入ろうとしたオルガイアに精一杯の笑顔を張り付けて大丈夫だと頭を下げたアルハの限界を感じ取ったのか、オルガイアは少ししゅんとしながらも笑みを浮かべてよく休むように、気に病まないように念を押して引いていった。
扉が閉じられて数分。立ち尽くしたままただ呆然とする。
邪な想いを曝け出したアルハに対し、ライオットは姿を消した。セレネアも、ライオットも、消えてしまった。戻ってきた使用人部屋にも、隣の寮室にも誰もいない。アルハただ一人きり。
「ごめ、なさ…っ」
誰にも届かない謝罪は言い切ることもできず嗚咽に掻き消された。みっともなく溢れ出た涙は拭っても拭っても止まらず、アルハはとうとう泣き声をあげる。
自制も効かず主に懸想する、前世の知識も有効に引き出せない役立たずめ。だから独りになるのだ。与えられた環境にただ安穏としていたのではなかったか。死に物狂いで何かを得たのか、否だ。もっと懸命に色々取り組んで役に立つ駒にならなくてはならなかったのだ。己は怠惰であったのだと悔いても、もう遅いのだとぐるぐると呵責の渦に飲まれ沈み落ちていく。
泣いてどうなる。どうにもならない。情けない、みっともない。どうしよう、どうしようと、自分はいつもそればかりだ。自己否定が心を塗り潰すままに何も考えられなくなっていった。
…出ていこう。
啜り泣きが潰える頃に浮かんだのはその程度の結論だった。貴族令嬢ごときが平民暮らしで何ができる、逃げずに恩を返せ、と引き留めてくれたライオットに仕えて何ができただろうか。過去を振り返るも、衣食住を与えられながら迷惑ばかりかけたことしか浮かばなかった。口数少なく表情も乏しいが、ライオットはなんだかんだ面倒見がいい。アルハは己のヘマ以外で辛い目に遭ったことなどなかった。
性欲処理くらいにはなっただろうか。そもそもその一線すらアルハを慮ったうえでの施しから始まった関係で、あれはまさにアルハへのご褒美に他ならなかった。公爵令息嫡男になんてことをさせたのだろう。いや、二度目以降は不可抗力でも何でもないのだけど。むしろ男子高校生の性欲スイッチを押してしまって大丈夫だったのか。今後、令嬢に迫られていいようにされてしまうのではないだろうか。湧き上がる後ろめたさに背が丸まっていく。
とりあえず出ていくしかないと、学院から支給された一番安価なお仕着せを引っ張り出して着替え、ハンカチ用に買っていた布を風呂敷代わりに広げた。収納棚からそっと取り出した、歪なルアーとそれを納める小箱を祈るように抱きしめて大事に包む。
「未練がましいですが、これだけは頂戴していきます。ライオット様、セレネアさん、すみません。ありがとうございました」
誰もいない空間に頭を下げて、目線を地に這わせたまま扉に振り返った。
「…帰りたい。日本に。ふつうに、暮らしたい」
帰るも何もアルハの身に起きているのは異世界転移ではなく、異世界転生だ。前世の自分の姿名前すら抜け落ちた記憶は輪廻の選定者が剥ぎ損ねた残り滓でしかなく、前世への帰路など存在しない。アルハの世界はこの世界だ。そんなことはわかりきってる。零れた弱音も涙も、ただ床に落ち染みをつくるのみだと。
前世。こんな記憶がなければアルハは、アルハの皮を被った誰かではないアルハでいられただろう。思いのまま薬で溶けた幼心で令息を誘惑し、一方であざとくヒロインの妨害を行い、心のまま生きていけただろう。リューン夫妻やアルザ夫妻のように。アルハの皮を被った誰かであるアルハは、あれを羨ましく思えても、そうありたいとは思えない。そのような振る舞いができる人格にない。
ぽすりと、項垂れた頭が阻まれて力ない歩みがとまる。床を這う視界が、見慣れた革靴を捉えた。
「すまなかった」
いつもより力なく褪せた声が、アルハの顔をそろりと上向かせる。
「どこへも、行くな」
なぜ、そんな苦しそうな表情をされているのですかと。何故か切れて滲んでいるライオットの口端の傷につい手を伸ばす。
その手を掴まれた。気まずげに彷徨いながらもアルハを射抜いてきた半ば伏せられた視線は三度逸れて、多分に躊躇いながらようやく口を開く。
「君に、全面的に甘えていた。私の不埒な欲を当たり前のように受け入れて、あまつさえ褒美だなどと…。
君は私のもので、私が何をしようと君はそれを許す。私は許されている。そこで思考停止していた。考えることを放棄していた」
ライオットの言葉をアルハは処理できなかった。音を右から左に聞き流して、あぁなんかすごい苦しそうだなと漠然と思っただけだ。
逸れた瞳がかちりと合わさると、向けられた音はぶっきらぼうにささくれる。
「君は、誰だってよかっただろ。ギルスナッドであろうがコンラードであろうが。見目よく、通常嗜好で、優しい相手であれば誰だとしても。私でなくとも。仮に私が君を誰に託しても君は有難いと、親よりましと笑うだろう。…それが嫌なのだろうな。ああそうだ。今口に出して納得した」
なにかしらの文句をつけられているのは理解した。何が気に入らないのだろうとアルハは首を捻る。そして、気に入らない箇所などいくらでもあるだろうと、それよりどうすれば許容してもらえるかを教えてほしいと思う。
「現状を受け入れて君を縛っておけば君は私のものなのだから。受けた恩と義務で選択肢を選べないのだし、忠誠を誓った君が私を裏切ることはないと。傍においておけると。真意を否定されることもなく、好きな時に好きなだけ君を味わえる。これ以上のことがあるだろうか、と」
結局何が言いたいのか。ライオットが何を求めているのかさっぱりわからないアルハに、回答ではなく設問が提示された。
「どうすればいい。どうしたら君が手に入る」
ますます意味が解らなかった。もしかしてライオットが話しかけているのは自分ではないのかもしれないと背後を振り返って確認するほどアルハは混乱していた。
語り手が黙り、回答を求められているらしいアルハは何回かライオットの顔と背後を確認する。誰もいない。再三確認するが、ライオットの視線上にはアルハしかいないのだ。
何度も背後を確認する不審なアルハに、ライオットも誰かいるのかとアルハの後ろを伺う始末。二人して確認し互いに疑問符を浮かべながら向かい合った。
「私?は、すでにライオット様のものですが…?」
わけがわからないです、と顔面にでかでかと表示したアルハにライオットは自身の口元を隠す。自らを落ち着かせるように視線を逸らし、さらには目を閉じて数拍置いてから言葉を紡いだ。
「そういう意味ではなくだな…。本当にすまなかった。身の置き場のない君を、捨てられた人形を弄ぶように好き勝手に扱って、何度も欲をぶつけた。君の従順さは懇願による契約の義務であり、恩に報いる姿勢であったというのに。君は人形ではない、ひとりの女性だという当たり前のことから目を背けて無体を強いた」
打ち捨てられた人形を懐に収めて、操って、相手をさせたと。純情少年がダッチワイフで耽っていたら生身の女子やったえらいこっちゃ、みたいな心境なのだろうか。とアルハはライオットの吐露を紐解く。
そもそも、被害妄想で勝手に自沈していくアルハをライオットは助けてくれたのだというのに。なぜこう幾度も、無理矢理組み敷いたかのような言い方をするのだろうか。
「ライオット様は、苛まれていた私をお救い下さっただけではないですか。その後のことも私のような者にとってはご褒美にほかなりません。健全な青少年に無体を働かせたのは私なのです。私がお相手を務めさせていただくことは私の責任ですし、危機管理のうえでも一番都合がよろしいでしょう?
私は弁えています。安心してお使いください。謝られては立つ瀬がありません。私は、ライオット様のものです」
安心してください、大丈夫ですよ!と力説するも、言葉を重ねるごとにライオットの表情は陰っていく。何故なのか。生真面目ライオットは娼婦のような愛なき性欲処理相手を配するのを躊躇っているのかもしれない。ならばと。
「で、では、ライオット様は多少なりとも私を、わ、たしを。す、好いて抱いたのだ、と。一言口にしてくだされば、単なる男女の戯れになりませんかね。いや、えと、なんでもないですお忘れくださいすみません」
「私が君を好いていれば、単なる戯れ…?」
そりゃそうでしょうよ、と内心で零し顔を背けた。アルハの好意はもう伝わってしまっている。今世において未成年の不純異性交遊がどの程度許されているのかは知らないが、前世では学生の身分でも懇ろになる男女はいたのだ。想い合った男女の当然の流れと、嘘でも乗っかってくれれば妙な罪悪感を打ち消せるのだという提案。
ライオットは突然にアルハの両肩を掴んだ。驚いて振り向いたアルハを真っすぐに射抜く。
「君を最初に穿った日、あれは施しや慰めなどという綺麗なものではない。単に欲情したんだ。君に、掻き立てられるがまま欲した。弱り目に付け込んではじめての女を味わって、溺れて、これは私のものなのだと強く思った。故に、深く考えることを放棄して君を所有物として扱ったわけだが。
身体だけではない。君の、妙な話を、その声を聞きたい。表情を変えたい。反応をみたい。乱したい。味わいたい。孕めばいい。産めばいい。ずっと私の手の内に捕らわれていれば。…これは、好意か?」
ライオットの建前をアルハはしかと受け止める。
「ライオット様のお役に立ちたい。支えになりたい。お声をかけてもらいたい。傍に、置いてください。何かお気に召しましたら、気が向きましたら、…褒美を与えてください。これが私の好意です」
アルハは話しながらもライオットの建前を反芻する。それは甘く粘着質な愛欲を錯覚させた。
優しい人だなと再認識させられる。少し会話しただけの他人であるアルハを匿ってくれた。引っ提げてきた面倒事の矢面に立って荷を引き剥がしてくれた。侍女として傍においてくれた。悪夢から助けてくれた。責任をとるべきはアルハであるのに呵責を感じてくれていて、アルハの図々しい提案を即座に飲んで身に余る言葉をくれた。
「いつも、ライオット様の優しさに救われています。私が私でいられなくなるその日に助けてくださったのも、今の安寧もすべて、すべてがライオット様のおかげなのです。ライオット様の言う通り、他の誰でもよかったのでしょう。けれど、ライオット様だった。それが、ライオット様だったのです。私のような荷を負わせてしまって申し訳なくもありますが、私にはそれがすべてなのです」
誰でもよかった?そうでしょう。それが貴方だった。それでよかった。懇願叶った恩でも契約による義務でもなんでもお好きにどうぞ。それで傍に置いてくれるなら。慕うことが許されるなら。
アルハを見やるライオットの瞳は揺らいでいた。赤く染まった表情も、湧き上がる感情に混乱し声にならないさまも、室内の暗さは敵か味方かきれいに覆い隠してはいるが。
「私でいいのか。君はそれで本当にいいのか」
「勿論です。むしろ人間の三大欲求に満ち足りた今の生活のなにもかもが身に余っていて畏れ多いばかりで」
「人間の、三大欲求?とはなんだ」
「食欲、睡眠欲、せ…秘密です。でも、本当に申し訳ないくらい満ち足りていて!?」
「ふっ…」
ぽすんとアルハの肩にライオットの額が落ちる。小刻みな震えと、くぐもったやや不気味な笑いは間もなく溜息となって溶け落ちた。
わたわたと慌てるアルハの腰を抱き寄せて、耳元で囁く。
「私も満たしてもらおう。今日のところは、睡眠欲を」
お固い服を脱ぎ捨てて、ドレスを剥がし捨てて、主は侍女をベッドに引きずり込む。遠慮と悪戯の攻防は早々に終結し互いに目を閉じた。
かなわないな
互いが互いに抱く想いが重なっているとも知らずに。




