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魔導士な彼と眷属な彼女の怪異なる日常  作者: なるのるな
彼の話

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8/9

3 帰還する彼

 ◆◆◆



「ハイ、スミマセンデシタ。スベテワタクシガカッテニヤッタコトデス、ハイ」


 とある異世界。


 いわゆる剣と魔法のあるファンタジーな世界観ではあるが、魔法というトンデモパワーやダンジョンなどというふざけた存在があるため、中世ヨーロッパ風を装いながらも、実際には近世であったり、場合によっては現代や近未来の技術・文化レベルじゃね? という世界。


 そんな異世界の片田舎にある街の広場で、一人の男が腰布一枚の状態で正座させられていた。


 顔は腫れあがっており、全身にも青あざや擦り傷が多数見られる状態。酷い。一体誰がこんなことを?


「で? それから?」


 正座の男を取り囲む三つの人影の一つ。腕を組んだままの金髪碧眼の青年が冷たく投げ掛ける。続きを促す。


「ええと……ライエルは妻であるファティナを愛しています。決して浮気なんかしていません。ミーシャに恋文付きの贈り物をしたのは、すべてこの愚かで浅はかなハルの仕業です、はい……」


「え? なに? ちょっと聞こえないんだけど?」


 冷たく響く女の声。先の金髪碧眼の青年の横に立つ、細身ながら筋肉質な赤毛の女からだ。


「ぐ……ラ、ライエルは妻であるファティナを愛していますゥゥッッ! すべては愚かな俺の仕業ですッッ!! すみませんでしたーーッッ!!」


 因果応報、自業自得を我が身で体現した半裸(ほぼ全裸)正座のハルが叫ぶ。腹の底から。


 半裸の男がボコボコにされた上で強制的に謝罪させられている状況だ。当然のように、ハルたちを遠巻きに見やる野次馬たちも集まってきている。


 ただし、すでにヘイウッドが野次馬たちに成り行きを説明しているため、誰一人としてハルを可哀想だと思う者はいない。街の者たちからすれば、ちょっとした余興、見せ物のようなもの。


「ふぅ。ライエルにファティナ。俺が言うのもなんだがその辺で許してやれ。ハルには悪気しかなく、やること為すことの(ことごと)くが中途半端で、ここぞという時にどうでもいい失態を犯すという本当にどうしようもねぇ馬鹿ではあるが……まぁそれでも一応は身内なんだからよ」


 ハルを責め、冷たい態度を取る金髪碧眼の青年と赤毛の女。クラン〝宵の明星〟に属する新婚夫婦のライエルとファティナ。今回のハルの嫌がらせの直接的な被害者たちだ。


 そんな二人に対し、ボスであるヘイウッドが幕引きを促す。


 もっとも、動けないハルを捕まえてボコボコにし、素っ裸にひん剥いた上で広場に引き摺ってきたのは他でもない彼だ。あと、許してやれとは言うが、ハルをフォローしているわけでもない。


 ちなみに、後から駆け付けたライエルが、ハルの粗末な()()なんぞを眺めたくないという理由で腰布を渡し、全裸正座を回避したという流れ。武士の情けか。


「まぁ……俺は別に構いませんけどね。オヤジさんがブチのめしてくれてすっきりしましたし。あと、こいつが馬鹿なのは元々ですしね」


「うーん……私も個人的には構わないんだけど……ミーシャに対してのことはちょっとね。そこはこの馬鹿にちゃんと落とし前を取らせたいんだけど?」


 呆れながらも、幕引きを受け入れようとする二人。ただ、ファティナは自分ではなく、巻き込んだミーシャへの落とし前を望む。


「まぁその、なんだ……お前らにはあまり詳しく言えないんだが、ハルは遠くへ……()へ行くらしくてな。ようするに、これが最後だからと今回の騒動を仕出かしたってわけだ」


 どうしても歯切れが悪くなるヘイウッド。普段の姿を知るライエルたちからすれば、それだけでも事情は察せられるというもの。


「あぁ、つまり〝漂流者(ドリフター)〟絡みってことですか? そういえばこの馬鹿(ハル)もそうでしたね」


「まぁな。おそらくこれ以上は禁忌に触れる。俺たちじゃ理解できん」


「なるほどね。最後だからってことか。まったく、どうしようもなくみみっちいわね」


 ヘイウッドの説明でライエルとファティナは納得する。


 この世界において、異世界から来て去って行く漂流者(ドリフター)なる存在は広く知られている。同時に、別の世界や漂流者(ドリフター)については神の禁忌に触れるため、限られた者しか関与できないというのも常識の範疇となっている。


 むろん、禁忌を畏れず世界の謎に挑まんとする学者や研究者も多いが、認識を逸らされて正確な情報を得ることすらできないのだとか。


 つまるところ、この世界では〝神〟が現世に直接影響を及ぼしており、それらを皆が認識している。


 ハルの生まれ故郷と比べると、神の実在を疑う者は少ない。異世界や異世界人の存在も一般常識として浸透している。


 しかしながら、それでも〝神〟の正体や世界の在り様を知る者はそう多くない。


 ヘイウッドにしても、世界の仕組みや神の正体までは知らない。理解が及ばない。


 あくまで、神使と呼ばれる〝神〟の遣いから指示を受け、僅かばかりの事情を知る現地人というだけ。見た目はそう見えなくとも、神託を授かる聖職者のような扱いだ。


 ちなみに、当事者であるハルも実のところはよく分かっていない。この世界で認知されている〝神〟が、元の世界で意味する〝神〟とはまた別物であるのを知っている程度。彼の理解では、神と言うよりは〝世界の管理者〟〝運営側〟という感覚が近い。


 ただ、神々の正体がどうであれ、彼が生きている世界が現実であるのは間違いない。どれほどフィクション的な設定があろうともだ。


 なにしろ、殴られれば痛い。美味い物を食べれば幸せを感じる。酒を飲めば酔う。くだらない話で騒ぐのも楽しい。美人がいれば思わず目で追ってしまう……そんな〝当たり前〟が彼の目の前にあったのだから。


 ファティナからゴミを見るような冷たい視線を受け、粗末な()()がちょっと()()になってしまうのも含めて。


 ライエルの腰布はいい仕事をした。ハルが更なる無様を晒さずに済んでいる。


「はぁ……ハル、最後だっていうんなら聞きなさい。あんたは勘違いしてたみたいだけど、今のミーシャにライエルへの想いなんてないわ。それどころか、彼女はあんたのことが気になってたっていうのに……。あの子が怒ってるのは、あんたのその無神経さと鈍さによ。あと、どうしようもなくヘタレなところ、人見知りで慎重過ぎるところ、未だに女との距離感が掴めずちょっといい雰囲気になるとすぐにふざけるところもね。それから、決める時は決めるのにどうでもいいところでポカをするところ、他人には嫉妬したり熱くなるくせに自分のことには一歩引いてるところ、飲めもしない酒で悪酔いしてすぐに二日酔いになるところ、目が合うとそっと逸らすところ、軽いボディタッチなのにビビって挙動不審になるところ、笑顔が微妙に気持ち悪いところに……」


「ちょ、ちょっと待て! い、いくらなんでも言い過ぎだろ!? ミーシャというか、もはやお前個人の意見だろそれ! ってか、そもそも俺はミーシャにフラれた側だぞ!? 俺のことが気になってたって今さらなんなんだよ!?」


 ファティナのくどくどとしたダメ出しを受け、流石に反論するハル。


「だからそういうとこよ。フラれたって言い訳してるけど、あんたの方こそ本気じゃなかったくせに。私を含めて、ちょっと仲良くなった子にはすぐに言い寄ってたけどさ。全部フラれる前提だったでしょ? 違う? 結局、あんたは深く付き合わずに済むように、フラれたって事実を盾に女から逃げてただけじゃない。ま、野郎どもとつるんで馬鹿騒ぎはしてたみたいだけどさ」


「……」


 まるで陸揚げされた魚のように、口をぱくぱくとさせたまま二の句が継げない。あっさり撃沈した。まさに図星だ。


 当初はハル自身も気付いていなかったが、今となっては自覚もしている。


 他者と……特に異性と深い関係になるのが怖かった。どうすればいいのかが分からない。それはこの世界へ来る前からのことであり、家庭環境や厨二病的な噛み合わせもあった。


 異世界転移というぶっ飛んだイベントが我が身に起き、色々と状況に流されながら慌ただしく過ごすことになったが……人間関係については未知への恐怖を抱えたまま。


 ハルはいっそ振り切り、軽薄で滑稽な道化役を演じて恐怖を紛らわせた。バランスを取ったつもりでいた。


 結果的には、そのおかげで周囲との関係性が築けたというのも一つの事実。


 彼なりの処世術はそこそこに成果を上げたのだが、それ故に、余計に途中で止められなくなってしまったともいえる。


「おいファティナ。いくら最後でもその辺にしくといてやれ。こいつが馬鹿でヘタレなのは間違いないが……こいつはそれを自覚してる。普段のハルは、自分の弱さに目を背ける〝フリ〟をしてるだけだ。ま、だからこそ大馬鹿なんだが……」


 この世界でのハルの育ての親であり、クランマスターであるヘイウッドがファティマの追求を(たしな)める。


 彼はハルの葛藤や恐れを見透かしており、その上でハルの選択を尊重するという姿勢で接していた。


「もう! マスターはハルを甘やかし過ぎなのよ。こんな風になる前にもっとやりようはあったでしょうに……ミーシャのことだってそうよ。あの子は本気でハルのことを……」


「それ以上は駄目だよファティナ。正直、この馬鹿のことはどうでもいいけど、ミーシャに悪いだろ?」


「ライエル……あー……分かったわよ。それで? マスター、この馬鹿が〝次〟に行くのはいつ頃なの?」


「いや、俺も具体的にいつかは知らん。その辺りはどうなんだハル?」


 自分では上手く隠せていると思ったデリケートでセンシティブな部分をずばりと指摘され、なおかつそれを親代わりの人物に庇われるという……ある種の辱めを受けることになったハル。


「え? ええと……」


 咄嗟には応じられなかった。


〝い、いや、実は俺ももうすぐだと言われただけで、具体的な日時までは聞いてないんだ〟


 そんな言葉をヘイウッドらに発しようとして、思わず間が空いてしまった。


『ハル。元の世界へ戻ってからの注意点をおさらいしておこうか』


 ネロの声が響く。


 視界がいきなり切り替わる。切り替わっていた。


「は?」


 目に眩しいほどの真っ白な空間。そこに黒い点が一つ。長い尻尾をゆらゆらさせる黒猫だ。


 ハルの目には白色とネロの姿しか映らない。目の前にいたヘイウッドたち三人の姿はもちろん、周囲にいた野次馬たちの姿も見えない。今の彼がいるのが街の広場であるはずもない。


 皆がいきなりどこかへ行ったのではなく、ハル自身が別の場所へと強制的に連行された。


 しかも、ヘイウッドにボコボコにされた顔の腫れや痛みも引いている。


 あり得ない事象。


 それらを理解するのに、僅かばかりの時間を要してしまう。


「……ふぅ、せめて別れの挨拶くらいはさせてくれてもよくないか?」


『よく言うよ。散々逃げ回って()()()()を狙ってた癖に』


 呆れたような……いや、実際に心底呆れているネロが零す。


「まぁそれはそれ、これはこれってね。で? 今度こそ、俺は元の世界へ戻されるってわけか?」


 ネロの嫌味をスルーして、あっさりと切り返すハル。彼は元の世界へ戻るのを望んでいない……が、今さらどうにもならないという諦めがある。目の前にある〝現実〟を受け入れている。


『はぁ……じゃあ話を進めるけど……ハルは改めて〝邑山(むらやま)晴桂(はるか)〟として元の世界へ、()()()の日本へ戻ることになる』


「あの時? もしかしてマンションから飛び降りた日に? え? 前にネロは言わなかったっけ? いくら神々といえども()()()()()()()は許可されてないって……」


『前に説明したのは〝同一世界での時間軸の遡及(そきゅう)は許可が下りない〟という話だよ』


 切り返してくるハルに対して、淡々と説明を重ねるネロ。


「は? そ、遡及? ええと……だから同じことじゃないのか?」


『今回のハルの場合は違う。君は実際に元の世界基準で十三年という時間を〝こっち〟で過ごしたけど……そもそも〝こっち〟と〝あっち〟では時間軸を共有していない。多少のタイムラグはあるにせよ、〝元の世界〟で時間は経過していないという扱いになる』


「そ、壮大過ぎてよく分からないな。時間軸を共有してないってなんだよ……」


『単純な話だよ。ネットに接続していないOSすら違う二つのパソコンがあったとして、片方のパソコンにデータを入力したところで、もう片方に自動的にデータが反映されたりはしないでしょ? データを共有化するためには、何らかのアクションを起こさなくちゃならない』


 つらつらと説明するネロ。この世界とハルの元々いた世界は、それぞれがスタンドアローンな状態であり、本来であればお互いがお互いに影響し合うようなことはない。時間の流れすらも違うという話。ただし、それをハルが理解できるかはまた別の話だ。


「あー……? 悪いんだけど、ネットとかOSなんて言葉自体が久しぶり過ぎて余計に分からないんだけど?」


『はぁ……今はそういうモノだと理解しておいてよ。とにかく、君はマンションから飛び降りたあの日のあの時間に戻る。だから、そのままだと地面に激突して死ぬ。つまるところ、自分から踏み出すことを恐れてた癖に、周囲から構ってもらえないことを嘆くという、他責思考強めの被害妄想的な甘ったれたバカなクソガキが本懐を遂げるわけだね』


「は?」


 神使ネロから出て来たのは辛辣な御言葉。と同時に不都合な事実。ハルからすれば、時間軸を共有していない云々の話などどうでもよくなるほどの。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ!? じゃあなにか!? 俺は死ぬために元の世界へ戻されるってことかよ!? ふざけんなッ!!」


〝君はあの日に戻って死ぬから。じゃあね。バイバイ〟……で、済むはずがない。ハルとしては到底納得できない。順当な怒りを覚えるのも無理はない。


『落ち着きなよ。だから、あとは君の選択次第ってことだよ。邑山晴桂に戻ってそのまま死にたいならそれもよし。あの日を生き延び、改めてあっちの世界で邑山晴桂として生きて行くというなら……ちゃんと身を守れってことだよ』


 淡々と語るネロ。選ぶのはお前だと。


「選択次第だぁ!? マンションから飛び降りてる最中のガキにどんな選択肢があるっていうんだよ!?」


 当然に反発するハル。あの日、あの時に戻るということは、まさに紐なしバンジーの最中に戻るということだ。あとは地面に激突するだけの状況。


『ふぅ……だから、今も警戒して使ってるその〝魔法〟で身を守ればいいでしょ? 君が飛び降りたのはマンションの七階だから、ざっくり二十一メートルくらいで、飛び降りてる最中だったから猶予は十から十五メートルってところかな? その()()の高さなら、別にどうとでもなるでしょ?』


 ネロはその金色の瞳を細めながらハルを見やる。厳密には、彼が全身に薄らと纏わせている風の護りの〝魔法〟をだ。


 神使相手になにをしようとも無駄。いかに異世界人であろうとも、神のデバイスの権能に太刀打ちなどできない。


 それらを百も承知の上で、なおもハルは警戒を解かない。身を守るための行動を諦めていない。


「……は? え? ちょ、ちょっと待ってくれよ……え? 俺は元の世界へ戻っても魔法が使えるのか?」


『だからそう言ってるでしょ。この世界と元々の君の世界はまるで違うように見えるけど、世界(宇宙)を構成するパラメータに大した差はないんだよ。数は多くないけど、君が元いた世界にも、この世界の魔法に類似した力を使う者はいるよ』


「……」


 思考に空白が生まれる。思わず絶句してしまうハル。


『そういうわけだから、もし生き延びたいと願うんなら、元の世界へ戻った瞬間から気を付けるんだね。ぼんやりしてるとそのまま死ぬから。じゃあ、そろそろいいかな?』


 ハルの困惑をよそに、ネロは淡々と話を進めようとする。その口振りからは、もう既に最終段階というところだ。


「ま、待て待て待て! 待ってくれ!! ってそれでいいのか!? 俺はこっちの世界じゃ中の上程度の魔導士だが、元の世界換算だと……ええと、なんだ……そ、それなりの兵器クラスの魔法を使えるんだぞ!? そんな奴を野放しにしていいのかよッ!?」


 ハルが思わず口にしたのはそんな心配。今の彼は、元の世界の拳銃などを上回る魔法を使用できる。身体能力を底上げすれば拳でコンクリートを砕くことも可能だし、マンションの七階から飛び降りて無傷でやり過ごすこともできる。


 まさにフィクション的な超人級の挙動もできなくはない。


『別に? あとはハルの好きにすればいいよ。向こうの世界はボクらの管轄じゃないしね。なんて言ったかな……ほら、〝オレtueee〟とか〝無双〟とか? そんなのもできるんじゃないの?』


 神使ネロはハルの心配などまるで気にしていない。あとは勝手にやってくれ。管轄が違うからもうこっちは知らないという、どこぞの公務員的な態度だ。


「いやいやいや! 魔法バンバン使ってオレtueeeなんてしてたら、政府の秘密組織とかに捕まって実験動物扱いされるのが目に見えてるわッ! っていうか、管轄違いってことは、元の世界を管轄するネロみたいな連中もいるんだろうがッ!」


 オレtueeを素直に喜べるほど、ハルは能天気でもない。魔法を使えることよりも、それが露見した場合のリスクが先に立つ。


 そこそこの魔法が使えた程度では、神使ネロをはじめ、どう足掻いても太刀打ちできそうにない神々の存在も知っているのだ。この世界にネロがいるのであれば、元の世界にも同じような連中がいてもおかしくない。


 オレtueeeを満喫すれば、当然にそういう連中に目を付けられるはずだと。


「ふふふ。やっぱりハルってつまらないわね。ま、逆にある意味では面白いけど」


「ッ!?」


 笑いを含んだ軽やかで柔らかい声。


 黒猫の姿をしたネロ以外は、目に痛いほどの真っ白な空間。


 そこに闖入者。


 魔法を身に纏い、全方位を警戒していたハルだったが、まるで気付かなかった。彼の意識をするりと抜けて、いつの間にかすぐ横に一人の女が立っていた。


「……リ、リエルナか。はは……なんだよ、君も〝そっち側〟だったのか?」


 ハルは女を知っていた。顔馴染みであり、淡い恋心を抱いていた相手。なかなか他者に心を開くことができなかった彼が、何故かほっと一息を付ける相手。


 ローズ娼館に属する高級娼婦ではあるが、どういうわけか、彼女が客を取ったという話は誰も聞いたことがないのだとか。更に、彼女の見た目は人族そのものだが、エルフ族のようにその見た目は変わらない。少なくとも、ハルが彼女と知り合った十年前からは一切変わっていない。諸々が謎めいた女性。


「ええそうよ。別に隠してるつもりはなかったんだけど……ごめんね」


 謝罪を口にしながらも、彼女は微笑みを崩さない。


 陽光を弾いて煌めくような金糸の髪。


 宝石を思わせるような深い深い翡翠色の瞳。


 容姿が整った者が多いこの世界においても、なお洗練された目鼻立ち。まるで美術品の如き美貌。


 それでいて表情は穏やかで柔らかい。近寄りがたい冷たい美ではなく、どこか親しみのある美。まるで母のような慈愛の雰囲気も持ち合わせている。


 背丈はハルと同じほどで、その視線は真っ直ぐに彼と交わる。


「……まぁ……俺が許すとか許さないとかの問題でもないし、別に謝ってもらう筋合いもないけどさ。ふぅ……それで? わざわざ別れの挨拶に? これが最後なんだし、抱きしめてキスでもしてくれるとか?」


 驚きを飲み込み、ハルはいつも通りの軽妙な口調で問い掛ける。それは彼のちょっとした意地のようなもの。


「よく言うわ。私のことを〝買った〟のに、まるで手を出せなかったヘタレの癖に……ふふふ。だからこそ、私はハルのことが好きなんだけどね」


「リエルナこそよく言うよ。俺がヘタレて手を出せないを見越してただろうに……」


 ハルは、これが最後とばかりにリエルナを口説いた。店じゃなくて外で会いたいと。恩人であるヘイウッドから盗んだ金を積んで。


 それは断られる前提であり、ヘタレが〝仕方がない〟と諦めるためのヤケクソだったのだが、リエルナはあっさり了承した。彼女には、どうしようもなくヘタレなハルの心情などお見通しだったわけだ。


 案の定、ハルはリエルナとの店の外での一夜を買ったにもかかわらず、なにもできずに終わるというヘナチョコ具合を見せつける。お触りどころか、いざとなれば緊張してお喋りも満足にできませんでしたとさ。


『リエルナ。悪いんだけど、のんびりお話しするほどの時間はないよ? さっさと用件を済ませれば?』


 無粋な黒猫が、見つめ合う二人のお邪魔をする。


「まったく。相変わらず可愛げがないわね、ネロは。人の機微(きび)というか、余白が持つ色気というのが分からないのかしら?」


 呆れたようにネロを見やるリエルナ。そこには、できの悪い生徒を注意する教師のような空気がある。


『ボクがこんな仕様なのはリエルナがそうプログラムしたからでしょ? ボクに文句があるなら、それはそのままブーメランってやつだよ』


「……ネロをプログラム? リエルナが?」


 リエルナのネロへの態度はそれ相応のもの。彼女こそが、この世界の〝神〟の一柱。


「ええ。私はこの世界を管理する〝運営〟の一人であり、ネロの飼い主というところよ。どう? 驚いたかしら?」


 微笑みが深くなる。微妙に胸を張る。ちょっとしたドヤ顔のリエルナ。


「いや、まぁ……急にここへ現れた時点で〝そういう存在〟だろうなって思うし、改めて言われてもそこまでの驚きはないかな?」


 残念ながらと言うべきか、彼女の期待したリアクションは得られなかった模様。


「ふぅ。やっぱりハルはつまらないわねぇ……」


 落第した生徒を見るような目をハルに向けるリエルナ。素直に返答したハルからすれば、どうにも納得のいかない評価だ。


「で? 結局リエルナは、どうしてこのタイミングで出て来たんだよ? 別れの挨拶ってだけじゃないんだろう?」


「あーあ。私としては、もう少しハルとどうでもいい話をしていたかったんだけど……仕方ないわね。時間がないのも事実だし」


 微笑みを絶やさないままにため息を一つ。リエルナがハルとの別れを惜しんでいるのは本当のこと。だが、いつまでもこのままというわけにもいかない。


 彼女は語る。ハルが元の世界へ戻った後のことを。



 ◆◆◆ ◆◆◆



「え? ちょ、ちょっと、どういうことよ邑山君?」


 暗転。沙原の前に展開していた画面が突然真っ暗に。


「はい。映像はここまで」


 当然にそれは邑山の仕業。意図的な所業。


「映像はここまでって……あのとんでもなく綺麗な(ひと)と、一体どういう話をしたのよ!? 続きは!?」


「いや、はじめに言ったでしょ? これはあくまで俺の記憶をそのまま映像化したものだから、見られたくない場面になったら消すって……」


「えーーッ!? それはそうだけど! 気になる気になる! 気ーにーなーるーー!!」 


 ブランコに座りながら、駄々っ子のように両足をバタバタさせる沙原。


「まぁまぁ、内容については説明するから。悪いんだけど、リエルナとの別れの一幕は俺にとって大事な思い出だからさ。見られたくないというか……俺自身も、こういう風に映像で見返したりしたくないんだ」


「うぅぅ……そんなこと言われたら、おねだりできないじゃん」


「いや、だからこれ以上のおねだりは止めてねって話だから」


 分かり易い映像はお終い。この先はハルに……邑山晴桂にとって、誰とも共有したくない大切な思い出というやつだ。立ち入り禁止。お触り厳禁。


「はいはい。分かりましたよ。映像のおねだりはしませんよ。ふー……それで、神様的なリエルナさんと、どういう話になったの?」


 時に感情が乱高下することもあるが、沙原は物分かりのいい子。他人が大事にしているモノを尊重できる子だ。偉い。


「……リエルナからは、こっちに戻ってからの注意点を教えてもらったんだ。あんまり派手に魔法を使ってると、俺が思ってた通り、この世界を管轄とするリエルナの同類……〝運営〟の連中に捕まるってね。リエルナたちと違って、こっちの連中は存在をアピールしたり、大っぴらに介入するわけじゃないらしいけど、常識を逸脱して社会秩序を乱すような真似は許してくれないだろうってさ」


「へぇー……この世界にも管理者みたいな人たちがいるんだ」


「あくまでリエルナの話だけで、俺も実際には知らないけどね」


 オレtueeeには代償があるということ。無闇に力を振りかざせば、より強い力に踏み潰されて終わる。神使ネロはそのことを意図的にハルに伝えなかった。伝えないようにと指示を受けていた。リエルナ(上位存在)から。


 つまるところ、ハルは試されていたというわけだ。元の世界に戻るにあたり、異質な力を持つに相応しい慎重さがあるかを見られていた。


「もう既に信じるとか信じないとかを振り切っちゃってるんだけど……邑山君が異世界で暮らしてて、またこの世界へ戻って来たっていうのは、とりあえずオッケーにしとくよ。それで、結局ボランティア活動はどうしてなの? どういう経緯で?」


 すんなりとは飲み込めない荒唐無稽なフィクション話ではあるが、沙原の疑問はそこへ行き着く。彼女が邑山と関わることになったのも、彼のボランティア活動によるものだからこそ。


「実のところ単純な話なんだ。俺はさ、あの別れの間際に駄目で元々って感じでリエルナにおねだりしたんだ。〝もう一度会いたい。俺はこの世界へ戻って来たい〟ってね」


 それは愛の告白に似たもの。リエルナに向けてだけじゃない。世界への告白。


 邑山晴桂はどうしようもなく〝ハル〟だった。元の世界に戻れる喜びなどない。異世界での生活こそが、彼にとっての現実だと強く感じていたからこそ。


「お、おぉぉーッ! そ、それで!? リエルナさんはなんて言ってたの!?」


「まぁ普通に〝無理〟ってフラれたんだけどね」


「あっさりフラれたんかいィィッッ!! ロマンティックなのをちょっと期待したのに!!」


 沙原の期待は空振る。目の前に邑山が存在する以上、彼の異世界への慕情が届かなかったのは明白なのだが、彼女は少し期待していた模様。


「はは。ま、代替案は出たけどね」


「代替案? え? もしかしてそれがボランティア活動なの?」


「そういうこと。こっちの怪異ってやつは、世界にとっての一種のバグみたいなモノらしくてね。そういうバグを率先して処理したり、社会秩序を乱す存在に対処したりすることで、()()()()ができるんじゃないかって。で、こっちの世界の運営連中の目に留まればもしかしたら……ってさ。ま、それが駄目だったとしても、俺が死んだ時にはリエルナが直々に会い来てくれるらしい。それは約束してくれたよ」


 リエルナから出された可能性。上位存在にアピールして、異世界へ連れて行ってもらうという他力本願なもの。


 ボランティア活動と言いながらも、彼の場合は己の願望に塗れた邪な理由だった。


 もちろん、そんな提案を受けた当時のハルはリエルナに反論した。


〝いや、前みたいに俺をこっちの世界に喚んでくれよ〟と。当然の要求だ。


 そもそも、リエルナなりネロなりが、この世界から人材を引っこ抜いていったのがはじまりなのだ。なら、次も同じように俺を連れ出してくれとハルは願う。


「悪いけどそれは無理よ。私たちもあちこちから人材を引き抜いているけど、そこに私たちの意思が介在する余地はほぼないの。ある一定の条件を満たし、その上で相手側の〝運営〟が〝要らない〟と判断した人しか引き抜けない。ハルのような巻き添えも確かにあるけど、それでも向こうが〝手放さない〟と判断した人はこっちに連れて来ることはできない。そして、今のハルは異世界の魔法を使える。向こうの世界はそんなハルをもう手放さないわ。そもそも、ハルが帰還することになったのは向こうからの要請よ。役に立つ人材になったのなら返せってね」


「はは。引き抜いたり返したり……〝はないちもんめ〟かな? ずいぶんと身勝手な話だ。つまるところ、以前の邑山晴桂は世界からも要らないと判断されてたってわけか。まぁ心当たりがあり過ぎて思い出すだけでむず痒くなるけど」


 世界すら飛び越えるという壮大な〝はないちもんめ〟遊び。その理由や目的、結果については邑山も知らない。流石にリエルナも全てを明かすことはなかった。


 だが、彼女は言った。約束を口にした。


「ハル。もし、あなたが死んだ時には、私が直々に()()に行くから待っていて頂戴。その一点については確約する。私の名に掛けて誓うわ」


「……おっと。そういうことなら、戻ってからすぐに死にたくなるかも?」


「ふふ。あなたはそう簡単には死なないわ。だって、この世界で学んだでしょ? 命を。生きるということを。家族や友を。理不尽に振り回される哀れな人たちの健気で愛しい日々の営みを」


「……」


 リエルナの翡翠の瞳が真っ直ぐにハルを見つめる。


「さぁ、お行きなさい。馬鹿で愚かでどうしようもなくヘタレのくせに恰好を付けたがる……弱く儚く愛しいハル。あなたは元の世界へ戻り、邑山晴桂として生きなさい。理不尽に振り回される人たちの悲しみを払いなさい。力ある者の責務として。そして、精一杯に生きた末に命尽きる時……その時にこそ、また逢いましょう」


「……いや、ここは愚かとかヘタレとかは要らなくない?」


「ふふ。そういうところがつまらないのよ、ハルは」


 微笑みのままに、リエルナはハルの頬に両手を添えてそっと口づけを交わす。


 甘く儚い別れの儀式。


「……また逢おうリエルナ。次に逢う時に備え、俺は死ぬ寸前までちゃんとゴムを持っておくよ」


「お馬鹿なハル。でも、その時を楽しみにしてるわ」


 こうしてハルは帰還する。彼は邑山晴桂へと戻る。



 ◆◆◆

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