僕達はその壺を消滅させた。
瞬くと、それは奇妙な形の壺だった。そしてまた瞬くと、それは向かい合う男女の顔だった。
学園祭の出し物をトリックアートにしようと学級委員が提案した時、僕は嫌な予感しかしなかった。お化け屋敷やカフェなど無難なところを想像していただろうクラスメート達の反応を予期していた学級委員は、黒板に一枚の絵を貼りだした。
「大丈夫。描ける奴、いるから」
彼の人差し指は真犯人を突き止めた探偵よろしく確信を持って僕に向けられたのだった。
夕暮れ時の教室はどこか懐かしい気持ちを抱かせたが、陽が暮れきってしまうとそこはにわかに異質の空間となり、心の襞にザワつきを起こさせた。黄ばんで古びた蛍光灯がニスを塗った木製タイルを怪しく鈍く光らせている。
「この絵って書くの難しいの?」
大きな画用紙に下書きを薄く入れている僕に、何人かのクラスメートが聞いてきた。誰でも一度はどこかで目にしたことのあるだろう有名な『ルビンの壺』という絵は、上手い下手を別にすれば少しの訓練で誰でも描けるようになると言いながら掌サイズのそれを簡単に書いてやると、大方が関心しつつ、試そうとしないまま教室を後にしていった。
体よく利用されていると知りながらも自分に任された仕事はきちんとこなそうと、僕は連日トリックアートの教本を片手に何枚かの絵の下書きと色の濃さなどの指示を書いていった。トリックアートの難しいところは、下書きに沿って色塗りをするだけでは失敗に終わってしまうところにある。色の濃淡や丸や四角、線の縮尺まできちんと計算して描き上げていかなければならない。もちろん、高校生の作品に多くを望む人は少ないと理解しているつもりだが、いざ書き上がってみて失敗作だったとしたらクラスメートの非難の目が自分に向けられないとも限らない。僕はそう思って慎重に線を引いていたのだった。
「ここはここの終わりと繋がっていればいいのね?」
気付いたときには松島ヒイロは僕の目の前に広げられた本に顔を寄せていて、一瞬、息が止まるほど驚いた。そんな顔を見られたか心配になったが、彼女は真剣な表情で出口のない迷路の線を確認していた。
「ああ、それでいいと思う」
上の空でそう応えながら、僕は松島ヒイロから視線を外すのを忘れていた。一週間前の放課後、今とまったく同じ状況で唐突に告白したことをこの子は覚えているのだろうか。覚えているならどうして何もなかったようにできるのだろう。曖昧な態度しか取れなかったぼくは彼女にどう接したら良いかわからなかった。
僕の気持ちの混乱などお構いなしに松嶋ヒイロは以前と変わらぬ態度で接してきた。近すぎて、頬に垂れた健康そうな黒髪から微かにシャンプーの匂いが届く。僕はなぜかそれを嗅いではいけない気がした。
「息止めたりしてどうしたの」
見破られて恥ずかしさのあまり顔を背けると僕は気にしていないように訊ねた。
「どうしてわかったの」
「だって、顔、赤いんだもん」
「べつに・・・」
息を止めていたから顔が紅潮していると思われたのなら救われたと思いながら、僕は照れを隠すためにそばに置いておいた鞄から音楽プレーヤーを取り出してそそくさとイヤホンをつけた。
下書きに集中して気づかなかった。すでに教室には僕と松嶋ヒイロ以外に誰もいなかった。僕はその状況を認識すると居たたまれない気持ちになったが、外界をイヤホンで遮断することでなんとかその場をやり過ごそうと考えた。
「ねえ、何聞いているの」
考えとは裏腹に、松嶋ヒイロはさらに近寄ってきた。
「手を休めるなよ」
僕は精一杯の言葉で制したのだが、彼女は聞く耳を持たずイタズラな笑みと共に半ば強引にイヤホンの片方を抜き取った。
「私にも片方、貸して」
松嶋ヒイロは中空に視線を泳がせて流れる音楽に聞き耳を立てた。
「これ、知ってる。結構昔の曲だよね」
微かに顎を上げてリズムを取る彼女の横顔がどういう訳かひどく大人に思えて思わず視線を逸らした。
「私、好きだよ」
「・・・何が?」
「この曲」
無邪気な応答をする同級生を意識してしまう自分に腹立たしくなりながら、僕は気を紛らすためにペンを走らせた。
「もういいだろ、返せよ」
恐るおそるイヤホンを引っ張ると、松嶋ヒイロは耳を押さえて抵抗した。
「もうちょっと。この曲が終わるまで休憩しよ」
彼女はこちらに顔を向けると一瞬、驚いたような顔を見せ、それから僕の背後に回りこんだ。
「何だよ?」
「べつに」
体育座りする僕の後ろで彼女も同じように座った。僕達は背中合わせでイヤホンを通じて繋がっていた。
「ねえ」
「何?」
「ちょっと背中、借して」
返事を待たずに松嶋ヒイロは僕の背中に体を預けてきた。女子高生のリアルな重さはこちらも体重を掛けないとうまく釣り合わない。
「これならお互い、楽チンでしょ」
イタズラそうに言う彼女の言葉の端々が震えているような気がして、僕はひどく動揺した。自分の鼓動が彼女に伝わっているのではないかと気が気ではなかった。
「この曲が終わるまでだぞ」
努めて平静を装ったつもりの返事が面白いほど震えていて、思わず苦笑してしまった。
誰もいない夜の教室。意識している女の子と二人きり。背中合わせに体育座りしている。
「ねえ、何描いているの」
気持ちを落ち着かせるために描いていた小さな絵に彼女は気が付いた。
「何に見える?」
無愛想に訊くと、松嶋ヒイロは一頻り考えた後、お花、と応えた。それは確かにカサブランカのような大きな花びらを広げていた。
「正解。でも、こうすると?」
僕は絵を上下にひっくり返した。
「これってもしかして、私達の今の状況だったり?」
花びらの根元を頭にし、それをイヤホンのコードで繋いでやると彼女はそう応えた。背中合わせで体育座りしている二人のシルエット。
「すごいね」
「別に、簡単な逆さ絵だよ。そういえばと思って書いてみたんだ」
彼女の関心する声が聞けただけで今回押し付けられた僕の仕事が報われた気がして、心が晴れた。
「ねえ、ルビンの壷、書いてみて」
「え、もうそこに大きいのを書いてあるよ」
そう言って僕は奥の方に描いてある特大の絵を指差した。
「いいえ、ここに書いて欲しいの。私達と同じくらいの大きさのやつ。簡単でいいから」
少し怪訝に思いながら僕はカサブランカと反対側にその絵を描いていった。本当にシルエットがわかる程度のラフなものではあったが、誉められてノッていた僕の鉛筆は画用紙の上をまるでアイススケーターのように滑らかに踊った。
「できた」
ちょうど自分の顔が埋まるくらいの大きさの二人の男女の絵を描いた。彼女には言っていないが、片方が松嶋ヒイロで、片方が僕なのは言うまでもない。
「この絵、あなたに似てるわ」
だが、思いも寄らず松嶋ヒイロは絵を見た途端にそう告げた。
「そんなことないと思うよ」
僕は気持ちが見透かされたと思い、ドキドキしながら否定した。
「そうかな? 確かめたいからちょっと寝てみてよ」
「いいよ、そんなの」
「ちょっと見てみたいだけだから」
松嶋ヒイロはそう言って強引に僕を押し倒した。
僕はそこまで似せていないその絵の片方に半信半疑で顔を乗せた。本当にそこまで似ていると思っていなかったのに、どうして彼女はこうまで似ていると言い張るのだろうと思いながら。
「やっぱり似てる」
言ったそばから彼女は自分も横になり、ルビンの壷のもう片方の顔になった。
「どうした?」
もはや平静を保つのも忘れて訊いていた。二人は今にも鼻先が付くくらいの距離に顔を突き合わせている。
イヤホン越しに繋がっていた僕らは、次いで手と手で繋がった。思い切って松嶋ヒイロに目を向けると、彼女は挑むような眼差しで、でも、息苦しそうに顎を上げながらこう告げた。
「私達の間に、ルビンの壷なんて存在しないわ」
こうして僕達は、架空の壷を消滅させていったのだった。