あの日
許嫁や婚約、政略結婚。貴族社会を描く少女漫画や乙女ゲームや小説ではよく見かけるもので、日本でもその昔は当たり前に行われていたこと。現代においても一般的ではないものの存在はしていただろう。
前世、で予々不思議に思っていた。なぜ彼らはそれを受け入れて子を成して次代に同じレールを敷けるのか。他人との生活、他人との子作り、そのはじまりに愛がないなんて。作品では大抵相手の見目が麗しいが、現実はそう甘くはない。見目麗しい権力者などそうそうお目にかかれない。そして権力者ほど癖のある性格が多い。物語のように、よかった、と互いに思える組はそうそうないのではないか。
概念の違いと言ってしまえばそれまででも、私はそのシステムにわだかまりを持っていた。けれど、作品でその設定に触れつつも他人事でしかなかった。
日本人の一般的庶民である私の世界には関わりない対岸の火事であったから。
そう、日本人の一般的庶民であった前世の私には関係なかったのに。
まだらに褪せた暗金色の癖髪、仄暗いモスグリーンの瞳。
鏡には並を精一杯着飾った貴族の幼女。辛気臭く幸薄そうな今世の私が映っていた。
イフスエル王国の600年の歴史、と書かれた教科書に「たかだか600年か」と心中で軽んじたのが開錠音だったように思う。4歳の貴族のお嬢様に日本という異世界での記憶が刻まれた瞬間だった。
私はリューン男爵令嬢アルハ・リューン。ちなみに爵位は下から男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵。「男子の発光光ちなみに最後はハムである」と私は覚えている。要するに私は下端令嬢。国の隅の片田舎を細々と管理する一族の娘である。
「準備はできたかい?アルハ」
「あら、及第点にはなっているわ。今日の夜会は目上の方も来られるからくれぐれもわかっているわね?」
アルハの原材料であるぱっとしない父と母は意外と野心家で、見目も頭も並な娘という釣り餌で極上の殿方を釣り上げようと必死だ。作品で見かけた親子の愛など感じたことはない。彼らからは義務で産み落とされ、保身のため育てられ、見栄のため嫁に出される。愛なき婚姻を強いられたであろう彼らではあるが、その小汚い性根の一致を考えると似た者同士でいいようにまとめられたものではないか。
父母に放り込まれる釣り堀、もとい茶会に参加するたび暇を持て余していた。幼女に前世の記憶パッチが付与された結果か否か、同年代の子と無邪気に遊ぶことが難しくなってしまったためだ。父母とは別室で行われる交流。キャッキャッと駆け回ったりおままごとに勤しんだり未熟な会話で理解しあったり、できない。側で見ているのも辛い。かといってませた幼児幼女のミニ社交界にも参加できない。側で聴いているのも辛い。前世パッチはコミュニケーションの構築にあたりなんの利も得なかった。むしろ損だった。きっと前世は子供嫌いだったに違いない。
そんなアルハという孤立幼女は今世という現実から逃げる間に会場の隅にかりそめの安寧を見出していた。のに、しばらくして無表情ながらも目を引く気品ある坊ちゃんがアルハの安寧を侵しにきた。あちらも先客に気がついて面倒臭そうに瞳を濁らせる。
「会場に戻られた方がよろしいのではなくて?あなたのような見目麗しい見事な鯛に相応しい生き餌がウネウネしているわよ」
二番手のくせにその目はなんだと腹が立ち、どっかいけ、を包んだオブラートから棘がはみでた。視線はすぐに逸らしたので坊ちゃんの反応はわからない。吐き出した苛立ちが徐々に心臓に負荷をかける。前世に引き続きアルハは短慮な小心者だ。
怒って叩いてくるか悪態をついてくるか、いやすぐに踵を返すだろうと思われた坊ちゃんは、肩につかないくらいに揃えられた蜂蜜色の髪をさらりと揺らし、嘲る。
「その生き餌とやらが煩わしくて抜けてきたのだけどね」
おまえこそどっかいけ、ということだろう。我が安寧の地を横取りなどなんて横暴な。適度に会場から離れてかつ迷わずかつ人目につき難い場所などそう見つけられはしないというのに。アルハは貴族階級では最下層である以上対峙する相手は同位以上でしかないことに思い至った。
「ここにいるのはただのルアーですもの」
「…るあー?」
「…疑似餌のことですわ。木片などを不自然に彩って獲物の興味を引くもの。釣り手に揺らされているだけですので自らウネウネと動きはしませんわ」
ルアーは異世界語だったかと内心焦りながら、こちらに他意はないから折半でいいでしょと妥協案を提示する。
坊ちゃんは意外にもそれを受け入れたようで。
「釣りに詳しいんだな」
何女子だよツリジョかよ、とでも言いたいのだろうか。
「ただの知識でしかありません」
「しないのか」
「しません」
会話が終わった。だが、それでいい。パーティはいつお開きだろうか。貴族はくだらない会合に時間を使いすぎだ。はやく帰って自室に籠りたい。
「お前は彩られた疑似餌、ルアーだと言ったな」
それで彩ったつもりか、と馬鹿にしているのだろうか。不自然にと言わなかったか。
「では、ワームにします。私はワームです。これで満足ですか」
「…気難しい女だな。で、ワームとはなんだ」
「ぶよぶよした材質の芋虫型の疑似餌です」
「なっ…」
自分で形容して惨めになってきた。もういい。なぜこの坊ちゃんは話しかけてくるのか。話したいなら会場に戻れよ、と。
芋虫なんか想像させるなよ気持ちわりぃな、とでも言いたげな蜂蜜坊やを一瞥して会場に踵を返し、菓子でぼっち飯をしようと皿に盛ったところでお開きとなった。
帰路の馬車の中で両親に今日の釣果を問いだたされ仕方なく、殿方と釣りの話をしたと白状したところ、殿方という部分におおいに喜ばれた。しかし、名を伝えても聞いてもないことまで明かすと滑稽なほど落胆していた。
見当違いに慰めてくる二対の目は、役立たずめと真っ直ぐに貶めてくる。そして、釣り堀の水を拭いケースにしまうかのように、両親の手が頭に触れた。
家に帰れば視線さえ交わらない、木偶のような家族。