残り陽
――ある日、東京のどこかで――
キーボードを操作していた指がとまり、ディスプレイに表示されている数式をしばらくみつめる。しだいに口がゆるんでいく。
「……うむ、いいところだ……」
椅子に座ったまま背伸びをした。背もたれに身体をあずけながら両腕を天井に向かって思い切り伸ばす。
「おっと」
バランスを崩して椅子ごと後ろへ倒れそうになってしまう。
即座に立ち上がり、部屋の中を腕組みしながら行ったり来たりする。ときどき立ち止まっては少し離れた床のあたりを見つめる。窓へ近づき外の景色を眺めてみた。真っ直ぐな針葉樹も目に入る木々。その向こうには森林限界を超えた山々がそびえたつ。
その上には大空がひろがり、深く透明な蒼色は、人間が手を伸ばしたところで届くことなどかなうはずもなかった。
彼の視線は部屋の中、一つの机に移る。こみ合う本と書類の中、封を破った数通の手紙。
彼は家族や大学にも連絡をしばらく取らず、山奥の人里離れた小屋で研究を孤独に続けていたのである。この小屋はもともと宇宙線の観測所として使われていたが、古くなり解体されかかったものを改装した建物だ。
彼は一度研究している課題が面白くなりはじめると、他の事はすべて忘れてしまう性分を備えていた。
納得のゆく成果にたどり着いたらしい。隣接する倉庫の奥に眠らせていた一本のワイン・ボトルを探し出した。
チリ産を示す埃の薄くかかったラベルを見つめ、そっと笑う。栓を抜いて愛用のコップに赤ワインをそそぎ、はじめの一口をぐいと飲む。口端をぬぐい、人生の最高峰に登頂し、世界を見渡した気分の酔いを味わった。
外部へ連絡を取ろうと思えばインターネットの端末はあるにはある。研究に没頭したい彼は、バッテリーをわざわざはずしていた。それはいつ頃からだろう。この小屋に住み込んだ、初めの日からなのだろうか。
夢を想いつづけてすでにこの地で数年である。もしかすると十年近くになるかもしれない。ここからちょっと歩けば、自家菜園がある。けれども倉庫に蓄えた缶詰などの食料品はつきかけていた。
部屋を一通り整理し、荷造りを始める。だがその手は途中で止まる。アイロンのかかっていない皺のよった背広を着た。鞄は持たない。最小限度の貴重品をポケットのあちこちに入れ小屋を後にする。散歩だろうか。早朝のさわやかな朝日を顔や胸にまぶしく受けながらの長い徒歩。
背後の自分の影がついてくる感覚が、いたずらをする友達といるようで何やら心地よい。
山々の中、キツツキの鳴き声が聞こえる一本の下り道をすすむ。と、霧が迎えるようにただよい現れてきた。その白くただよう空間が、行く手をさえぎってしまった。すでに背後も視界がきかない。それでも彼は、足下の見える地面を頼りとして道なりに歩むことにした。慣れたところだといっても油断はできない。足を踏み外して転落することもあるからだ。
しばらくすると霧は水平に流れてゆく。白色の密度がちょうどよく道の先で薄くなる。すると、景色が蜃気楼のようにぼんやり浮かび上がった。歩くにつれ道幅がひろくなり、ところどころ砂利の舗装路へと出た。霧は消え去り、視界の真ん中に現われたのは、切り妻屋根の家屋が一棟。景色になじむ西洋風の、古びた木造の建物だ。
入口の真ん前に立つ。『月・二四七』と書かれた看板が、扉にかかげられているのを目に止める。把手を握った。鍵はかかっていない。ゆっくりと開いてみた。開くと同時に小さな鈴が、踊るように揺れ軽やかな音色をかなでた。中に入ると、木の香りがたちこめており、窓から入る自然光と小さなランプは灯されているものの、平均して薄暗く、人影は見当たらない。椅子をそろえた木目の小さなテーブル。それが二組あって部屋の中央に据えられている。ただ、一脚の椅子だけは、ゆったりとした特別大きなしつらえだ。周辺には生活用品その他の雑貨、食料品、土産物が訪れる者を待ちわびたように並べられていた。
不安な目を宿した彼は、店の中をあちこちと見回す。そこへ、奥から一人の老人が待っていたように現れてきた。老眼鏡をかけ、シャツと作業用ズボンを気品よく着こなしている。
「おはよう。何かお探しかね?」
しわがれ気味の声で挨拶した老人は、手に持っているガラス瓶を見つめながらである。彼は軽く会釈を返す。
「ああ、どうも。それはジャムですか?」
「うむ、この付近で取れたアンズをジャムにしてな。持っていくかね?」
「いえ、今日はその………」
「……そうか、思い出したよ。今日は出かけるのだな。連絡は届いていたのだよ」
老眼鏡をはずした老人は、接客用のカウンターへジャムのビンを置く。
「ただ通り過ぎるわけではないのなら、そこへかけたまえ」
うながされた彼は、テーブルの前に腰掛けた。ほんの数分で、彼の前に紅茶が出される。それと同時に角砂糖を入れた小さな陶磁器が、ティーカップのとなりに添えられた。どれもイギリス風の茶器にみえる。
「まだしばらく歩いて行くのだから少し糖分を取るとよいだろう。ああ、そうだな。砂糖よりは、これをすすめるよ」
そう言うなり、さしむかいにある指定席のような椅子へ座りかけた老人は、ふたたび立ち上がる。さっき置いたカウンターのビンを取ってきて蓋を開けると、小さじでカップの中へジャムを砂糖の代わりに入れた。カップを鼻先へもってきた彼は、香りをたしかめる。納得したように軽くうなずいてから、一口飲む。ほおがゆるんだ。
「……そうか、東京へ出てみるのかね………」
「なにかあるのですか?」
「……いや、なんでもない……」
老人は髪の少ない、禿げ上がった頭に痩せた体形だ。だがそれでいて、鍛えた背中が上半身を支えているのがシャツの上からでも分かる。
「煙草はかまわんかね?」
「どうぞ……」
老人はやっと座って、作業ズボンのポケットからパイプを取り出した。口に加えると、別のポケットからライターを探り出し火をつけた。背もたれに身体をあずける。タバコを一息のんで紫煙をゆっくりはきだした。天井へ立ち上る煙を見つめ、くつろいだ老人は、考えにふけった顔を彼に一影みせる。
「……だいぶ前だったかな。ワインを送っただろう? まだ飲んでいないのかい?」
「はい、いただきました……」
「国産がよいと思ったのだが……孫のお礼もあって、想い出の深いところが善いと考えたのだ……」
「ありがとうございます」
パイプをふかす老人を見て、彼は照れ笑いする。突然、外が暗くなり、屋根から雨音が聞こえはじめた。
「……また、通り雨ですね?」
「山に囲まれた高地だからな。小さな雨雲だろう。いつものように早く通りすぎてまた太陽が顔を出す。心配ない。君の向かう方へは傘の必要もないだろう」
水滴のつきはじめた窓の外を、彼は背広の襟をなおして眺めた。木々が雨にうたれて枝をしなだらせていた。パイプをくゆらせる老人は、おだやかな無情の顔をつくり、雨音のひとつひとつを聞き分けるふうに耳をすませる。雨音が、木目に囲まれた部屋に、心地よい薄闇の空間を作り出す。
「……ああ……、いやすまなかった。歳をとると華やかなものより、こういった色のない素朴なものが落ちつくのでね。すこしにぎやかにしようか?」
老人は立ち上がり、カウンターの隅に備え付けてある古いレコード・プレイヤーの電源を入れた。棚から一枚のレコードを選び出し、プレイヤーのターンテーブルに乗せて回す。トーンアームをおろした。店内のどこかから、ちょうどよい音量で音楽が流れはじめる。
「ジャズのように聞こえますが?」
「ガーシュウインだよ。もともと都会育ちだからな。山奥に住んでいると、まれに、こういうものも聞きたくなる。君もそうではないのかい?」
「そういう気分になるときはあります。でも曲目によりますね」
「うむ、ところで、私のところにもインターネットの端末はあるのだが、あまり使わないし、だいぶ前に壊れてそのままだ。テレビもほとんど見ることはない。なにしろこの山奥だからな」
「インターネットなら私に連絡くだされば、すぐにでもうかがいましたが?……」
「いや、研究の時間をさくようなことまではね。そういえば、その研究だが、うまくいったのかね?」
「ええ、思うとおりに。ただ、査読はありますので……」
「たしか、今までにない、革新的な宇宙航法に関するものだったな。それが実現すれば、いずれは未知の惑星の文明と接触するかもしれない。それが人類固有の文化、哲学、それと宗教にまで変革をもたらし、新しい社会が生まれるかもしれない。宇宙の中の行き詰まった孤独から解放されるということかな。いやこれは遠い未来の空想だな」
「……人類未踏の地ですか? そうなるといいですね。でも、確かにまだでき上がったばかりの、理論の段階ですから」
「いや、君のような理想を志す者が継続すれば達成するだろう。でもそうだな。できれば、わしの生きているうちに実現してほしいよ。だがタバコの吸いすぎで、どうかな」
「……では、タバコをやめられたらどうでしょう?」
「禁煙したら人生に味わいがなくなってしまうよ……」
二人は、おだやかに笑った。
「それで君は、論文を手に東京かね?」
「はい、ああ、いえ今日は挨拶だけにしようと思いまして……」
「ふむ、そうか……」
「私が行くことに賛成ではないようですね。お聞かせ願えますか?」
「……あまり多くは語るつもりはないのだが、山暮らしが長ければ、君も直感しただろう? 自然界を畏怖することと、人間を怖れることとは別なのだ。妙な老人の忠告と受け取ってかまわない。科学では自然界のすべてを知ることはできないという言説がある。だが少なくとも、基礎の学問は必要で、自然を見晴るかしながら、畏怖の眼差しもより深く備わる。ところが人間の中には、どのように紐解こうと理解できないものもいる。そこに人間の恐ろしさが隠れている。ヘーゲルがよくなかったのだろう。近代主観主義という牢獄。さらに量子力学を歪めて広めた者がいた。オカルトと結びつけるなどと、確信があってそうしたのかどうか。そのために、さらに情況を悪くしてしまった。人間の内面世界を奇怪なものに変えてしまった。……ああいかんな……」
老人は言葉を止めた。傾聴していた彼は、答えにあぐねた様子である。老人は沈黙の間を埋めるようにパイプをくゆらせる。
「……すまない、話が変な方向へ流れたな、歳をとるとつまらない愚痴がよく出てしまう……」
「いえ、胸の内にとめておきます」
「まあまあ、そう畏まるな」
いつの間にか、雨音は止み、窓の外は明るくなっていた。彼は、アンズの香りがする紅茶をひとすすりすると腕時計を見る。
「では、そろそろ私は……」
とつぜん店の出入口が、鈴の音を鳴らしながら開いた。彼が入ってきたときとは違い、乱暴な音だ。十歳すぎに見える少女が一人、機嫌の悪さを押さえた顔で、入るなり会釈をしてきた。長いスカートの赤いワンピース。その上に装飾的な深黒の上着を重ねている。どこかから着想を得たらしく、古風な洋装を真似しているようだ。細小な身体は、彼の前へ進み立った。彼女の白い肌は、薄暗い店内の中にあって、周りの空気へほのかな光を与えているように見えた。
「……聞きましたわ、先生、もう帰って来ないのかしら?」
「怖い顔だな。許してくれよ。また、戻ってくるから……」
少女の茶色がかった黒髪は、片方に三つ編みを一本さげて、赤紫のリボンも結んでいる。その小さな頭がかしげた。
「……お仕事があるのは分かりますけれど、でも、やっと偏微分がわかったところなのに………」
彼女は、両の手を後ろに組み、眉を曇らせた。幼さに似合わぬ、担当教授の前で単位をもらえないわがままな学生のように振る舞う。
彼がすぐには答えられないでいると、老人はくゆらせるパイプのくわえ方を変え、目じりに皺をつくった。
「……どうも、わしでは数学の教え方が下手でな。君にまかせて助かった」
まだ返事をもらえない少女は、大人のすでについた都合へ分別のつかない顔を強調する。
「あたし、もっと勉強したいのに……」
彼は腰を浮かせて座りなおし、前屈みで少女の顔を覗き込む。
「ごめんね。戻ったら続けようね。ところで本は読んでいるのかい?」
「え? ええ……」
「今はどんなのかな?」
「……ええっと……」
こたえづらい彼女を見て、老人が、パイプを口から離す。
「孫に本を与えているのだが、もちろん無理やりに読ませているわけではない。本人の気が向いたものだ。それでこの前だったな。モンゴメリーとオールコット、それと、フランク・ハーバートの本が埃をかぶっていたので渡してみたら、しばらくしてフランク・ハーバートが一番よいと言って、夢中になって繰り返し読んでいたのだよ」
老人が代わりに答えたので、彼は、少女の顔を束の間たしかめる。
「……うむ、何がよかったかな?」
少女は、三つ編みを片手でもてあそぶようにいじり、ためらい気味に瞼を瞬きしたかと思うと、次には頬をうっすらと赤くした。
「……ベネ・ゲセリット……」
「おやおや、四姉妹とかアンでは駄目なのかい?」
彼のややもすれば問い詰めるような反応は、少女を不平な顔に変えた。彼女は口を結んで首を左右にふる。彼は自分の顎先を、右手で押さえるようにつまみ、考えるしぐさをしてみせた。
「私は、そうだな。やさしい女性が好きなんだけれど……でもだからって押しつけたりはしないよ。でもなぜだい?」
思案する彼の調子にあわせたように、少女も小首をかしげてみせる。老人も首をかしげかけたが、思案の二の舞いを避けたい顔をした次には、目尻にまた皺をよせる。
「この子は、気難しくてね。こんな具合なんだよ……」
老人の投げた言葉のボールを受け取った彼は、おだやかな笑顔で少女と向き合い、また顎先をいじってみるが動きを止める。
「私は映画も見たことはあるけれど、その物語では、ハルコンネン男爵がとても恐ろしかったね。でもこの国には、そういう人間はいないから安心だよ」
「……先生、そのお話しですけれど……」
それきりに、赤に黒い服装の少女は、別の話題へ何も言わず、いまだに胸のつかえが下がりきらない目を返すだけだ。老人も、少女の気持ちを悟ったようで気に掛けた表情を浮かべている。パイプを手に、口を切り結んだまま黙していた。
「今日は、その三つ編みは綺麗だね。服と似合っているよ」
また話題を変えた彼に見つめられ、彼女は避けたく瞳を左右へ動かす。
「……そうかしら先生、はじめは鏡を見ながら編んだのですけれど、失敗してしまったの……」
そのとき何とはなしに、彼は壁にかけてある時計をちらりと見た。
「……そろそろ行かないと。帰ったらまた話そうね。約束するよ」
立ち上がった彼は、少女の頭をなでると出入口の扉へ向かった。別れ惜しむ顔の少女は、手をふりつつも、テーブルのジャムへ、ちらりと視線を移していた。紫煙の止んだパイプを握る老人は、座ったまま見送る。
「昔なじみと会えるといいね。君が子ども時代に、彼とよく遊んでいたのを思い出す。あの物語を思い出した。ええっと、主人公ともう一人」
「スターリングとオスカーですか?」
「うむ、そこはアメリカのオレゴン州であるが。……土産話は不要だからな。奥さんと息子さんによろしく……」
彼は、老人へ深く会釈し、少女へ軽く手を振ると、扉の鈴を鳴らして店を出た。
入ったときよりも日は高く、まぶしさから瞼を閉じ気味にあたりを見渡す。すぐにただよっている濡れた緑の香りを、鼻腔に吸い込んでみる。薄紅葉の混じる、落ち広がっている濡れた葉を靴で踏み、湿った地面の感触を確かめると、ふたたび下山の方向へ歩きはじめた。
しばらくして後ろを振り返ると、来た道はふたたび霧の白色に閉ざされていた。その向こうにあるはずの木造家屋へ、遠い視線をむける。雨も風もなく、鳥のさえずりもない。あたりは静まっていた。
さきほど会ったばかりだというのに、彼は面影を目でおう。自分が今いる所に気付いて、踵を返して道をすすもうとした。が、一歩が止まってしまう。足元に咲く二輪のナデシコの花が視界に入ったのだ。気付かなければ踏み潰すところだった。彼はその小さな白い花をよけて道をすすんだ。
その後バスや鉄道を乗り継ぐ。列車の窓から見える遠ざかる山々の、景観を眺めながら、家族や友人の顔が脳裏に浮かぶ。背広のポケットから一冊の手帳を出した。一つのページで手が止まる。
「また、この本を読んでみるかな。古本屋にあるだろうか。二千百年という未来か……こうなって欲しいものだ」
つい口の端に笑みがこぼれてしまった。
※※※
彼は駅の出口で立ち止まっていた。長い隔たりを経て帰ってきた東京は、眺めると重たそうな灰色の雲が上空を覆っている。研究の結果を直に報告しようと大学へ向かうが、ついでにしばらく散策してみることにした。
途中で喉がかわいたので目についたコンビニエンスストアへ立ち寄る。まっすぐに飲み物のコーナーへ行けばよかったものを、つい回り道で雑誌コーナーへ足を向けた。
「なんということだ……」
並べてある雑誌の表紙を次々みて思わず小さな声を漏らしてしまった。彼の顔から血の気が引いていく。手にとって頁をめくってみるものの、眉をひそめてすぐにもとのところへ置く。
棚のあちらこちらで「外国人は危険だ」、「外国人を日本から追放しろ」、あるいは「外国人はこんな劣等民族だ」、「わが国こそ一番だ」などという言葉が目に入ってくる。
となりで立ち読みしている恋仲らしい男女から、笑い声まじりに同じ言葉が聞こえてきた。彼は、その場から離れて飲み物のコーナーへ移動する。
「今の流行りかな、それにしても……」
ミネラルウォーターのペットボトルを一本買ってコンビニの前ですぐに飲み干した。太陽の隠れた空を見上げ、アスファルトの地面へ視線を落とす。今朝出会った影の友達は、すでにどこかへ消えうせていた。
また、歩きはじめ、小さな古本屋の前を通り掛かった。中へ入り、いくつかの、ベストセラーらしい積み重なった書籍を見つめる。一冊を手に取りページをめくる。また別の本を開いてみた。
歴史書と銘打ちながら攻撃心を煽る悪罵が書き連ねてある。
「どうなっているんだ?」
大きな集団心理の奥底によどみたまっている“殺意”を彼は読み取りはじめた。
店をあとにして、気分のどこかが逆なでられるまま歩く。大きな街路に出た。
するとデモ行進をする大規模な一群に出くわした。やはり外国人への差別の言葉ばかりが大きな掛け声として耳に入る。
日章旗や旭日旗が掲げられ、ハーケンクロイツの旗までひるがえっていた。中には手製の日の丸がふられ、白地に赤が染みだしてしまい、血の涙を流しているように見えた。
足を止めてしまった彼の脳裏に、過去読んだものがすぐに浮かんだ。ナチスに捕らえられた末に強制収容所で生命を落とした少女の日記。やはりナチスによって強制収容所へ送られ地獄絵図をつぶさに観察した心理学者の手記。そして如何にして大衆が狂気を産み出しのかを分析した政治哲学者の書籍。
文字だけなら、記された光景は読む者の想像にたよるだけだが、記録された映像を彼は見たこともある。
胸がはりさけそうになった。知らずに足が前にすすむ。歩調がしだいにはやまりデモの群集へかけよる。
「なにをやっているんだ! 私には外国に友人がいるのだぞ! 君たちにはいないのか? 日本という国は人間が勝手に作ったものだが、地球の」
突然誰かが彼を突き飛ばした。地面に倒れ、痛みをこらえながら上半身だけ起き上がると、彼の耳に届いたのはケモノのような雄叫び、つばきを伴う罵声の嵐だった。
襲いかからんばかりに群がる人間たち。彼は、本で読んだことと、記録映像が鮮やかに脳裏で甦り、目の前の抜き差しならぬ現実と混ぜ合わさって混乱しかけた。あるいは、外国人へ攻撃する行動を保証するものは、ナルシシズムが一つかもしれないと推察した。
しかし、罵言の弾雨にただ耐えているしかなかった。そのうちに、デモ行進はいずこかへ流れていく。
警備にあたっている警察官が二人、彼に近づいてきた。まるで関わりがないかのように冷たい目で見下し、言葉もかけず立ち去る。
代わりに背後から誰かの、かけよる足音が近づいてきた。
「大丈夫か?」
振り返るとジャンパーを着た男性が不安な目で手をさしのべてくれている。
「こんなところで会うとは奇遇だな」
彼を見下ろしている顔が笑顔に変わった。見覚えがあり、手で瞼をこすってからよく見ると大学の昔なじみの友人であった。
差し伸べられた手をつかみ、彼はゆっくり立ち上がる。ついた埃をはらい落としながら、あたりの人々を見やる。
デモに参加していない通行人のほとんどが他人事のように知らぬ顔だった。その目は病んだ末のように、どこか死んでいた。
暴力的エネルギーを発するデモ参加者とは対照的な表情をしていた。だが、彼は、両者は共に同じ種類の人格だろうと感じとる。
昔なじみに誘われるまま、近くの古びたそば屋へ入り腰を掛ける。彼は“かけそば”で、ジャンパーを着た男性は“天ぷら”を飯に乗せたものを注文した。
しばらく会わなかった間の出来事を彼はいくつか聞いてみる。はじめはとりとめのない日常会話が数分続いた。が、突然、旧友はあたりをそれとなく見回してから話し始める。
「ところで、俺と一緒に研究していた一人がうつ病にかかってね。医者から大量の薬を処方されて、言われたまま飲み続けたらもうそのまま廃人になってしまったよ。今はそういうの珍しくもないけどね」
そばを食べようとしていた彼の箸が止まった。眉間がかすかに歪む。
「なぜ、今ここで、そんな話をするんだい?」
研究所の仲間が精神を患ったという顛末。それとなく、いや、気持ちのよい顔は見せず、箸を動かしていた。耳に入る声よりも、そばを味わうことにより、わずかな一時の中に安らぎを得たかった。しかし、目の前で食事をとる友人から、ながらにも苦笑いの含んだ語り口調を耳にしていた彼は、会話の流れに不自然さを感じとり、箸を止めたのだった。そこでジャンパーの友人に問い返したのである。
彼の友人は、その問いをあらかじめ待っていたかのように椅子を引きずり、座り直す。すでにテーブルの上に置かれている湯気のたつ茶碗を取り、茶をすすった。答えようとして少し咳き込みかけた。友人はあたりを見回し、彼の顔へ自分の顔を寄せる。といっても間にテーブルがあるのだから、そう顔を易々と寄せることなどできなかった。
悪巧みの相談にも似ている芝居じみた振舞いが、彼の受け身な体を固くさせる。
「君は、数年間山にこもって不在だったから知ることもできなかっただろうがね。精神病の患者を無理にでも入院させる手続きくらいあるのは知っているだろう?」
「あ? ああ……措置入院とか強制入院のことか?」
「そうそう。それでその手続きが変わったんだよ。恐ろしい方向でね。以前は、強制入院させるためには、その資格のある専門医が最低限二人必要で、診察を直接行い、さらに家族の同意がなければできなかった。ところが、ところがだ。法律が改正されて、医師免許さえあれば誰でも、一人で一枚の紙にサインしてハンコを押せば強制入院させることができるようになったんだよ」
「そ、そんな……」
「しかも、家族の同意も不用ときた。この意味は分かるだろう? 政府にとってうるさい、気に入らない人間を裁判なしで監獄にぶちこめるという算段だよ」
「……よくこの国の市民は黙っているな……」
「今じゃ精神病棟は反体制的と見なされた人間ですし詰め状態だ。そのなかには、大量の薬物投与や脳の手術、それと皆が薄々気づいて恐れている身体拘束。一日二十四時間縛られているから本当に頭がおかしくなっちまう。生きる屍になったやつのゴミ捨て場」
「……酷いな……。その法律ができる前に誰も反対の声をあげなかったのか? 先進の民主国家なら大問題になるじゃないか」
「だって、この国じゃ、精神科に通院しただけで差別の対象になるからな。建前は民主主義を謳っていたこの社会の、昔からあった裏の顔。因習、タブーになっているんだよ」
「反対する医師もいなかったのか?」
「ははは、ナチス時代のドイツでは、医師が安楽死と称して障害者を大量殺害したことがあったよね? 日本では七三一部隊に協力した一流大学の医師たちがいた。 第一次世界大戦では化学者が毒ガスの開発、第二次世界大戦では物理学者が原子爆弾。後になって世の中の同情をかおうとして言い訳していたが、皆さん空気を読んで積極的に協力していたんだよ。残忍、残虐な行動も辞さず。やりたくてやったんだな」
「その言葉どおりだと、知性によって論理的に考えて行動する、というより、動物の本能だな」
「そうそう、科学を学べばすぐれた良心を持つと、どこかの科学者が言っていたが、歴史についてはほっかむり。人間は獣性から逃れられないという重要な点も見落としている。今思い出したが、学生のころ、君もときどき目にしていただろうが、戦争や公害、その他の歴史で起きた様々な事件。大きな社会問題の話しを少しばかりでもすると同じ理学系の学生から、“それは、理科とは関係ない人文学科の事じゃないか?”とか、“理系なのに人文系に興味があるのか?”と返したついでに奇異な目で見られたことがよくあったな。現実はそういうのが多数派だった。だから、それ以上空気には逆らわなかったけど。おっとこれは話しがずれた」
友人の話を聞き続けていた彼は、最後の一口を食べ終えて、茶をすする。考えにふけったように口を切り結んだその次に、そばの碗を見下ろして口を開いた。
「魯迅が『新青年』で『狂人日記』を発表する前、自分の友人とやりとりした手紙のことを、思い出した。“鉄の部屋”。私はその部屋の多数派となってそこまで落ちたくはない」
「……そうだな。俺もそう思うよ。と、言いたいところだけれども、今、俺が研究しているのはロボットの技術で防衛省から資金をもらっていたりしてね」
「どんな研究をしているのかい?」
「二つあってね。一つは、セルロースを基にフレームや外部装甲の部品を製造する。金属よりも軽くて頑丈というのが利点。欠点なのはレーザー砲などの高熱にまだ耐えられるものが大量生産できないということだ。これが開発できれば、大型のロボットは重すぎて無理という反対意見もなくなる。もうひとつは、他の研究所と共同で新しい人工筋肉の開発をしている。もったいぶる訳ではないが、それはまた別のときに話そう」
「武器開発につながるのか?」
「まあ、そうだな。昔の戦争に協力した科学者の気持ちがわかるよ。取り繕かれたようにやりたくてやってしまうんだよね………。さっきの話しに戻ろう。強制入院の法律の話し。突然、精神医学の学会が変貌したわけじゃない。前兆はあったんだ。俺の話した友人。そいつ初めて入院したときの事だ。二、三日してから診断名目の質問をいろいろと受けたそうだ。その担当は若い女医さんでけっこう茶髪の美人だったそうだが、あ、話がそれたな。その質問の内容なんだが、奇妙な問いがちらほらあってね。たとえば、“結婚制度はなんの為にありますか?”とか、“マスコミは何の為にありますか?”とか、笑顔で妙な質問を次々としてきた。そこは大学付属の病院だったが、要するに、診察を隠れ蓑に、政治思想の調査をやっていたんだよ。おそらくもっと前から準備を着々と進めていたのだろうな。新しい法律ができる前は、ヨーロッパと比べてみてもおかしいと気づいていた者はいたし、声もあげていたが、それはごく少数で、ほとんどの医師や看護師は、空気と差別本能で見て見ぬフリだった。ここのところは、大昔からよくある人間像だな」
「…………」
「それで、さっき俺の知り合いが廃人になったといったろう? どんな様子かというと、今も生きている。いつも幸せそうな笑顔で単純作業をこなしていてね。薬を飲み続けている。どこだったかな? そうそう、昔、あるドキュメンタリー映画を観たことがあった。何のはなしかって? そのドキュメンタリーは、アメリカ南北戦争でもし南軍が勝っていたら、という架空の歴史を描いているんだが、二十世紀の半ばになると黒人奴隷が薬物を投与されていてね。過酷な環境であるにもかかわらず、天国にいるようなニコニコ顔をしているのさ。だけど、日本はどうかな? 薬物は必要ないかもな。だって、この酷い世の中が見えなくていつもヘラヘラしている人間はずっと昔からいたからな」
「その話を聞いていると私は、『THX-1138』を連想する」
「おお! いいね! 観たことがあるのか?」
「高校生のときに、そのときはピンとこなかった。時間を無駄にしたと思っていた。しかし……」
「今は現実がSFを超えているだろ? 『ドラゴン・ヘッド』というSF漫画があって、その実写版映画もある。主人公を除いて登場する人間たちの振舞いが実に興味深い。極端に描写したようでいて現実の人間によくあてはまっている。ところでSFといえば、いや、これは都市伝説なんだが、誰かが創った人間そっくりのロボット、つまりアンドロイドがこの荒廃した国、人間の命がかなり安くなってしまった国の中をさ迷っているというんだ。肌の質感、感情表現、なめらかで細かいしぐさ。人間よりも人間らしいそうだ。ただし、心が腐っている大人の目では見分けがつかないらしい。理由は、“人類に呪いがかけられているから……”ということだそうだ。かなり高価な部品を使っているのだろうな。本当にいるのなら捕まえて分析してみたいね。ああ、話が長かったな。金は欲しいが、人間は信用できないな……」
話を一旦終えた友人は、かなり使った喉をふたたび茶でうるおした。
気分を変えたくなった彼は、店内を見回した。隅に置いてある新聞を見つける。その折り畳まれた新聞を持ってきて、拾い読みする感じでめくり眺めた。
一面から紹介されている政治家たちの言葉は、暴力をいとわないデモの群衆から聞こえていたものと酷似していた。そして新聞の解説。あるいは政治家たちのひとつの言葉に目が定まる。合い言葉のごとく流行っているらしい。「……誰も戦争は望んでいない……」と書かれている。覗いた友人が笑った。
「可笑しいよなそのセリフ。良いところの大学を出た連中がほとんどなのに、歴史をまるで知らないのか。知らない民衆を美しい言葉で騙すトリックなのか。もしかしたら、政府は、平和の為に良かれとやっているから文句をつけるな、って脅しを用意している誘導かな? ダメな親が子供を思い通りにしたいときのロジックだよね」
友人の感想へ彼は答えようとしたが別の記事に目が移る。「安楽死法案」が近々議会で採決されるという。治療費が高く、擁護のための人件費などもかかってしまうから、障害者を“人道的見地により処置する”のだという文面だ。
続けて他の記事にも注目した。外国人を保護するという名目で、指定した地域に集め、まわりを壁などで囲いこむことが与党の中で検討されているという記事である。
「……これはゲットーじゃないか……」
ここで彼は思わず一声あげてしまった。あらためて紙面を一面から順次めくり続け、最後に見るべきでもなかったがテレビの番組表を確かめる。
やはり見せ物小屋の看板みたいな文句ばかりが並んでいる。何でも解説できるコメンテーターがゲストのワイドショー、お笑い芸人がどんちゃん騒ぎをするバラエティー、グルメ特集満載のニュース番組がほとんどだ。
「まあ、しかたない、と結論しようかな」
様子をうかがっていた友人は、そうつぶやいて両手を組んだ。
「みんながやっていることだからね。空気には逆らえないよ。とまあ、これが高度な科学文明を享受する現代人の知性的趣向なわけだ」
たわいもないという顔で、そのまま友人は、まだ三分の一ほど残っている丼に箸をつける。食べながら小さな声で再び話しはじめた。
「……ついでだから話そう。君がいない間に大きな事があってね。ほら、毎週金曜日に国会議事堂と総理大臣官邸の前でデモをやっていただろ。家族連れもあったりして平和的なやつ。ところが五年前だ。テロリストがデモにまぎれて自爆テロをやるという情報が政府に入ったという。それで警官隊が鎮圧に乗り出してね。何人か死者が出た。その事件を海外メディアは“血の金曜日”と名付けたりしている」
「そんなことがあったのか? そのとき総理大臣は何をしていたんだ?」
「まあ、今の俺と同じように天ぷらでも食べていたんじゃないのかな」
皮肉でもって友人は返した。再び顔を前に出し言葉をつけたしてくる。
「大きな声では言えないが、テロリストの情報は政府自ら流した自作自演だそうだ。でもこの話しも“それは陰謀論だ”という消しゴム科白を、ご意見番文化人が重宝に使うからね」
※※※
食事をすませ、しばらく茶を飲み、店を出る。二人は大学の方向へ歩みをすすめた。少し冷たい風が吹いてくる。相変わらず空は鉛色だ。
十分ほど歩き続ける。道の先から人影が固まって近づいてきた。三人の男が、痩せ細った一人の女性を囲んでいる。
周辺の通行人を威嚇する空気。
彼と友人が進むのとは反対方向へ通りすぎていく。男たちは鍛えあげた大きな身体の上にカーキ色一色が映える軍服のような制服を着ている。野球帽型の帽子は目深くかぶっていた。一人は女性の細い片腕を強くつかんでいた。しかし彼女は抵抗する気配を表に出してはいない。ただ外国語らしい独り言を、誰にむけるのでもなく口にし続けていた。
振り返った彼に旧友がささやいた。
「あれは、民間の警備員だよ。影では突撃隊とよばれているけれどね。止まらずに歩けよ。目をつけられるとやっかいだ。ほら、あそこに監視カメラもあるだろ。ほら、あそこにも」
あごでしゃくった友人の示す方向へ目を凝らす。鉛色の雲がたれこめる空の下、電柱の上を見上げる。寄生生物のような小型カメラが、不気味な単眼により路上を見下ろしている。
カーキ色の男たちは、女性をひっぱって、人通りのなさそうな狭い路地へと直角にまがっていった。
忠告を受けた彼は、それでも男たちが手に握っていた頑丈そうな警棒が目に入っていたので、気になってしかたない。
そのまま、また一区画をすぎて角をまがる。石畳もある通りに入った。内部はコンクリートによるのだろうが表面はレンガ造りの建物が多い。ちょっとした東欧の街なみを連想させる。
安心しかけたのも束の間、二人の表情が再び固くなってしまった。
道路の先に、軍用のトラックが一台、屋根を付けた四輪駆動車が一台、縦に連なって道の脇で駐車している。その周りでカーキ色に統一された軍服姿の男たちが十人ほどだろうか、忙しく動きまわっていた。
「ちっ! また突撃隊だ……どうしようかな」
旧友が歩きながら舌打ちを鳴らし、聞こえよがしにはきすてた。
軍服たちが一棟のマンションからダンボール箱をかかえたり、本や書類のようなものも両手に次々と出てくる。停めてあるトラックの荷台へそれらを積み込んでいった。
彼は、友人の耳に口を近づける。
「彼らは何をやっているんだ?」
「突撃隊の仕事の一つに書籍の取り締まりがあるのだよ。はじめは“児童ポルノ”という、大衆にとって受けのいい名目で漫画を強制没収したり所持者を逮捕連行していたが、その次に小説、そして社会評論から学術書まで、摘発の範囲が広がっていった。音楽の著作権でもよく検挙の道具にされている。政府の気にさわるものならなんでもだ。それであの軍隊気取りだか軍事マニアの連中を手下として働かせている。もちろん紙だけじゃない。電子記録媒体も含まれる。ああやってトラックで運んで、集めて全部燃やす」
「焚書か?」
「ま、そういうことだ。今は逆らうやつはほとんどいない。いや、むしろ今まで平和を謳っていたいくつかの名のある宗教団体なんか喜んで協力しているよ。“神の名のもとに穢れた物を浄化するのだ”とか、異端狩りは連中の専売特許だからな。中世の時代から人間はちっとも変わらないよ。……そいつらが関わったかどうか定かでないが、中国の歴史と文化を専門とする図書館が文京区にあった。それがみんな焼かれてしまった。中国だけでなく世界にとっても貴重なものがたくさんあったのに……」
「人々は歴史を学んでいないのか?」
「歴史ね。歴史修正主義者による洗脳で頭がおかしくなってるかな。でも、無理矢理じゃないんだ。皆、みずから進んでね。面倒くさがって勉強しないから。きちんとバランスの取れた栄養のある食事を取らずに、ポテトチップス、フライドチキン、ハンバーガー、ジャンクフードですませてしまう感覚に似ているかな。そうそう、それでイエスメンという海外のコメディアンが有名ハンバーガーをからかったドキュメンタリーのことを思い出したよ。そこで一流大学のエリート学生たちがもっているダメな感覚も暴かれていたな。日本のコメディアンは強者の提灯持ちをしてヘラヘラしているから期待はできない。おっと違う話しになった」
どちらが声をかけるでもなく、二人は立ち止まった。その刹那、後ろから車のエンジン音が迫ってきた。大きな黒い影が二人のすぐ脇を走り抜けた。軍用の四輪駆動車だ。緑色に塗装されている。トラックと共に駐車しているものと似ているが屋根はない。
その走り方は、誰でもひいてかまわないような攻撃性を感じる。軍用車は三人の男を載せていた。速度を落とすなり作業を続ける突撃隊のすぐ近くに停車した。まず、目についたのは、乗っているうちの二人は緑色の迷彩服でヘルメットを頭にかぶっていることだ。そしてライフル銃。銃口は上空を向いている。
突撃隊の今まで勇んでいた顔色が、おびえたように変わった。それぞれの作業を行っていた足と手がとまるなり、身だしなみを急いでととのえはじめる。野球帽型の帽子も乱れがないようにかぶりなおした。突撃隊の視線は軍用車から降りてきた一人の人物に注がれている。ライフル銃を携えている二人の兵士の方ではない。車から降りてきたその男は、背が高く、無表情な顔の中に宿す冷ややかな目で突撃隊を眺める。身なりの毛色は他とはまるで違う。
突撃隊が背筋を伸ばしてその男に敬礼した。男は、握りこぶしを口の前にあて、薄いピンク色の唇を結んだまま咳払いをした。そしてまつ毛の長い、切れ長の目で見下す視線を返した。
「んっホン……作業を続けたまえ」
「はっ!」
突撃隊に命令をくだしたその男は、全身黒づくめの服装である。帽子は野球帽型ではなく、自負と権威のみなぎる、将校とか警察官が被る官帽である。ズボンは、太股の部分だけ幅広い乗馬ズボンである。手足も長く筋肉を鍛えた軍人というよりもファションモデルに近い。そして、埃ひとつ付いていない磨きあげたブーツが暴力の匂いただよう街中で黒光りする。
指示された突撃隊は表情をかたくしたまま再び動きはじめた。
通りがかってしまった彼と共にいる友人が、苦い顔をあらわにする。
「ああ、なんてこったい。あんなのが指揮しているぞ。あいつは総理大臣警護隊だ。覚えておくといい、黒い制服が特徴でね。突撃隊とは別格で、あいつらは親衛隊と呼ばれている。見ただけで消化に悪いな」
「どうする? 道を引き返すかい?」
「いやいや、とても回り道になってしまう。それに、迂回しても、さっきのようにまた別の部隊に出くわすだろう。このまま目立たず騒がず、慎んで支配者のそばを通らせてもらおうじゃないか。さ、行こう」
親衛隊の存在を教えてもらった彼は、うながされるまま、歩きはじめた。余計なことに巻き込まれずどうするべきか。さしあたって視線を他へ向けてみたのだが、奇妙なものが視界に入ってしまった。
働く兵士たちのすぐ側。石畳の道端に、大きなブルーシートが一枚広がっている。何かをかぶせたらしく、ふくらみがある。ちょうど大人の人間一人が横たわればその大きさである。彼の目はそこへ止まり本能的に歩調が遅くなった。
それだけではない。ブルーシートから二メートルはなれた路上には、血だまりが見えた。バケツから水をこぼしたように水溜まり状に広がっていた。血の小さな一滴一滴が血だまりからブルーシートの中へと連なっている。
その平和的な日常ではお目にかかることのない異様な光景に彼は、足を一旦は止めた。
凝視してみる。
緊張から胃袋がぎゅっと、しまるような感覚をおぼえ、思わず唾を飲み込む。
すると黒い制服が、彼と友人、二人の方向へ、獲物をとらえるような鋭い目を向けてきた。
余所見をする彼から離れそうになった旧友の顔がこわばる。
「いかん。おい、何を余所見しているんだよ。このまま歩いていくぞ。絶対に何も話すなよ黙って歩くんだ。俺に調子を合わせろ」
「あ? ああ……わかったよ」
友人から耳打ちされた彼は、小声で答える。できるだけ普通の歩き方に努めるが、かえってぎくしゃくした足取りを強調してしまった。靴の中の足が、あぶら汗でじめっとしてきた。
黒服が視線のおよぶ領域を急ぎもせず、つとめて自然な足取りで通り過ぎる。
後ろへ振り返りたい気持ちもあった。去りつつも、もしかしたら自分たちを捕まえるために見つめているのではないかという、感覚が恐ろしい余韻として背中の鳥肌が立っていた。
「振り返るなよ。このままあの角をまがればいい」
「……ああ、……ああ、わかったよ」
兵士たちのテリトリーから逃れられる角がすぐ前に見えたとき。
「おい! そこの! 止まれ!」
男の一喝する大声が、やっと逃げられるという彼の背中を後から前へと貫き、通りいっぱいへ轟きわたる。二人は、雷にうたれたように足が止まってしまった。まるで、学校の廊下を歩いていたときに、体罰の大好きな教師から生活指導のことで呼び止められたような学生を思わせた。
「そこのお前! 荷物を見せてみろ!」
命令しているのは、やはり黒服の親衛隊だ。睨み付けながら右腕を水平に伸ばし、人差し指をさしてくる。すぐさまライフルを持つ部下の兵士二人が、指先の方向へ猟犬のごとく駆け出した。
東欧ふうの街路で軍靴が、アスファルトの上を走る音をたてて耳にけたたましい。通行する人はあちらこちらにいるものの、みな、何も気づかないそぶりを演じる。
彼と友人の顔から血の気がひいていく。ひざの震えは隠しようもない。
ところが、兵士たちは怯えて立ちすくむ二人の真横を走り抜けていった。
すぐ近くに中年の男性が一人立っていた。よれよれのジャケットを着て背中にリュックをしょっている。猟犬のごとく迫った二人の兵士は、その男性にライフルの銃口を向けた。中年男性は口をポカンと開ける。が、すぐに困った表情となり次にボサボサの髪をいじって芝居じみた笑顔を返した。
「えへ、なんですか? 自衛隊? ああ、自衛軍? じゃなくて国防軍?」
ぼさぼさの髪の下にかけている眼鏡の奥で、目が焦点を定めず兵隊とその周辺を見回す。
よれよれジャケットは、両手を挙げさせられた。その後ろで兵隊がライフルでつつき、歩かせる。黒い制服の前に立たされた。突撃隊の一人がやってきて、中年男性が背中にかけているリュックを剥ぎ取った。中身を調べはじめる。
「へへへ、怪しいものなんかないですよ」
中年男性は黒服に訴えた。しかし黒も緑色もカーキ色も、誰一人聞く耳をもたない。むしろ、機会さえあれば殴りつけるのではないかという空気をみなぎらせていた。
リュックの中身を調べ終えたが、それで終わりではなかった。次に身体検査がはじまる。中年男性は両手を挙げさせられたまま。
よれよれジャケットの内側から一冊の本が出てきた。
突撃隊は黒服へ即座に渡す。その本を手に黒服は、捕らえた男性を上から下まで舐めるように見つめた。それから、パラパラとページをめくる。めくる手がとまり、捕らえた者の顔、眼鏡の奥を面白そうに睨み付けた。
「ふむ、これは、反日主義者が描いた広島原爆をテーマにしている漫画だな?」
「ああ、そうですけど、名作ですよ。今のご時世、闇コミケにでも行かないと手に入りませんからね。読みますか? 貸してあげますけど?」
男性が答えた。黒服は、また、握りこぶしを作り咳払いをする。片方の手にしていた漫画を突撃隊に返した。黒服は再び涼しい顔を男性に向ける。
「ふーむ。対テロ防止法、青少年健全育成法、有害図書指定法、愛国法ならびに特定秘密保護法による現行犯。ここで銃殺にしてもよいが。逮捕勾留する」
「そ、そんな横暴な。国民の権利はどうなるんです? かっこいい将校さん!」
「すでに憲法は改正されて、国民に主権はないのだ。 おい、この反日主義者を連れていけ。マニアのイベントに通い詰めたようなこの汚ならしい服装を見ていると吐き気がしてくる」
一方的に対話を打ち切り、部下へ指示を下す。また、別の突撃隊が二人走ってきて、小銃で武装している兵士たちからよれよれジャケットの男性は引き渡された。この場での銃殺は逃れたようだ。しかし、突撃隊の警棒が濡れたような光沢で輝いている。
突撃隊が黒服へ軍隊式の敬礼をした。
そのとき連行される男性も白い歯を見せて、ふざけて同じように敬礼をしてみせた。ところが、次に両脚をそろえて背筋をぴんとはる。何をやりはじめるのか。右腕を斜め上方へまっすぐ伸ばした。
「ハイル・ヒットラー!」
ナチス式の敬礼で男性は叫ぶ。表情は、このしぐさでからかって凝らしめてやるぞという薄笑いである。
その挑発を受けた黒服将校は、切れ長の目をピクリとも動かさず、ただ冷酷な視線をかえす。
「ふむ、反抗的な態度で私を不愉快にさせたな。やむおえん。逮捕は取り下げる。裁判は面倒だからな。それに代わって医療保護による強制入院としよう。死ぬまで身体拘束の地獄を堪能したまえ」
黒服の下したこの裁定が男性の耳に入ったかどうかは分からない。とにかくもよれよれジャケットの男性は、手や警棒でこづかれたりしながら、手錠をかけられた。遠くへ連れていかれる。だが性懲りもなく笑いながら何度も大声をほとばしらせた。
「ジーク・ハイル! ハハハ、大日本帝国ばんざぁーい! アハハハ、自由なんかクソ食らえ! うひひひー!!」
哄笑と捨てぜりふが、なおもかえってきたところで。黒服は、何も応えずポケットから白いハンカチを出した。自分の鼻と口の周りをふく。次に手袋をはめている手もふきはじめた。視線はトラックの回りに立つ突撃隊へちらっと向いた。
「ふむ、んっホン。これで汚ならしいゴキブリを一匹駆除できたな。われわれ優秀なアーリア系大和民族にあのような異物は必要ない。さて、突撃隊の諸君。手間を取らせて申し訳なかった。ゴミ掃除を続けたまえ」
命令した黒服の口調は、朝の朝礼でつまらない話をする校長とよく似ている。なんの抑揚もない。とにかく、何事もなかったかのように兵士たちは、仕事に戻った。
その光景を終始、嫌でも見物してしまった彼の背筋を汗が流れていた。旧友も顔が青くなるが、彼の肩をたたいてくる。再び目的地を目指し歩きはじめた。
角をまがり兵隊を装う男たちの姿が見えなくなると、彼の友人が大きく深呼吸した。
「やれやれ……ちょっとエネルギーを使ってしまったが、巻き込まれずにすんだ」
「連中にとって、あれが楽園なのだろうな。……は、はは、ははは………」
「おいおい、笑わせようってのかい? ここは、“fantasy of crazy ”のユートピア。俺は慣れていたつもりなんだけどね。へへへ」
二人の膝が震えている。しかし、さっきとは違う。しだいに笑い声があがる。また、立ち止まってしまった。自覚はあるものの、奇妙な笑いがどうにも押さえることができない。
「待ってくれ………少しおさまったよ。あまり、笑い続けると、病院へ連行されてしまうな」
「それでまた笑わせようってのかい? そうだな。このまま道をすすもう」
笑ったあとの二人は、疲れかかった顔を隠すことはできなかった。
※※※
彼は、胸の奥で描き出しながらも、とどめておこうかともしていた思慮を、打ち明けてみた。
「なあ、君はこの東京で、そこまで見通しているんだから………」
「兵器開発に手を貸すなって言いたいんだろ? 正義とか悪とか、どうでもいい、……お金だよ。お金。人間は嘘をつくが、金は嘘をつかない、って誰かが言っていたなぁ……」
返事をと切らせた友人は、ジャンパーのポケットに手を入れて立ち止まってみせた。歩く先の地面を見つめる。そして厭わしい顔で口を動かしはじめた。
「そうか……君はそう感じたのか。もしかしたらそうだろうな……」
前から通りすぎる通行人を一瞥した友人は、話をつけたす。
「動機のよくわからない殺人事件がときどき起きるだろう? 小学校を襲ったとか、繁華街で通行人を次々と刃物で刺したとか。大きな集団感情が、外国人を標的に殺意を溜め込んでいる。それを汲み取り、吸収してしまい、代弁者として殺人事件を起こす。ただし対象は外国人ではない。犯人はいつも言うだろう? “誰でもよかった”と。そうすると、日本という大きな集団の深層心理も、殺意の方向は外国人ではなく本当は、“誰でもいい”のかもしれないな。……そういえばチャップリンの『殺人狂時代』という大昔の映画があった。主人公が最後に残す台詞は、そのことも含めて暗示していたのかもしれない……」
別の街路に入ってしばらく。ここは、商店が並んでいる。といってもシャッターで閉めきられている店舗が目につく。いわゆるシャッター街らしい。しかし、その光景は彼の脳裏でひっかかっていた。過去に見た景観と違う。ある一店は、シャッターの表面に「外国人の店」とペンキで大きく書かれている。シャッターは開いているがガラス窓を割られている別の店舗。割られていなくとも、窓に「外国人」とか「反日」とやはりペンキの文字。「血の共同体を脅かす敵」、「交じると血が濁る」とも。みよがしに、日の丸を掲げている店舗もある。
錆びついたシャッターを下ろしてある一軒の店舗。その前の歩道で、三人の女の子が、地面に腰をおろしていた。手も地面について、エプロンに長いスカート。後ろにまとめた髪。そのまま伸び放題の髪。それで女の子とわかる。けれども、全身の服装は小さな穴もあってほころんだ生地がまとめている。大人の井戸端会議ふうで、身を輪に囲み話し合っていた。一人が前を横切る彼の方を振り返った。子どもの幼い目は、大人の良心のありかを品定めしてやろうとしているかのじっとした眼差しだ。
彼は目をそらしてしまった。友人が耳元にささやいた。
「あれはね、ホームレスの子供だよ。見つめるなよ。物ごいされるから」
そのまま、歩いてまた子供が二人。今度も身を寄せあっていたが、会話はない。同じ姿勢でしゃがみ、遠くを見ている。
手足が細った小さな体躯。着のみ着のままというたたずまい。ひととおりの服は着ているものの、最後に洗濯したのはいつだったのかわからないくらい、ところどころ汚れている。
少女たちは、行き交う通行人を眺めていた。
荒れすさんだ都会の片隅で、季節はずれに咲く小さな野の花が二輪、狂態を演じる風雪の臭いがただよう中で、耐えしのんで咲いている様子を想像させた。
彼はまたそのまま無視して通りすぎるつもりだった。しかし、気になった。どうしても気になる点が脳裏をかすめる。理由は彼自信にも明確に定められない。ついに立ち止まってしまう。
「おい、どうしたんだよ?」
「それが、その……心配なんだよ。というか……」
「まさか、ここで科学者の直感かい?」
「………うむ………」
友人が、からかい半分に問うてきたが、彼の顔色はやはり答えに戸惑っている。少し離れたところで立ち止まり成り行きを熟視した。
小学生の姉妹だろうかと彼は詮索したが、目鼻立ちは異なる。年上のように見える少女はパーカーに半ズボン。被り物はない。もう一人は、飾り気のない長目のワンピースだ。熊だか猫かのぬいぐるみを抱いている。
ワンピースの子は、人慣れしない幼い目であたりを眺めていた。ボンヤリして力のない目。一方、半ズボンの少女は何かを観察でもしているふうで、澄んでいる大きな瞳を定めるように輝かせていた。
そのとき子供たちの前を、高価そうな背広を着こなした初老の紳士が歩いてきた。すると半ズボンの彼女は立ち上がり、背広の男性がすすむ前に飛び出た。小さな肩をこわばらせる。
「あ、あのう……」
自分よりもはるかに背の高い大人へ上目でうかがう。
紳士は、片方の足で踏み付けるように彼女を突き飛ばした。
そのまま女の子は後ろへ倒れてしまう。悲鳴は出さない。しゃがんで見ていたもう一人が表情をひきつらせ、横たわる彼女へ駆け寄った。折り曲げた膝を地面につける。
「サヤちゃん!」
「……う、うう……」
突き飛ばした紳士は二人へ冷笑する。
「ふん! ノラネコめ」
一言吐き捨てた紳士は、なにもなかったように歩き去る。これには見ていた彼も、たまらなく目を釣り上げてしまった。
「あいつ!」
彼は、拳を握りしめ紳士を捕まえようと走りだしかけた。だがすぐに友人が片腕を掴んでくる。
「やめとけよ! よくあることなんだから」
周辺を見渡すと通行人たちはやはり見て見ぬふりである。もう今まで何度も経験しているかのような熟練した無視のふるまい。二人の女の子をわざわざ上手に避けて歩く大人もいる。
そういった通行人の中で、身なりの良い女性が小さな男の子の手を握り、通りの向こうから歩いてきた。母親らしい。もう片方の手には商品の詰まった白いビニール袋を下げていた。買い物帰りだろうか。手をひっぱられる男の子が、路上の孤立して固まる女の子二人へ不思議に思う視線を向ける。
「ママ、あれ……」
男の子は人差し指をのばした。
寄り添うワンピースの子は、蹴飛ばされて倒された女の子をなんとか助けたく涙を流しているところだ。
母親は男の子へ目の端を吊り上げて睨む。握っている手は散歩に連れてきた犬を無理矢理リード線でひっぱるしぐさである。
「見ちゃだめ!」
「でも、あの女の子は、女の子だけど……」
「いいから、黙ってママに付いてきなさい!」
「う、うん……」
そのまま母子も通り過ぎて行くだけである。
横たわる半ズボンの女の子は、背中をアスファルトの地面に着けたままの仰向けである。眉の間にしわを寄せながら目を閉じている。痛いのをこらえている。ワンピースの子は彼女をゆさぶり続けた。
「サヤちゃん! サヤちゃん!」
「ん、んんっ?……」
ようやくまぶたを開いた。周辺をうかがってから、心配しているワンピースの子を見つめ返す。ベッドから起き上がるような振る舞いでゆっくり立ち上がった。唇をむすぶ。意思の強そうな瞳。
ワンピースの少女はまだ目に涙をあふれさせていた。
その彼女の頭を、立ち上がった半ズボンの子はなんでもなかったような顔で、柔らかくなではじめた。
「ごめん、恐かった?」
「……うん……この子と二人きりになると思った……」
「ごめん、ごめん。お腹がすいているだろ? 三人で公園に行ってみようか? アカリちゃん」
「……うん……」
なぐさめをかけた半ズボンの彼女は、ポケットから桜色のハンカチを取り出した。たよりなく返事をして立ちすくむ幼い顔の目尻からこぼれた涙を、丁寧に拭きとってあげる。
ワンピースの子は、涙でしめった唇を噛み締めた。ぬいぐるみを強く抱き締める。とはいえ、まだ頭をなで続けられていたから、険しい顔色は、はにかんだ笑みに変わった。
女の子二人は手をつなぐと冷たい視線の交差する、といっても彼女たちに注目している訳ではない、その街路の遠くへと歩いていく。
またどこからか風がよどむように流れてきた。アスファルトの匂いが混じっている。友人が隣にいることも忘れて静かに少女たちを見送る彼の頬を冷やす。ふいに背中を指がつついてきた。
「おい、いくぞ」
一声がかかり、ひっぱられるようにして昔なじみの後を付いていく。友人によると初めは非正規雇用からはじかれた者が、次に老人や障害者、気づいたときには子供が路上生活するようになっていたという。そして友人はジャンパーの襟をなおしながらつけたした。
「そう遠くないときに、路上で餓死したり病死した死体が日常風景としてあっちこっち転がることにでもなるだろう。他のゴミと一緒に。まあ、悪いものを見たばかりでなんだが、とりあえず俺の研究室へ来いよ」
大学へ向かう彼の重たい足取りが途中で止まった。建物の壁に貼られている大きなポスターを目にとらえる。政府の宣伝省公認が明記されている。この国の首相が、芝居っけたっぷりに遠くを叙情的に眺めている一枚。軍服の男性が観る者へ扇情的に人差し指をつきさしてくる一枚。もしかしたら自分は特別なヒーローに変身できるのではないかと錯覚させる。そしてもう一枚は、読みやすい字体で歌を連ねてあった。
神々すまふ祖国を守ろう。
常に民族の団結があるならば、
占守島から台南まで、
アムール川からカロリン諸島まで。
日本、日本、日本が一番。
東亜のすべての民族に君臨する大日本。
空は少し晴れてきた。西陽がいくつものカーテンとなりその一筋が彼の背中を照りつける。地面に現れた輪郭のはっきりしない自分の影を見つめていると、その人型の闇の奥へと誘い込まれ、底なしに落ちてしまいそうな目眩をおぼえた。たまらず彼はつぶやく。
「……危険なのは日本人だ……」
地面に向かって声を落とした彼は踵を返した。
「ちょっと、どうした? どこへ行く?」
「大学の研究室へは行かない。用事を思い出した。後で連絡するよ」
呼び止める昔なじみへ愛想のない別れの言葉を告げると、彼は遠くの街並みへ姿を消した。
※※※
西空の太陽が側面を黄色に照りつける高層ビル群。
ビルの谷間を通る幅広い車道がある。一両の四輪駆動車が他の車の流れにあわせて緩やかに走っていた。それでも目立ちがちである。
野戦用の車体は深緑色に塗装され、車体の側面に白い星形のマークをつけている。
ハンドルをにぎる色白の男性は、略帽を被り、とくに大きくもない体の、上半身だけをときどき神経質そうに動かす。どこか芝居をしている雰囲気がある。そういったしぐさであるから糊のきいた緑色の軍服がよじれて細かい皺を生む。
「なにをキョロキョロしているのだ?」
後部座席には一人の女性が座っていた。紺色の髪にベレー帽を被せる彼女は、士官の制服をシワもなく着こなしている。左胸に一本の細長い勲章。運転手よりも年下にみえる、その褐色の肌で彩られた顔がいぶかしくなり、つややかな声で尋ねたのである。白人の兵士は、バックミラーを通して、後ろで口をとがらせる女性士官をちらっと見た。いじわるそうに白い歯を見せる。
「いやそれが……どうも、紛争地帯の町ならどこでもありますから。どこかから狙撃されはしないかと……やっと陽はでてきましたが、もうじき暮れますし……建物の影から狙撃なんてことがあったりして」
「それは期待しているのか?」
「大尉殿のご活躍を拝見できればと思いまして……」
「ここは各地方が分裂して内戦となった中国大陸ではないのだぞ」
「ああ失礼。古今東西、独裁政治が崩壊した後に起きるよくあるパターンですからね。この島国もそのうちにと妄想したんです。……第二次大戦の前、三十年代からでしたか? その時代の中国は、各地の軍事指導者が割拠して有力な商人にたかっていたとはいうものの、特に上海では、貧しい暮らしに耐えていた人々がいる一方で、医者に商店経営者などの中間層、ホワイトカラーも人口が増えていたとか。学生の姿も街路でよく見られて、都市の消費文化が発展していたそうです」
「中国の歴史か……袁世凱が死んだ後からだな。北京でも様々な知識人が意見を明らかにできた。儒教などの伝統を再び広めようとした識者。それに反して西欧思想の影響を受けた大学教員に文筆家」
「自由な空気がいくらかあったということでしょうか? 映画産業も生まれて、ファッションは、その時代に流行ったんですよね? ワンピースのチャイナドレス。それなのに、日本が侵略しなければ、もっと商業と文化が伸長して、色んなところで味わいのある国になったかもしれないのに……」
「宗代にまで遡れば、宮崎市定が、“東洋のルネサンス”と呼んでいたが……日本からも“ちょう然”をはじめとする数百人規模の仏僧が民間貿易船に乗って留学していた」
「ええ、貿易船といえば……泉州は貿易で潤い、マルコ・ポーロ、イブン・バトゥータも世界有数の港だと驚いたということです。ふうむ、大尉殿もよくご存じで……」
「この国はどうなるかな? 王国維よりも梁啓超のような歴史観を持つことが人気を得ているようだが」
「変化球ですか? ナショナリズムが目覚めたころの清代末期を例に、日本が時代を逆行していると?」
「康有為の弟子、梁啓超。日本で本を読み漁ったのはいいとして、ダーウィンが認めたこともない社会ダーウィニズムにかぶれてしまったのがいけない。列強が侵略していたころとはいえ。いやだからこそ、歴史の見方がネジ曲がったのだろうな。のちに第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパを視察して考えが変わり、科学万能思想とナショナリズムに対して懐疑的になったが……」
「……どうでしょうか、自分は大尉殿のように聡明ではありませんので、先は読めません」
「ハンドルは任せてあるのだ。渋滞に巻き込まれたくはない。道は読んでくれよ」
会話のしめくくり、褐色の肌が映える端整な女性士官の顔は、蒼い瞳で車の前方を眺めたまま、こともなげに忠告を返した。
しばらく無言が続く。
だが運転手は、数分と持たない。かゆくもないのに片手で首をかいた。この空気にはなじまないらしい。先に口をひらいた。
「……大尉殿……」
「うん?」
「この国は昔、まあまあ居心地はよかったんですけれどね」
「住んでいたことがあるのか?」
「いや、自分は観光旅行だけでした。従兄弟がいわゆる留学みたいなことを。というのもそれは偽装でしてね。“日本の神社やお寺は素晴らしいです。伝統文化を学びたくて”、と偉そうなこと言って本当はアニメが大好きでね。メールとか動画とか音楽を天国にいるような顔で頼んでもいないのに、こっちは中毒になりそうだった……。今はどうしてこうなったのかな? いつクーデターが起きてもおかしくないし。しかも日本の政権は蚊帳の外、四ヶ国の間で分割統治するための密かな政略が練られていたり……地方の退職官僚と名望家を含めた権力闘争。それに疲れて切羽詰まった一部の閣僚は“日本を、復活したEUの飛び地にしろ”だとか。断末魔のあがきというか、落ち方はなんでもありですな」
「うむ、政治家の頭の中はどうすることもできない。我々の役割は決まっているからな」
「すみません。世間話のつもりが、難しくしちまいました。何か面白いことはないですかね?」
「わが軍は無人機や獣型ロボットのほかに、人型ロボットの部隊編成を計画通りにすすめているのは知っているな?」
「ええ、それはもちろん。この国では特にアニメを見てプラモデルを作って、軍事関係の本を読み漁るマニアなんかがよく知っていて、ネットでもはしゃいでます。大尉殿も見てますよね? 基地のイベントでもカメラを手にうじゃうじゃ。それに世間知らずの科学者がヘラヘラと。我々にとっては、仕事を無事すませて家族が待っている故郷へ帰ることを頭に入れなければなりませんからね。放射性物質で汚染された島国への配備となると、生身の兵士であれば士気が衰えますから」
「軍曹はどうなのだ?」
「そう来ましたか。自分ですか? ……やっぱり故郷でのんびり暮らしたいですね。地中海の見えるおだやかな空気のところで、魚介類の料理を食べながらワインを飲むとか」
「地中海か? 出身地はニュージャージーだったな?」
「ええ……」
「北東部といえばエリートの多いところだ。合衆国南部だと“バイブル・ベルト”ととも呼ばれるキリスト教原理主義者の教育で、頭がバカになって人生を棒にふるからな」
「その教育ですが、科学者といえば、一通りの教養を身に付けるとリベラルな方向の知見を持つはずなのに。日本はどうも違うみたいですね。なぜかな?」
「世界の様子が奥深くまでどうなっているか知りたいのではなく、自分の主観内面を大事にするばかりのマニアが多いのも一因だろう。見分ける一つの方法は歴史修正主義者との付き合いがあるのか、騙されているかどうかだろう。それが日本の科学者を見るときのリトマス試験紙となる。ところで、話は戻るが、ロボット部隊の編成の件。私は気がのらないのだ」
「そりゃまた、なぜです?」
「ウイルス戦争でほとんどガラクタになってしまうだろう」
「そのときはどうなるんです?」
「電子部品のない武器で戦う。原始時代へと逆戻り、は極端かな。軍曹、すまない。あの角を曲がってくれ」
「おや、少し遠回りですか?」
「うむ」
四輪駆動車は、片側一車線の車道へ入る。細くゆるやかな曲がりがのびる。運転手は速度を落とした。
「あれ、少し車がありますね。流れてはいますが」
「夕方だからな」
「また何でここへ?」
「このあたりにはまだ少し緑があるのだ。もうじき大きな公園を通る」
汚れた外壁にヒビが目立つ、補修の行き届いていないアパート。放棄され、人の出入りがうかがえない朽ちた木造家屋。ほとんど骨組みだけで、元は何の建物だったのかすら分からない雑草に囲われた姿など、あちらこちらに廃墟の景観をさらしている。建物の影で、あたりを警戒しながら走る野良猫や、切り妻屋根の上を低く飛ぶカラスの群れがときおり視野に入った。誰も訪れない古寺の墓地も車の窓から見える。死者の語らぬ、陰鬱な墓石が並ぶ景色は、唯一この一帯にふさわしく溶け合って見えた。それらの隙間に樹木が立っている。
「古い建物が並んで、なんかせせこましくて、ああ、生まれ住んでいたところに似ているとかですか?」
「……あそこは、もっと汚なかった……」
「……ほう……」
ほんの一瞬だが、寂しそうな目をしてみせた女性士官の反応に、軍曹はそれ以上、無遠慮に口をきく気配をみせなかった。
しばらく、角から飛び出しがないか注意しながらも車を走らせる。速度は控え目に努めた。遠くに緑のしげる一画が見えてくる。
「ああ、あそこですね。ホームレスが集まって配給を受けているところですね。以前は植物をよく管理して、人の出入りも厳しいところだったけど、今は荒れ放題。無法地帯みたいになっていまして、そこで民間団体やらがこっそりと……」
やがて様々な樹木が葉や枝を思いのままにのばす公園の一つの出入口が見えた。朽ちかけたバリケードだけで人影はない。
「軍曹、ちょっと止めてくれ」
「なんですか?」
ブレーキを踏んですぐに停車すると後部のドアが開いた。通常勤務用の軍服をそつなく着ている彼女は、黒のブーツを地面につける。
「大尉殿、中へ入るんですか? まってくださいよ」
ふくらみのある胸の左側に一本ばかりの略勲章を付けている彼女は、座席に置いてある中身の入ったうす茶色の紙袋をつかむ。
「駐車禁止の切符は切られたくないだろう? ここで待っていろ」
「へへ、外交特権がありますので」
「そうかい。無理はしなくていいよ」
「あ、本当に行くんですか? 大尉殿!?」
軍用車から離れていく女士官へ、部下はもう一度声をかけようとした。だが、そこへ後方から日本製の黒塗り高級車が、米軍車の後尾へ近づき止まった。
「ああ、もう。このタイミングで。……これだからラテン系は……上品な容姿をしているのに……」
軍曹は眉をゆがめて、急いでハンドルを切り、後方の黒塗りがなんなく通ってもらうため路肩へ車を寄せた。
すでに公園の中へとはいった女士官は、遊歩道をみつけてその奥へとすすむ。周りは樹木が入り組んでいる。迷い込みをさそう三差路もあり、方向によっては葉が夕影まじりに密度濃くしげるところもある。それが動物とは異なる怖ろしい風情をなしていた。
「魔界入り難しか……」
しだいに耳を澄まさずとも、複数のさわぐ男の声が聞こえはじめた。やがて道の先に平坦な広場が現れた。
※※※
何十人もの男たちが暴れている。広場の中は土煙がのぼる。腕や脚、髪の毛や服など、互いに掴み合い、野犬が獲物を求めて走り回る闘争に等しく、互いに殴る蹴るなどしていた。他の人々は遠巻きに見ているだけである。
罵声が絶え間なく飛び交う。
「こりゃまた派手に、ひどいな」
女士官の後ろで、あきれた声があがる。軍曹であった。あとから急いで駆けつけてきた様子らしく、肩で息をしている。
「食料が行き渡らなかったのか、つまらない理由が発端か。奪い合いのようですね。まるで西部劇の酒場だ。他のところでは静かに並んでいるのを見たことはありますが……」
離れた一角で、老人が途方にくれている。松葉杖、車椅子など、体を思うように動かせない者。そして親子連れが怯えた面持ちに染まり固まっていた。軍曹は略帽を被りなおし、戦場を見ているような警戒心の目となる。
無秩序な群集の怒声が高くも低くも。
三人ほどが、灰色の砂を敷き詰めた地面の上に倒れており、うめき声をあげていた。口や鼻から血を流している者も何人か。どこやらの民間団体のノボリやビラなども地面に散らばり、土埃をたちあげる男たちに踏みつけられていた。
食料を配給していた人らは、止める手立てもないふうで震えている。なかには、自分の恐怖心に耐えかねて薄ら笑いしている初老の女性も一人、二人。
女士官は、そんな光景に興味がないらしい。視線は他へ向いていた。何かを探しているのである。
広場の隅の、大きなイチョウの木を目に止める。
その大木の根元で小さな女の子が二人、身体を寄せあい、しゃがみこんでいた。一人はワンピースを着てぬいぐるみを抱いている。隣のもう一人はパーカーと半ズボンである。着こなしにあまり清潔観はない。
「一見してホームレスの子供ですね」
「………」
軍曹も女士官の注目に合わせていた。軍曹の説明は、女士官の耳に入っていたが、しかし返事はこない。
イチョウの木を急場の避難所とする女の子たちは、大人たちの姿が知性を失っている怪物のように映っているのであろう。入り乱れて戦う怒声が一声あがると、特にワンピースの子は、その大声を耳にするたび、肩をピクッと震わせる。
葉はあるが枯れ枝もつけているイチョウの老木が一本、少女たちを静かに守っているふうだ。
女士官は、口を結んだまま、彼女たちへ近づく。
「まって下さい大尉殿! ここは危険ですよ。我々は銃を持っていないのですから」
軍曹が声をあげて止めようとする。だが彼女は足を止めない。
おさなげな女の子たちは、近づいてくる軍人へすぐに気づいた。二人とも顔色をかえて立ち上がる。ワンピースの子は肩を畏縮させておののく。半ズボンの女の子は、怖がるワンピースの子をかばおうと前に立ち、女の軍人をじっと見つめて迎えた。
「こんにちは、お二人の名前は?」
女士官は、挨拶してみた。
「違うよ! 二人じゃないよ! 三人だもん!」
尋ねられて憮然と返してきたのは、ワンピースの子だ。小鳥が身の危険を察知して仲間に鳴いて知らせるような高い声である。ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めなおす。
「ごめん、気づかなかった。三人だね。これを受け取ってくれるかな?」
すぐに謝った女の軍人は、紙袋から焦げ茶色の紙と銀紙に包まれている四角で平べったいものを一枚取り出した。
「はい、チョコレートだよ」
女軍人はチョコレートを差し出したまま。半ズボンの女の子はその軍人へじっと目をすえる。ワンピースの女の子は、半ズボンの子の背後から顔の半分だけを出しておっかながっているままである。ぬいぐるみを含めて四人とも動かない。
そこへ軍曹が、周辺へ目を配りつつ、女士官の後ろに控えた。彼女が軍用車のときとは違う心積もりを見せた事にため息をつく。
「大尉殿、ここは危険ですって……」
軍曹の再度にわたる忠告に女士官は耳を貸すつもりはまったくない様子だ。彼女は手に持つ板チョコレートを、半ズボンの子と自分の視線が交差する中間点にかかげる。
「信用してくれないかな。私はアメリカ軍の兵隊さんでね。捕まえにきたわけではないよ。大丈夫、毒なんか入ってないよ」
口元に笑みを浮かべた女士官は、チョコレートの包みをやぶってひとかけらを口に入れてみせた。
「ね? わたしも食べてみた」
そしてふたたびお菓子の贈り物を持たせようと差し出す。
半ズボンの子の視線が軍人からチョコレートへ移った。注意深く手をのばし、一角の欠けた板チョコレートをようやく受けとる。
まだ続いている騒乱の暴力的な大声は遠くにまだ聞こえる。
半ズボンの子は、チョコレートを受け取ってみたものの、戸惑いの表情を浮かべた。
「ありがとう、とだけ言えばいいのですか? お金はないから身体を売るしかないのだけれど……」
少女の口から出された声音はしおらしい。しかし、言葉の内容は聞いた大人しだいでは不快になるか、それともよからぬ企みで応じるか。女軍人は肩をすくめてみせた。
「ありがとうだけで充分。お名前は?」
「……サヤ……」
「うしろのワンピースの子は? お友達?」
「この子はアカリといいます。でもこの子は名前を忘れてしまって……だから、わたしが名前をつけました」
「……そうか、はじめましてアカリちゃん……その抱いている子のお名前は?」
女士官は、ワンピースの子にも声をかけてみるが、小さな身体はサヤの後ろへすっかり隠れてしまった。女士官は、紙袋からもう一つ板チョコレートを出し、“守護者”へ手渡すと次に、箱入りキャラメルをつかませた。
様子を見ている軍曹は眉をひそめながら、首を左右にふり、細めた唇から息を吹く。
「やれやれ……」
軍曹の横やりなつぶやきは、女士官の機嫌を損ねた。目角をたてられた軍曹が近寄りがたく口をつぐんで、ようやく彼女は優しい顔へと作り直しサヤたちを眺める。
「この兵隊さんは、私の古い付き合いで……戦友……でもないか。友達だから、気にしないでくれ」
サヤは持っているお菓子を背中にくっついているアカリへ渡す。だが、サヤはまだ警戒心を解いていない。
「軍人さん、会ったこともないので、お名前を聞いていいですか?」
「これは失礼した。わたしの名はルシア、ルシア・リムスキー」
目の前に立つ女性が名乗ると、サヤは、背後で隠れているアカリへまた一つのお菓子を手渡す。
だが突如、遠くから地面を踏む靴の音がいくつもわざとらしく鳴り、女士官たちのところへ近づいてきた。数人の男らの影が女士官たちをにらんでくるではないか。
※※※
「おいおい、どこもかしこも兵隊さんをよく見るが、なんとアメリカ兵かよ!?」
「ガキども、プレゼントをもらったのかあ?」
「ギブ・ミー・チョコレート!? ってか? うひゃひゃっ! いいご身分じゃない?」
「白人の男が一人、女の兵隊さんが一人、おいおい、しかも、見ろよ、べっぴんさんだぜ……」
「うっほっほっ! かわいいお嬢ちゃんも二人」
「ヒヒヒ、メッチャ面白くなりそうじゃん……」
男らのうすら笑う表情から、いかがわしい言葉が次々と投げつけてきた。ダミ声混じりも聞こえるのは、恐がらせようという魂胆が明確にうかがえる。その人数、九人はいる。群れの先頭に立っている男が一歩、女士官へ迫った。高価なサングラスをかけている。開いた襟元にはネックレスが輝く。
「困るなあ~。アメリカ兵さん。ここはうちらのシマなんだよ」
ルシア大尉はゆっくりと振り返る。冷酷に変わった眼光でサングラスの男を睨み返した。一文字にむすんだ口がひらく。
「その風貌だと、おまえがリーダーか?」
「おや、よく分かったな。静かに出てってくんねーか? そうすりゃノープロブレム」
「断る」
「あのなあ、ここは再開発する予定でね。ほら、あいつらも出てもらうことになっている。まあ、普段はショバ代をいただいているが、今日はチト足りないんでね、肉体言語使って教育してやっているところなんだが……あんな風になりたくはないだろう? あ?」
「ほう、あの騒ぎ、お前たちが仕組んだ事なのか? 武器も用意したうえ、ずいぶんと体つきの良いものもいる。着ているものにいくらか金をかけているな。スポンサーからいくら貰っている?」
「ああ、さすが軍人さんだ察しがいいようで……」
「まともな会話は通じないようだな。だが悪知恵はまわりそうかな?」
「おいおい、そうくるのかい? ふざけるなよ? 兵隊さんとケンカしないと思っていたら大間違いだぞ!」
リーダー格は、サングラスのフレームを芝居っけのあるしぐさでいじる。長髪でととのった顔立ちではあるものの歪んだ影を重ねている。不気味に白い歯を見せてきた。
「ガイジンさんは日本語がうまいねー。しかも褐色の美人さんだな」
「だからどうした?」
「そうツンツンするなよ。外人を嫌う奴が多いけど、褐色のお姉ちゃんは健康的で大好きだぜ。平和的にいこうじゃないか。俺は平和主義者でね。積極的平和主義ってやつ。つまりだ、その可哀想な子どもたちを助けてやろうと思ってね。希望あふれる提案だろう?」
「ほほう、それは願ってもないことだ」
「だろう? そこのガキ二人、こっちにゆずってくれねーかなあ。お金持ちがいくらでも払うからって頼まれているんだよ。まだ汚れを知らないクリーミーでスイートな肌がたまらないってね。これもシノギの一つでね」
リーダーの背後で手下らが、ヘラヘラと笑う。そのとき、不意にワンピースの子が、サヤの背後からひょいと顔を出した。
「違うよ! 二人じゃないよ! 三人だもん!」
投げかけあう大人の間へ小さな雷鳴。隙間をついて女の子から怒鳴られたために、リーダーは何の事か理解できず顔を強張らせてしまった。
「チッ! なんだよ。頭のいかれたガキだったのか。まあ、スタイルも顔もいいし、商品価値としては申し分ない」
残忍さを垣間見せたリーダーの物言いで、ルシアの顔つきにすごみが加わる。
「そうか、なあるほど。人身売買によるレイプが目的かな? おまえたちの汗の匂いでもわかるぞ」
「チッ! このアマ、このご時世じゃな、現物が取引しやすいんだよ」
金色と黒を混ぜた髮の男が、リーダーのすぐ後ろに立っている。ここで不揃いな歯を見せた。
「へへへッ、兄貴かまわねえぜ。やっちまおうぜ。こいつら、チャカを持っていねえし。ナメやがって。カタをつけちまおうぜ、ガイジンのねえちゃんというデザートつきだ!」
このとき、軍曹が身構えた。
「おまえたち! 何をしているのか分かっているのか?」
すぐに三人ほどが、声を荒げた軍曹に向かってきらめかせる。
「うざいんだよ! アメ公!」
「正義のヒーローか? われ! そこを動くんじゃねえ!」
「切り刻んでドラム缶に詰め込んで海に沈めるぞ! こらあ!」
ナイフをちらっと見た軍曹の額に汗がふきでる。
「くっ……チンピラめ」
それでも軍曹はこのまま引き下がる訳にはいかないと食い縛った顎の筋肉がピクリと浮く。しかし、ルシア大尉が手の合図でなにもするなと制した。
手を出すことをひかえた米兵らの様子に、チンピラグループの一人が、ガムを噛みながら地面へ痰をとばした。先の金黒の髮とはまた別の男である。
「けっ、親分、めんどい話しはいいからよ。早くカタつけちまおうぜ!」
「そうそう、いいにおいがするなあ。女の子のションベン臭いイイにおいがするなあ」
「おいおい、おまえが興奮してどうするんだよ。これはお客さまへデリバリーする商品なんだぜ」
「楽しい~! メッチャ面白れ~!」
リーダー格が、騒ぎ立てる配下へ片手を挙げて合図を送る。濁った目を煌めかす男たちは、ナイフの他、何人かはバットや鉄パイプを握っている。間合いを詰めてきた。
この緊迫した展開にもかかわらず、ルシア大尉は顔をゆるませた。
「おまえたちがチンピラとはいえ、たわいもない理由から民間人と軍人が衝突する事はよくあることだ。東京のど真ん中の、この公園が、日米開戦の火蓋をきることになるのかな?」
ルシアの挑発にリーダーはサングラスの奥から冷たい目を吊り上げる。
「ほうセンソウいいね。それもかまわないさ………どうせ汚れた国だ……」
虚無な返事を耳にしたルシアは口元に笑みを浮かべた。軍曹の反応は違う。青ざめて後退り、自分の腰に手を伸ばした。あるはずもない拳銃を握ろうとしてしまったのである。
「こ、これはもはや、これはいかん!」
裏返りそうな一声をあげた軍曹は、あわてて公園の出口へと駆け出した。
「おやー? 一人逃げちまったなぁ。ウハハッ!」
「喧嘩に弱そうな顔をしていたからな。ヒヒーッ! 勘があたっちまったよ」
「女みてぇーに、腰を抜かして行ったぜ。ケッ! アメリカ兵が……」
「楽しい~! メッチャ面白れ~!」
無頼漢の群れが、走り去る米兵の後姿へ一斉に罵声のつぶてを浴びせて吹き出した。リーダーだけは、いまだに視界の正面で立ちはだかる女兵士へ眼光をすえたままだ。
「おまえも、あいつと一緒に逃げていいんだぜ。べっぴんの兵隊さん?」
「断る。言っておくが私は兵隊ではない士官だ」
「減らず口が、ふざけるんじゃねえぞ! まあ、いい。じゃ、はじめようか……ショウ・タイム!」
野獣の闘争心が、固まった空気をいっそうはりつめさせる。睨みあう視線と吐き出す息によって数えることのできない多くの糸が無秩序に戦いを求める人間たちの間や、周辺に張り巡らされた。その糸のたった一本でも切れようものなら、飢えた獣が新鮮な餌を食いちぎらんとした。
サヤとアカリが怯えている。野獣の群れから目を離すことのなかったルシアは、ここで肩越しにサヤたちへ視線を移した。ちょっと笑ってみせた。男たちへ見せた冷笑とは違う。
「フッ、すまない。仕事ができてしまった。サヤ、アカリと一緒にその木から離れるな」
「あ、はい、ルシアさん……」
ルシアは、あらためて男たちを蒼い瞳でとらえる。
「あわれで臭いブタの諸君、ご期待に応えてやろう。 フフフ……」
ルシアは、間合いを確かめながら一歩を踏み出す。次にまた一歩。黒光りするブーツを履いた細長い脚で、土埃をたたせぬ静かな歩み。両者に拳銃があれば、頃合いの間合いが定まったところで早撃ちによる決着がついてしまうような歩き方である。ただし、ルシアが握っているのは、拳銃ではなくお菓子の入っている紙袋だ。ともかく、闘いがはじまっているというのに、優美にさえみえる彼女の歩き方は、多くの下劣な視線をその脚に集めてしまった。
ルシアは、手頃な位置に足を止める。チンピラたちとは対照的にしとやかな姿。一見そう見える。
おんな一人が相手なのだ。形勢は圧倒的な有利に見えたと自惚れる男たちは、一瞬の後にも飛び掛かり、望みのままに貪り喰おうと虎視眈々である。
しかし、どうしたことか、脚が前に出ない。一歩すら踏み出すことができない。彼女からの得体の知れぬ殺気を、全身に受けとめてしまった。
「お、おい、なんだよ。お前が行けよ」
「な、なんか、マジ変じゃね?」
「なんだよ、こんなときに、お前こそ行け!」
「たかが女が一人じゃねえか。ここで男を見せなくてどうするよ?」
「もしかして、これヤバくね?」
奇妙な先手の譲り合いが、群れの中で交わされはじめた。彼女から発する異様な気力が闘技場となった空間を支配している。九人もそろっていながら、一人の女戦士へ初めに斬り込む者が現れない。見えない壁でもある感じだ。女士官の中に潜んでいる、ただならぬ武芸を察知したのか、口角をもひきつらせていた。
いつの頃かに刷られたヨーロッパの木版画……シャレコウベの姿となり鎌や剣を手に、次々と殺戮、略奪、強姦、拷問に興じる人間たち。その後ろに立っているのは、冠をかぶった王、法衣をまとい聖典を携えた聖職者、そして金品を飲み込む商売人……。
赤く色づいた太陽は九人の愚連隊と、対する不敵な面構えの女士官へ、墓標のような長い影を地面におとす。
気迫と恐怖の視線が互いに交差し衝突する。
男たちの助平笑いはすでに消えうせていた。一人の男は、ナイフを握る手に汗が滲み出て、耐えられなくなり、もう片方の手に持ちかえる。
女士官の左胸にある略勲章と、肩口に印されたオオカミをかたどる部隊章が、男たちの目に映った。相手の女は若く、華奢で華麗な容姿であるにもかかわらず、彼らのまなこには“本物の狩り”を積み重ねた野生の獣へと写り変わっていた。知性を基盤に測ったというよりも動物の本能からくる直感である。後退しようにも無頼漢のプライドがゆるなさい。
サヤは、立ったままじっと見守る。アカリが身震いし、サヤのパーカーに身体を思いっきりくっつける。
「……サヤちゃん、怖いよ……」
「大丈夫……ここにいれば大丈夫」
口を切り結んでいたサヤが、一声答えた。
冷涼な風が吹いてきた。
ベレー帽をかぶる女戦士の、紺色の髪は、風により柔らかになびく。
群集の騒ぎは遠くの小さな風景音になり、向き合う互いの息づかいまでが、耳に入りそうだ。
ルシア大尉と男九人の動かぬ対決は、長い時間が過ぎていくような錯覚に包まれた。ようやく群れの一人が決意して飛びかからんと前に出た。
「こらあ! 動くなチンピラども!」
そのとき、遠くから大声が飛んできた。まっしぐらに地面を蹴って迫ってくる人影が一人。逃げたと思われていたはずの軍曹だ。アサルト・ライフルをたずさえている。
駆けつけてきた軍曹は、息も荒く、唾を飲み込むなりアサルト・ライフルの銃口を男たちへ向けた。男九人の姿が重ならない位置に立っている。
「ギリギリ間に合った。Freeze! 一歩でも動けば鉛の弾、いや、劣化ウランの弾をお見舞いするぜ。……これ言いたかったんだよな……。とにかく! 今からここは治外法権だ。といってもすでにこの国はいろんな意味で治外法権だがな」
軍曹の勇ましい大声とアサルト・ライフルの銃口は、空気の流れを変えてくれそうだ。ルシアがすでに残りわずかな菓子の入った紙袋を男たちの前へほうりだす。
「弾丸よりもこっちの方がいいだろう? 少しばかりだがデザートはやる。それと……」
ルシアは次にポケットから財布を取り出し、束ねたドル札を見せると、また男たちの前へばらまいた。
「これでおとなしく引き下がれ。だが、この子たちに手を出せば、部下に発砲を命じるぞ」
「おお! 米ドルだ!」
とたんに、下っぱらしい一段貧相な服の一人が、続いて遅れまいと二人が、這いつくばり、紙幣をかき集めはじめた。だが、リーダー格はちらりと地面の紙幣を一瞥するだけで一歩も動かず鼻で笑う。
「へへへ、そんな小遣い程度の金だけじゃな。こちとらメンツってもんがあるんだよ。その褐色の肌がどんな味かやらせてくれねえか? それで手打ちといこうじゃねえか」
刹那、リーダー格の下品な要求と同時にカメラのシャッター音がなった。アサルト・ライフルを構えていたはずの軍曹が、片手で携帯端末を操作している。
「ああ、なんてことだろう! 在日米軍の将校を、脅して金をうばったテロリスト……撮影させてもらったよ。おやおや? しっかりドル紙幣をにぎっていますね? おまえたちの情報は入手したぞお! これで軍のブラック・リストに登録だ。永久におまえたちの記録は保管される。意味は分かるよな?」
軍曹が、謀略の匂いを染み込ませた言葉を浴びせる。続いて女士官が、あらためて怖い形相に作り直した。
「いいか! もしあの子たちにこれから何かあれば、おまえたちがどこにいようと無人機やロボットで必ず探し出して、死んだほうがマシだと思わせてやる。それでよいのだな!?」
「え!? ……あ、ああ、マジか!?……」
「ヒッ! ヒイイ!」
「お、おれ、親分! どうする?」
たたみかけられた途端に、怯えた声をもらしたチンピラたち。軍曹は邪悪な微笑で近づいていく。
「そうそう、ついでだから、そこにお集まりの皆さん、捕まったらね、大西洋のど真ん中に、だぁ~れも知らない大きな船があるんだな。そこは政治犯、テロリスト専用の刑務所でね。そこに収監されるとどうなるかサンプルの写真や動画を見せてやるぞ。これ見ちゃうと一週間は食事が喉を通らなくなり、夜はうなされるぞ。ほら、見てみろよ。まず、大事なところがな、ほらほら……」
間髪を入れずダメ押しを語る軍曹の顔を見つめた男たちは、顔から不健康な汗を吹き出しはじめた。一人が踵を返して走り出す。それを合図に、堰を切ったように一人、また一人と散らばるように逃げていく。最後に残ったリーダーも後退りした。食い縛った歯を見せるだけである。
「クッ! 小娘が! 覚えていろ!」
チンピラのリーダーは言葉を吐き捨てるなり、背中をルシアへ向けて、逃走した。
争いのただ中だったはずの群衆は、放心した顔で遠巻きに静観している。無頼漢が去ったからか、武装しているアメリカ兵が現れたからか。事が収まったらしく、軍曹は肩を落としていた。
「やれやれ、大尉に合わせましたけれど、やりすぎです」
「ふむ、何の画像を見せようとした?」
「ええっと、急いで今用意したのは、地下で流行っているB級ホラー映画の、ああ、もっとスゴいのが……オススメですよ」
軍曹は、疑問をしめした上官に携帯端末の画面を見せようとする。が、ルシアの視線は画面に行かない。
「いや、もういい」
「あれ? 修羅場をいくつも掻い潜った歴戦の勇士が?」
軍曹のコレクションを拒否したルシアは、憮然となって踵を返し、少女たちへ歩みよっていく。
土ぼこりも立てない黒ブーツの静かな一歩を重ねてサヤとアカリの前に立つ。
ルシアは、二人の気が抜けた表情を見下ろした。その眼差しは、二輪の小さな花を愛でるような暖かさに変わっている。次に、片膝を音もなく地面につけて目の高さを少女らに合わせた。
「怖がらせてしまって……許してくれるのならいいけど」
申し訳なさそうなルシアは、サヤの顔を両の平手で挟んでいとしむ。が、ルシアの唇がおどろいように開いた。
「サヤ?……おまえは、もしや……」
少女の顔を挟む両の手はかすかに触れかたを変えた。西の空から陽が射してくる。そして穏やかな風。ルシアの影はサヤの顔にかかり、髮もそよぐ。
ルシアの口元は、微笑を浮かべた。秘密の宝箱を探り当てたときのような笑みがほんの刹那である。そしてポケットから何やら取り出した。
「お菓子のついでだよ。これを持っているといい。防犯ブザーではないよ。日本の警察は死人が出るまで何もしてくれないからね。水に濡れても大丈夫。といっても大切にしまうように。バッテリーは三年はもつ。何かあれば、ここのボタンを押すだけでいい。通話はできなくてもサヤの位置がわかるようになっている」
受け取ってまばたきしたサヤは、小さな装置を、手の中で束の間、見つめるとルシアへかえした。
「ごめんなさい。街には他の子たちもいるので。特別あつかいで、受け取ることはできません……」
「ふむ……そうだな……」
サヤに断られ、ルシアは残念そうに肩をすくめる。すぐに元のポケットへしまった。手もちぶたさでサヤの顔を覗きこむ。
「それでは……ううむ、これならどうだろうか……」
諦めきれないルシアは、ベレー帽を脱ぎサヤの頭へそっとかぶせる。
「……代わりにこれを受け取ってくれないかな?……」
「ルシアさん、これ、大事な帽子では?」
「アメリカは世界一補給物資があるからね」
想わぬ贈り物に、少女は戸惑い頬を赤らめる。近くに立つ軍曹が楽しそうに目じりを下げてきた。唇をすぼめる。今度は残念なため息ではなく軽く口笛を吹く。
「ヒュー! いいなあ、お嬢ちゃん、俺がほしいくらいだぜ。これを断るのは目上に対して失礼というものだぞ」
はずかしげにベレー帽を脱ごうとしたサヤだが、男の兵士を見上げて何かを汲み取るようにためらう。サヤの後ろに立つアカリは、畏怖の眼差しを外国の軍人たちへ向けたまま、自分の髪をいじったりしてうろたえていた。
身を寄せる家もない少女は、褐色の肌つやめく異国の女戦士から、“冠”をさずかった。
「……では。サヤとアカリ、そこのお嬢ちゃんも、いずれまたどこかで……」
別れの挨拶をかけてルシアは、目を細める。
深く透明な蒼色をした女軍人の瞳は、サヤにとって手を伸ばせば、簡単にふれることができそうなところにあった。
が、低い夕陽がサヤの瞳にするどく射し入ってしまう。
逆光の中でルシアが陰の輪郭となって眩しく浮き上がる。そして消えた。ベレー帽をかぶる少女は、目蓋を閉じてしまうが、蒼い瞳をもとめて必死に目をこすり、ふたたびとらえようとして光の中の扉をこじあける。
サヤが見えた視界には、すでに離れていくルシアの背中があった。
二人の兵士は、そのまま公園の出口へと向かう。が、ふと軍曹が一旦止まり子供たちへ振り返った。
「チョコレートを食べ過ぎて鼻血を出すなよ。あと、知らない大人にはついていくなよ」
「……あ……ルシアさん……」
おやごころを思わせる軍曹の声を耳に、サヤは返事をしようとしたが、開きかけた口がとまった。彼女の背中にずっと隠れていたアカリは、手の平を振って見送るが、それでも顔の半分はまだ隠れたままだ。
紅い“残り陽”の中へと遠ざかる、年上の女性の後ろ姿が、影絵となり、名残おしむ目に焼き付いていく。
※※※
遊歩道に入ったとき、唐突に、男が二人、駆け寄ってきた。チンピラグループとは違う装いである。一人は、かっぷくのよい腹にエプロンもかけ無精髭をはやしている。かけているメガネがチカチカと空の色を反射させている。もう一人は痩せていて四十代に見えるが白髪頭。顔はどちらも何かを頭に詰め込み過ぎて神経質な表情を呈していて、腕章をつけている。広場で食糧を配給していた代表者らしい。米兵に迫るなり、まず無精髭が、人とのコミュニケーションが今まで取れていなかった性格を表すように、頼りない口の動きを示す。
「あ、あのさあ、あんたたちアメリカ兵?……戦争反対! 人は皆平等! 暴力で解決するのはよくないぞ。人権があるんだぞ」
ルシアの隣を歩く軍曹が足を止めた。アサルト・ライフルを片手に、文句をたててきた男の胸へ人差し指を鋭く突き立てる。
「さっきの出来事を一部始終見ておきながらの、実に美しい言葉を散りばめたレビュー、ご苦労様です。なにが人権だよ。偉そうな事を旗印にするのなら、足元のことを見て見ぬふりをするなよ!」
言い返してしまった軍曹へ、もう一人の白髪が青白い顔の、瞬きしない目の上がピリピリと痙攣し、眉毛が震える。
「神さまを信じている私のやっていることは正しいんだ! 神さまは人を裁いてはいけないと言っている! 最後は神さまに全てを委ねなければいけない!」
まくしたてて口角泡をとばす白髪頭を前に、軍曹は、後悔した顔へと変わる。
「ああ、しまった……そういうことか。日本もいるんだな。この手の……洪秀全ほどの胆力もないくせに……といっても通じないし。I don't get it! もしかして、お前ら、テロリストかもしれなくもないかなあ? 腹が不自然にでかいぞお! もしかして自爆装置? ああ!? 」
米兵に吠えられた無精髭と白髪が、向けられたライフルの銃口を見つめた。共に後退りし、尻餅をつく。震えはじめた身体を転がすように、おそらく元いた場所、好きなまま夢を見られる縄張りへと逃走した。
「ああ、大尉殿、笑ってないで。やってしまいました。せっかく、ハッピー・エンドになっていたのに。これでか弱い女の子を助けた正義の味方から、狂気の善意を看板にしている民間人を襲った悪魔の在日米兵というバッド・エンド……」
「そう、ボヤくな軍曹」
ひっそりとした樹木の中の遊歩道を、男女の米兵が来た道を逆に車の止めた所へ向かって歩いていく。ライフルの具合を手際よく確かめながら軍曹は、いましめる横目を上官へ向けた。
「それにしても、あの多数を一人で相手にしようとするなんて。ヒヤヒヤしましたよ。胃が痛いです。途中で胃薬買ってくださいね」
「安全装置は解除していたのか?」
「ええ、パニック起こしそうだったから三弾連射モードにしていましたけどね。相手はここが縄張りのギャングですね。自分はアクション映画の格闘技ヒーローにはなれませんし……」
「武器など、必要なかったのだぞ」
「ああ、そうでしたね。大尉は見た目だけは、か弱そうなお姫様みたいなんで、つい私もあの緊迫した空気に飲まれて西部劇気分で……」
「南米から移民した私の気持ちはわからんだろう?」
「いえ、わかりますよ。自分もイタリア移民の子孫ですからね。ムッソリーニやマフィアを連想しますか? できればパスタとチーズ、オリーブ、それとワインにして欲しいです。 ああ、言っておきますけれど先祖はイタリア北部です。南部のラテン系とは違いますからね。遠い親戚はヴェネツィアにいますけれど……」
「……なるほど、それでか……ところで……気づいたか?」
「何がです?」
「いや、何でもない。世の中、人間らしいロボットと、心の腐った人間のどちらが良いかと思ってね」
「はあ?」
「……しかし、うまくかわされてしまった……フフフ……」
ベレー帽のない紫色の髪。褐色の顔は目が忍び笑った。
※※※
声を届けることがかなわずに米兵二人を見送ったサヤは、お菓子をすべて隣に立つアカリへ手渡した。アカリは不思議に見つめ返す。
「お腹すいてないの?」
不安の視線の先でサヤは頭を左右にふった。
「ううん、わたしは食べなくても動けるし。全部あげるね」
「あ? うん、でも……」
「少しずつ食べなよ」
「サヤちゃんは、すっごーいよね。この子と違って歩いたり、おしゃべりできるんだもん。あたしもできたら、サヤちゃんのような……」
「シーーッ! 誰かに聞かれちゃうよ。そんな顔しないで、大丈夫。ずっと一緒にいるから」
ワンピースの友達は、緊張から解放された感激のあまり、もっと話そうとしたがる。が、着るものにベレー帽を加えることになった少女は、なんとか止めることができた。
やや強い風が語り掛けるように吹きつけてきた。
木々の柔らかい小枝はしなり、葉のすれる音が、人間には、まねることができない旋律のように広場へ広がる。そして、心の有り様も、まだそこにいる大人たちには理解するすべはなかった。
老いたイチョウの木から扇形の葉が、いくつも落ちていく。
黄色になりかけの一枚が、風にのり、揺らめきながら落ちてゆき、アカリの小さな肩にとまった。
サヤはポケットからハンカチを一枚取り出した。
アカリにとまる扇形をそっとつかまえると、涙を少し含ませている、開いたさくら色の上に乗せ、ハンカチで包み、丁寧に折りたたむ。
「……これは……わたしの作ったお守りだよ……」
そしてアカリの細やかな手に渡そうとする。
受けとるにも、アカリはぬいぐるみとお菓子で手がいっぱい。どうしようかと、眉じりを下げた。
※※※
数週間後、“彼”は家族と直接再会することもなく、書き上げた論文を大きな旅行鞄へしまい込み、空港へ入る。
“ブラジル行き”と表示された掲示板を、怯えた眼で確かめる。パスポートを出そうとして手帳を落としてしまった。あわてて拾う。広いロビーを雑踏の中、転びそうな歩調で通りぬけた。
大海の晴れた上空を旅客機が飛ぶ。客室の窓際で彼は、外の景色を遠くに見つめる。
手荷物から一冊の本を取り出した。それは日系アメリカ人の理論物理学者が著したもので、未来世界をとく内容だった。拾い読みするようにあちこちのページをひらき、少したつと本を閉じた。
また窓の外を眺める。海と雲しか見えない景色となっていたが、彼の脳裏には旅立つ前のさ迷い見た光景が浮かぶ。
“彼”はつぶやいた。
「……この国は、すでに死んでいる……」
ー了ー
豚となりて楽しまんより、人となりて悲しまん。
――ソクラテス