02-1.過保護な母親
可馨は過保護な母親だった。
自由に動きたい年齢の子涵を充媛宮から外に出さない。散歩の時には過剰なまでに女官や下女を引き連れていく。そうしないと殺されてしまうような気がしてしかたがなかった。
「子涵公子」
可馨は勉学に励む子涵に声をかけた。
書物を書き写す子涵の字は綺麗ではない。しかし、必死になっていることだけは伝わってきた。
「そこは昨日も書いていましたよ」
「父上からやり直しをするように言われたのです」
「そうでしたか。公子は素直ないい子ですね」
可馨は子涵を褒める。
それに対し、子涵は嬉しそうに笑った。
そして再び筆を握り、文章を写しいく。
……なんの本かしら。
可馨は学問に疎い。
楊家の女性の教育は男性を魅了することに特化している。そのために必要な呪術は学んできたものの、文官になるために必要な知識はなかった。
子涵が学んでいるのは儒学の本だった。
本格的に家庭教師がつく前の下準備として知識を入れておくのだ。
……陛下は知的な女性を嫌うものね。
興味はあった。
しかし、それを読むわけにはいかなかった。
……厄介だわ。
知識欲に忠実になるわけにはいかない。
梓豪は四夫人のように利口な人間を嫌っている。政治に口を出されることも、後宮の在り方や一人の女性ばかりを寵愛することに対して、口を出されるのを嫌っていた。
一人の女性だけが寵愛を受けるのは後宮の在り方として間違っている。
後宮は多くの女性が子を孕むための場所だ。
皇帝の血を確実に次の世代につなげるための場所である。
それを梓豪は理解していなかった。
「子涵公子の勉強が終わり次第、散歩に出かけましょうか」
可馨は蘭玲に告げた。
それに対し、蘭玲は頷き、散歩の支度をするために抱き抱えていた雹華を赤子用の寝具に寝かせた。
* * *
「王昭儀にご挨拶を申し上げます」
可馨は散歩の道中で出会った朱亞に頭を下げた。
朱亞の目には可馨は映っておらず、子涵を見つめていた。その眼は朧気であり、息子を亡くした日からまともな睡眠がとれていないのがわかるほどだった。
「子涵公子」
朱亞は震える声で子涵を呼んだ。
子涵は怯えている。
人見知りが激しく、母親である可馨の後ろに隠れてしまった。
「申し訳ございません。公子は人見知りが激しいものでして」
可馨は代わりに返事をした。
それに対し、朱亞はようやく可馨のことを認識したかのような顔をした。憎しみで染まる。今にも絞め殺してしまいそうな顔つきだった。
「……そう」
朱亞は一歩下がった。
この状況で事件を引き起こすのはまずいと判断をしたのだろう。
目撃者がいる中、皇帝の寵妃に手を出せば死罪は免れない。
……完全に正気を失っているわけではないようね。
音繰の霊が見えるというのは、妄言ではないのだろう。
……厄介ね。
朱亞がどのような意図をもって、子涵に声をかけたのかわからない。
朱亞の子涵を見る目には憎しみはなかった。懐かしさと悲しみだけだ。憎しみを向けられているのは母親である可馨だけである。
それに安心を覚えた。
我が子を害することはないだろうと判断してしまった。
「子涵公子」
朱亞は隠れている子涵に声をかける。
その声はやはり震えていた。
伸ばしかけた手を引っ込め、できるだけ穏やかそうに見える笑顔を作る。その笑顔は不気味なものであり、よけいに子涵に恐怖を与えた。
「母君の言うことをよく聞くのですよ」
「……はい」
「返事が出来て素晴らしいですね。兄君を支え、良き補佐官となってください」
朱亞は微笑んだ。
子を失う前は穏やかな気質だった。子を失ってからは狂ったかのように激しい性格を露にするようになった。それが嘘のように穏やかな笑顔だった。
それが不気味でしかたがなかった。
……なにを企んでいる?
可馨は警戒をする。
警戒されていることを朱亞は気づいているだろう。
「本当は、あなたは、音繰公子を支えるはずでした」
朱亞はゆっくりと手を伸ばす。
その手を反射的に叩いてしまった。
「楊充媛、私が公子に害を与えるとでも?」
朱亞は穏やかな口調で問いかける。
まるで眠りに落ちる手前のような口調だった。
その眼には朱亞を止めようとしている音繰の霊の姿さえも映さない。
……音繰公子の霊。
実物を見たのは初めてだ。
霊視の才があるのは知っていた。霊視の才がなければ呪術は扱えない。
しかし、実物を見る機会は少なかった。後宮は女の園だ。女同士の妬みや憎しみが蔓延している場所では恨みは生まれやすい。人の形を成していない恨みの集合体ならば、何度も見たことがあった。
充媛宮に侵入してくる恨みの塊は自力で祓ってきた。
しかし、それを誰かに告げることはしない。
麒麟の加護を持つ子どもたちには恨みの塊は視えない。それを子どもに教えても怯えるだけのことだ。
「与えない証拠はないでしょう。あなたは、私を恨んでいると聞きました」
可馨は勇気を振り絞ったかのような口調で言い返した。
子どもを守るためならば、気弱な女性であっても、手を叩くことくらいはできるのだと周囲に印象付けるためだ。
「後宮の噂を真に受けているの? 子どものようね」
「恐ろしい噂を流したのは、王昭儀でしょう……?」
「ええ。そうよ。私が流したの」
朱亞は簡単に認めた。
後宮で流れている音繰を殺害したのは可馨であるという噂は、やはり、朱亞の手によるものだった。事実ではない噂を信じている女官や下女は少ないだろう。しかし、その噂を利用して寵妃の座から降ろそうとしている妃賓は少なくはない。
それを狙ったのだ。
寵妃の座から引きずり降ろそうとしたのだ。
……無駄なことを。
可馨は笑いを堪えた。朱亞のしていることはすべて無駄だった。




