03-1.王 朱亞の復讐
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楊充媛を害した罪により冷宮送りとなった王朱亞は、痩せ細っていた。食事も最低限しかとらず、部屋にこもりなにかを呟いている日々が続いていた。
朱亞に仕えていた女官や下女は、朱亞の気がおかしくなってしまったと恐れ、次々に立ち去って行った。今では古くからの付き合いのある女官長しか残っていない。
「……音繰」
朱亞は亡くなった我が子の名を呟き、天井に手を伸ばす。
朱亞を見守っていた女官長の手が止まる。
女官長の目には薄黒く染まった霊の姿が見えていた。日に日におかしくなっていくのは朱亞だけではない。朱亞の傍を離れることができない音繰の霊も同じだった。
「音繰」
朱亞は抱きしめることの叶わない息子の名を呼ぶ。
それに応えるように椅子が自然と倒れ、机がひっくり返った。棚の中身は空中に浮き、そこに音繰がいるのだと主張しているかのような現象が起きた。
心霊現象だ。
それに怯えて辞めて行った女官たちが正しい。
ここは既に手の付けられないことになっている。
「母を許してちょうだい、音繰」
朱亞は霊を抱きしめようとするかのように両腕を伸ばした。
しかし、霊を貫通するだけで触れることすらも叶わなかった。
「音繰……」
朱亞はふらりと立ち上がった。
そして、倒れている家具に視線を向ける。
「若曦、直してちょうだい」
「かしこまりました。昭儀様」
「今日は機嫌が悪いみたいなの。ごめんなさいね。普段はいい子なのに、どうしたのかしら」
朱亞の言葉に力はなかった。
目も虚ろだ。気力も感じられない。
「音繰、散歩に行きましょう」
「なりません。冷宮の外に出てはいけません」
「冷宮? ここは昭儀宮よ。あなたは女官長なのだから、間違えないでちょうだい」
朱亞は正気を失っていた。ここが冷宮であることも、門番には武芸に優れた宦官が見張っていることも忘れている。
「ここは冷宮です。昭儀様」
女官長、若曦は訂正をした。
その言葉は朱亞には届いていない。日課の散歩をしようと部屋から出て行ってしまう朱亞を追いかける若曦のことなど忘れてしまったかのようだ。
「音繰」
朱亞は薄黒い塊と化しつつある霊に話しかける。
既にそれは音繰の面影を失いつつあり、理性もなくなっている。ただ、本能として母親である朱亞の元を離れないだけだ。
離れることができなくなっていた。
既に自力ではどうすることもできなかった。
悪霊化する一歩手前にある。
それに朱亞は気づいていなかった。
「私ね。楊充媛にお話があるの」
朱亞は計画を口にする。
それを若曦が聞いているとも知らず、楽しそうにおしゃべりを始めた。
「大丈夫よ、音繰。あなたを返してもらうだけだもの」
朱亞は笑った。
それが正しいことなのだというかのようだった。
「賢妃様に手伝ってもらえば、きっと、元に戻れるわ」
朱亞は元々賢妃に仕えている女官だった。
皇帝に気に入られ、昭儀の位を与えられたのだ。
「王昭儀様。外出はしないように陛下が言い付けられております」
「これ以上、先には出られません」
門番をしていた宦官に槍を向けられる。
抵抗するのならば殺しても良いと言われているのだ。
それに対し、朱亞は首を傾げた。
「でも、外出をしないと楊充媛に会えないわ」
朱亞は困ってしまった。
槍を向けられてしまっては強引に突破することもできない。
「……音繰?」
朱亞が困っていることに気づいたのだろう。
薄黒い塊と化していた音繰から人の元は思えないほどに長い手が二本現れ、門番の首を絞める。門番の体は空中に浮き、そのまま、音を立てて首の骨が折れてしまった。息をしていないことを確認したかのように長い手は離れ、門番の体は地面に叩きつけられる。
音繰はついに悪霊と化してしまった。
「音繰。母を助けてくれたのね」
「昭儀様! その化け物は危険です! 離れてください!」
「化け物? 酷いことを言うのね」
朱亞は不快そうに言った。
そうすると、また長い手が伸びてくる。狙いは母を不快にさせるすべてのものだ。そこに善悪はない。生きていた頃に親しかった相手など関係はない。
「若曦!」
朱亞は慌てて名を呼んだ。
その名に音繰の長い手が止まることはない。若曦を両手で掴み、宙に浮かす。そして絞め殺すかのような音が響いた。
「昭儀様……!」
若曦は申し訳なさそうな声を出した。
それから、身に付けていた護符に内功を注ぐ。
「う……あ……」
音繰は悲鳴をあげた。
苦しむような声だった。しかし、若曦の護符により結界が張られ、結界に阻まれた両手は光の粒のように蒸発していく。地面に叩きつけられた若曦は朱亞の前に立つ。
「もはや、公子ではありません!」
若曦の言葉を朱亞は受け入れられなかった。
「泣いているの……?」
「危険です!」
「音繰……、母が悪かったわ。あなたを引き留めてしまったから」
朱亞は前に進む。
結界の中に閉じ込められて苦しむ霊に両手を差し出し、結界ごと抱きしめる。
「ようやく、抱きしめてあげれたわね」
朱亞は泣いた。
結界に阻まれて苦しむ霊を我が子だと認識している。その認識は正しくもあり、間違いでもあった。既に音繰の自我は消えており、そこにいるのは苦しんでいる悪霊だけだ。
「音繰」
朱亞は愛おしそうに呼ぶ。
それから、息を大きく吸った。
「さようなら」
朱亞は別れの言葉と共に気功を放つ。
王家は代々玄家に仕える家だ。内功は使えて当たり前だった。




