第33章:生還
誰にも言えない先生との秘密の恋に溺れ、夜明け前に何食わぬ顔で自室へと戻ったなるか。かつては夢と挫折の記憶が刻まれた息の詰まる街・広島は、冷たい更生施設のような場所だった。
「そんなのつけられるわけないじゃん。学校の生徒にも、ほら、ほかの誰かにも、すぐにバレちゃうに決まってるでしょ。……それにね」
私はほんの少しだけ声を潜め、熱を帯びた瞳であの人の顔をまっすぐに見上げた。
「せんせから買ってもらったものを、私が身につけてる。それだけで、もう十分すぎるんだから」
私のそのまっすぐすぎる言葉に、先生は少しだけ息を呑み、そして困ったような、愛おしそうな、どうしようもない笑みを浮かべた。
次の瞬間、言葉よりも早く、私たちは互いの体温に引き寄せられるように強く抱きしめ合った。 誰にも言えない秘密の匂いと、少し冷えた夜の空気のなかで、お互いの鼓動が痛いほど重なり合う。ただ息を吸い込むたびに、この人の存在が私のなかに流れ込んできて、胸の奥が甘く、そしてヒリヒリするほど痛かった。
お互いの吐息はいつの間にかひどく湿気を帯びていて、重なり合う体はまるで熱されたバターとチョコレートのようにとろけ合い、芳醇な甘さと熱を放ちながら、ふたつの個体は境界線さえ失って一つの無形物へと溶けていく。
あぁ、これが愛なんだ。
どこか冷めた世界で乾いた生き方しか知らなかった私が、今まで一度も感じたことのない、脳を焦がすような激しい刺激。その圧倒的な温度に身を委ね、私はただ、溺れるように酔いしれていた。
まだ世界が青みがかった夜明け前の冷たい静寂のなか、私は規則正しく寝息を立てる先生の横顔をじっと横目で盗み見た。
このまま時間が止まってしまえばいいのにという微かな未練を、冷たい指先でそっと押し殺しながら、私はベッドから抜け出してスマホの画面をひっそりと点灯させた。あゆみに宛てて、何食わぬ顔でメッセージを打ち込む。
『あゆみ? もう部屋に隼人いない?』
ほんの数秒のタイムラグのあと、画面がぽっと明るくなった。
『なるかありがとう! もういないから戻って大丈夫だよ!』
『じゃぁ、戻るから鍵開けといて!』
『了解!』
よし。私はまるで、終着駅に滑り込んだ新幹線の車内で次の運行に備えるクリーニングスタッフのように、淀みなく、驚くほど手際よく自分の身支度を整えた。乱れた髪を直し、服のシワを払い、昨夜の甘い残香をすべて身体の奥底に閉じ込める。
誰の足音もしない、気だるい朝の廊下を音もなくすり抜け、私は何事もなかったかのような完全無欠の澄ました顔で、元の決められた自分の部屋へと帰還したのだった。
私にとってのかつての広島とは、夢を叶えるためという名目のもとに、息の詰まるような日々の過酷なトレーニングへと自分を追い込むための、まるで冷たい更生施設のような場所だった。
もちろん、明確な目標を胸に、がむしゃらに前だけを見て邁進していた。どんなに理不尽な痛みに耐えかねて心折れそうになっても、どんなに甘い誘惑に流されそうになっても、その道のりの果てに輝くはずの未来を信じていたからこそ、私は足を動かすことができた。
――だけど。
その唯一の光が音もなく絶たれた瞬間、私は灰のようになり、未来へ続くはずの扉は二度と開かないよう完全に閉ざされてしまった。あんなにあんなに執着していたはずの広島という土地にさえ、いつしか言いようのない恐怖心と、触れたくない古傷のような痛みを抱くようになっていた。
もう二度と、あの街には踏み入らない。いや、踏み入れたくない。そう固く誓っていたはずだった。
なのに。
先生と一緒にあの街の空気を吸い、かつて怯えるようにして通り過ぎた懐かしい景色を並んで歩いた。あの場所が持っていたトゲトゲしい痛みの記憶は、いつの間にか、隣から聞こえてくる低く穏やかな笑い声にかき消されて、きれいさっぱりと払拭されていた。
あの苦しかった思い出も、涙にくれた日々さえも、今や先生と塗り替えた温かい記憶のなかに優しく溶けていく。
不器用で、ずるくて、でも愛おしい人とともに巡ったこの広島での旅は、私のなかで、誰にも渡さない一生の宝物へと姿を変えていた。




