1 彷徨う母
◆◆◆
うだるような暑さ。遮る物も見当たらず、あまりにも自己主張が激しい日差しを受けながら、邑山晴桂は歩いていた。田園風景が広がるあぜ道を。
「あのさ、ちょっと聞いてもいい?」
無言でせっせと歩く彼に声が掛かる。横を行く同伴者の少女から。
「……」
彼は無言のまま。応じない。
「おーい。聞こえてますかー?」
てくてくと彼の横を歩きながら、大袈裟な身振り手振りでバタバタとアピールする沙原友希。
「……」
そんな彼女に対して、彼は応じない素振りを貫く。
「ねぇねぇ、おーい、ねぇってばぁー、聞こえてるくせにー、あのさー、えっとさー、どっこいさー♪ どうして聞こえないフリをするのー♪ 私の声はー♪ なぜあなたに届かないのー♪ 分かり合えない二人ー♪ ラララァー♪」
無視を決め込まれたからか、身振り手振りはバージョンアップし、よく分からない歌に合わせた謎な創作ダンス披露する沙原。
無駄に美声な上に、高身長で長い手足というそのスタイルの良さも相まってか、動きのキレまで無駄にいいと来た。
「……あー鬱陶しいなぁ。動きまでうるさいってなんなの?」
「だって~♪ 邑山君が聞こえないフリするからァァァッッ~♪」
「(くっそ……いっそ問答無用で成仏させてやろうかな?)」
暑苦しい動きに折れた彼だったが、なお畳みかけて来る彼女に、薄らと昏い思いを抱くのも無理はないのかも知れない。
「あー! 今イラッとして〝いっそのこと〟とか思ったでしょ? いーけないんだーいけないんだー♪ そういう物騒なこと考えちゃいけないんだー♪」
「ふぅ……沙原さん。短い付き合いだったけど、来世があれば元気でね? それじゃ、今までありがとう」
マスク越しながらも晴れやかな笑みを浮かべ、沙原にそっと右手をかざす邑山。手の平には、暖かくも物騒な気配が漂う。
「ちょ!? ウソウソ! ほんの冗談だって! マジにならないでよ!! あっさり成仏させようとしないでって!」
彼のかざす手から逃れようと、割りと本気で距離を取る彼女。
無駄にクオリティの高い歌と踊りによって、炎天下のあぜ道で〝終わり〟を迎えそうになる関係。越えてはならない一線が、お互いにまだまだ曖昧な様子の二人。
「……で? 一体なんなの?」
じっとりと滲む汗を拭いながら、邑山は改めて反応する。
「はぁ……暑さでイライラするのは分かるけど、洒落にならないのは止めてよね……」
「いや、イライラしたのは暑さじゃなくて沙原さんの存在にだけど?」
真顔で言い切る彼。どうやら、照り付ける太陽の光というのは、人の沸点をかなりの勢いで下げる模様。普段は悪ノリしたりもするが、今回の彼は目が座っている。
「ぐ……ガ、ガンギマリじゃん……わ、悪かったって。ええと……今回の件ってさ、特に具体的な被害もないみたいだし、別に放っておいても問題はないんじゃないかなって思ってさ」
少しばかり早口で、彼女は元々の疑問を投げてみる。
「ふぅ……何度も言ってるけどさ。俺のこのボランティア活動はただの自己満足なんだし、別に沙原さんが無理に付き合う必要なんてないんだよ?」
「うーん……確かに何度も聞いてるけどさ、ちょっと寂しくなるからそんな風に言わないでよ。えっと……ほら、私が邑山君の自己満足に付き合うのは、それこそ私の自己満足ってやつよ。他に行くあてもないし、することだって特にないしさ」
照り付ける日差しの下でも、沙原友希の姿は変わらない。
一目で女子高生と判別できる制服を着用したまま。
ブレザージャケットに白いシャツとネクタイ、チェックのスカートに紺のソックスという出で立ち。
流石に炎天下でのジャケットは暑苦しい見た目だが、それでも暑さで不機嫌な邑山と違い、彼女は表情は涼やかなもの。汗一つ掻いていない。日差しの影響を受けている様子はない。
その気になれば彼女も汗の一つくらいは出るが、逆に言えば、本人が望めば外部の影響をシャットアウトすることもできる。そういう仕様。
彼女はすでに故人であり、境界の向こう側たる異界の住民。そして、〝魔導士〟邑山晴桂の眷属という存在だ。
本人の持ち合わせる感覚や記憶、その常識などは生前と概ね変わらないものの、その存在自体が決定的に〝普通〟から外れてしまっている。
「沙原さんの自己満足か。なるほどね。なら、これ以上は俺も何も言わないでおくよ。で、今回の件だけど……まぁ今回に限らずだけど、特に深い意味なんてないよ。俺のボランティアはなんとなくというか、その場の勢いというか……どこでなにをするかは適当に決めてるだけだしね」
眷属となってから、沙原は求められていないのを承知の上で、邑山のボランティア活動に同行している。今回にしてもそうだ。
彼女からすれば邑山晴桂の活動は謎。彼のその謎な活動によって、沙原自身もある意味では助けられたと言えなくもないが、当初は意味不明でしかなかった。
ほとんど学校にも行かず、真昼間から街をふらつき、時には深夜早朝であったり、泊りがけで遠方に出向くことすらある。
家族からも胡乱な目を向けられ、邑山家において彼は〝いない者〟扱いとなっているほど。
それでも彼はせっせと謎な活動に勤しむという日々を送る。
行動を共にする中で、沙原にも邑山晴桂の行動指針のようなものが薄らと感じられるようになってきたが……それを当人が開示するかはまた別の話だ。
「ふーん、へー、ほー。なんとなく適当にねぇ……ま、邑山君がそう言うんなら、別にいいん・で・す・け・ど・ねッ!」
「……なんなの? その含みがあるちょっと面倒な感じは?」
「えーえー、どうせ私は~♪ 面倒くさい系の女子ですよー♪ ラララァァ~♪」
「(はぁ? マジで面倒なんだけど……? まぁ別にいいけどさ)」
触らぬナントカにナントカカントカ。先ほどとは打って変わって、あきらかに不満を抱えながら歌い踊る彼女に対し、邑山はスルーを決め込む。
沙原が自己満足を口にした以上、自分自身のご機嫌取りはそれこそ当人に任せ、改めて目的地へと歩を進める。
今回二人が……邑山がなんとなくで決めた目的地は、典型的な怪談話の舞台。
ネットの検索でもすぐに出てくるため、知る人ぞ知るをとっくに通り過ぎた、地元以外にも広く知られたとある心霊スポットだ。
◆◆◆
今より少しばかり昔の話。
あるところに、幼い娘と暮らす年若い女性がいました。いわゆるところのシングルマザー家庭。
なにかしらの事情があり、その地に引っ越ししてきたようです。
母は娘に対して時に厳しく接することもありましたが、基本的には大らかで優しく接し、娘もそんな母の愛を一身に受けて育ちます。
また、母である彼女は一人の社会人として働き、当時としては少々珍しくありましたが、社会的な地位にしろ収入にしろ、同年代のサラリーマンと比べると大きく差があったのだとか。
近隣に家族や親戚もいない母一人子一人の状況ではありましたが、特に経済的な不安はなく、どうしても手が足りないところは、それこそお金で解決することもできたようです。
当時の世相からすれば、世間一般の考える普通の家庭とは違うかも知れませんが、母と娘は幸せな家庭を築いていました。
近隣の者らにしても、事情が分かるまでは色眼鏡で母娘を見る人もいたようですが、時間と共にそういう人は減っていきます。
残念ながら、偏見ややっかみを持つくだらない人たちがゼロになることはありませんでしたが……それでも、母と娘は地域に溶け込み過ごすことができました。
幸せな母と娘。
ですが、ある日、そんな〝普通〟が壊れてしまいます。
娘がいなくなったのです。
それは悲しい事故。
仲の良い近隣の人たちと、家族ぐるみで山に出掛けて行った時のこと。
キャンプ場として整備されている地ではあったものの、やはり自然は侮ることができません。
同年代の子らと共に山を散策していたところ、娘だけが消えました。
同伴者の大人たちがいたにもかかわらず、その娘だけが行方不明という状況が発生します。
警察への通報はもちろんのこと、地元の有志一同や消防団にも声が掛かり、大規模な捜索が行われることになりました。
ですが、一向に娘は見つかりません。
残酷にも時は過ぎ、娘が見つからないままに公的な捜索も打ち切られます。
当然、母は諦められません。周囲の人がなにを言おうと聞き入れません。
〝娘は死んでなんかいない。今もどこかで私を待っている。苦しい、寂しい、寒い、早く助けてという娘の声が聞こえる〟
母は娘を捜します。元々あったキャンプ場も閉鎖され、山に立ち入る人もめっきり減りましたが、母には関係ありません。
娘が呼んでいる。あの子を迎えに行かなくては。
そして、いつの間にか母も行方知れず。
近隣の人たちは……当時を詳しく知らない人であっても、皆が口を揃えて言います。
〝あのお母さんは、きっと今でも山で娘を捜している〟と。
◆◆◆
田んぼのあぜ道を過ぎ、山間の木々が日差しを遮る場所へと到達した二人(一人と一体)。
彼らの目の前には、獣道よりは少々上等だろうという程度の登山道がある。その入り口だ。
「ここがその〝心霊スポット〟への道ってわけ?」
未だにご機嫌は麗しくないものの、平常を装い沙原が聞く。
「そうみたい。この登山道の途中にお地蔵さんがあって、その付近では山を彷徨う母の霊が目撃されたり、〝娘はどこ?〟って声が聞こえるとか。ちなみに、そのお地蔵さん自体が、母と娘の鎮魂のために当時の有志一同が建立したなんて話もあるみたいだけど、その真偽も定かじゃないらしい」
乱高下する沙原のご機嫌には付き合わないと決めた邑山だったが、平常のテンションで聞かれればきちんと応じていた。
ただ、彼がつらつらと語った内容はネットで拾った逸話でしかなく、すでに沙原も知っている情報に過ぎない。お互いに場繋ぎの確認程度のこと。
「やっぱり、どこにでもありそうな怪談話って感じだよね。そもそも、本当にその母娘って実在してたの?」
「さぁね。一応、該当する事故は実際にあったらしいけど、本当のところは俺だって知らないよ。今回は人気の心霊スポットの見学がてらという野次馬的なノリだし、実際に霊がいるかの確証もないよ」
「……ふーん」
沙原のご機嫌は下降気味。平常運転もそれほど長く続かない模様。
「とりあえず俺は行くよ。沙原さんは好きにしていいけど?」
「私だって行くよ。待ってても暇なだけだし……邑山君の〝なんとなく〟の結果は確認したいしさ」
「ま、それもご自由にってことで……」
押し掛け同行者を気にせず、邑山は登山道へと足を踏み入れる。
なんとなくの興味で決めたという、ボランティア活動の目的地へと向かう。
◆◆◆ ◆◆◆
「ほらね。やっぱりじゃん。なーにが〝なんとなく〟なんだか」
獣道染みた登山道にて、その場にはまるで不釣り合いな制服姿の女子高生(故人)がぼやく。
『……娘は……どこ? ……誰か……知らない? ……捜して……私が……見つけないと……待ってて……あぁ……どこに……』
虚実混じり合うネット情報にあって、今回は当たり。実の方を引き当てたらしい。
異界の住民。いわゆる幽霊。
木々の間に立つ人影が視える。顔の表情などはゆらゆらと揺らいでおり判別できない。分からない。一昔前の、フィルムカメラの心霊写真のような、どこか抽象的でぼんやりとした人影だ。
長い髪、体型、漏れ聞こえて来る声質とその内容などから、ソレは女性であり、例の母親だろうと思われる。
ネット上の噂通りだ。
なんちゃって登山を開始してからほんの三十分ほどで、邑山と沙原は噂の地蔵尊へと辿り着く。
特におどろおどろしい雰囲気はなく、風雨に曝されている様子はあるものの、地蔵尊は祠で囲われており、誰かしらの手入れが窺える状態。
道中の山道にしても、木々の間から差し込む陽の光は清々しく、空気も澄んでいる。
勾配も特別厳しいわけでもなく、まさに健全な山散歩という風情。
一般的で分かり易い心霊スポットのように、陰鬱で鬱蒼としたナニかを感じさせることもない。
少なくとも、沙原は〝同類〟がいる気配を察知していなかった。もっとも、彼女は別方向から確信はしていたのだが……案の定というところ。
「アレが行方不明の娘を捜す母の霊ってわけか」
「あーあー白々しいなー♪ このやろ〜♪」
彼女は思っていた。のらりくらりと誤魔化していたが、この邑山晴桂は、決め打ちしてここへ来ているのだと。
「……いちいち鬱陶しいなぁ。そりゃ俺だってナニかあると思って来たのは確かだけど、別にネット情報が正しいなんて思ってなかったよ」
「はいはい。そういうことにしときますよっと。それで? あのお母さんをどうするの? アレは……まだ〝怪異〟じゃない気がするけど?」
自身が幽霊的なモノになってからまだ日は浅いものの、沙原にもその程度の判別は付く。
娘を求めて山を彷徨う件の母には、境界を越えて害悪を撒き散らすほどの力はない。まだ。
「え? いや、別にどうもしないけど? 沙原さんが言うようにあの母親はまだ〝怪異〟じゃない。でも、すでに娘への執着しかないみたいだし、まともに意思疎通も無理そうだ。今、下手に俺みたいな〝力ある者〟が接触すれば、その影響で一気に怪異化しかねないよ。今のところ誰かに危害を加えるわけでもないし、当の本人も娘を見つけないまま成仏するなんて望んでないだろうし……ここは放置一択だね」
「はい? えっと……ここまで来たのに放置するだけなの?」
「うん。とりあえずはそうだね」
あっさりとした放置宣言に虚を突かれたのは沙原だ。
彼女は、彼が憐れな母をどうにかするために来たんだと思い込んでいた。照れ隠し的に〝なんとなく〟〝適当に〟という言葉を使っていたのだと。
「えぇぇ……ッ!? じゃ、じゃあなんでここまで来たわけ?」
「? だからなんとなくだって。興味が向いたから来ただけだよ」
〝何度も言ってるよね?〟
そんな内心の思いを声と表情に乗せ、呆れたようにこれまでと同じ内容を繰り返す邑山。ここに来て、ようやく沙原も改める。自身を省みる。
「え? ホ、ホントに興味本位なだけ……? あの憐れなお母さんを助けたりは?」
「そりゃ個人的には可哀想だと思うけど、相手を刺激してしまえば問答無用で成仏だよ。消し飛ばして終わりって感じになる。娘を捜してるだけみたいだし……流石にそれはちょっとね。いや、まぁ、沙原さんがどうしてもあのお母さんの存在を見逃せないっていうなら、俺にも考えがあるけど? あー……眷属として力を持ったからそうなっちゃったのか、それとも元々そういう人だったのか……どっちにしても怖いなぁ……」
話の流れで、沙原が是が非でも成仏(消し飛ばす)を求めているという形に持っていかれる。違う違う。
「べ、別に私だってそんなの求めてないって! 私が言ってるのは、真っ当な意味で〝助ける〟って話だから! 血に飢えた殺人鬼みたいな扱い止めてよね!」
不名誉なレッテルを否定する沙原。鬱陶しい歌と踊りの意趣返しか。邑山にやり返された。
「はいはい。ま、そんな話はどうでもいいとして、俺は次を捜すとするよ。……もちろん、沙原さんがマジにあのお母さん消し飛ばすつもりなら止めるけど?」
「だからそんなことしないってッ! ……ん? 次を捜す?」
「いや、この心霊スポットに母親の霊が実際にいたからね。だったら次かなと……」
「は?」
邑山晴桂の活動は、あくまで彼の興味が向くまま。沙原は少々勘違いしていたが、そのこと自体は彼の本心で間違いない。
ただ、これまで単独で自由気ままに行動していたため、いちいち誰かに自分の行動を説明する機会もなければ、そもそも誰かに聞かれたりもしない
「えっと……改めて聞くんだけど、今回の……その、邑山君の興味の内容ってなに? できればその順番とかも教えてもらいたいんだけど?」
「え? 興味の内容と……順番? そう言われてもなぁ……えぇと、ネットの噂の真偽を確認するのが一番目? で、もしそれが本当だとしたら、どうして母親の霊が娘のもとへに辿り着けないのかってことが二番目の興味って感じになるかな?」
要するに邑山晴桂は、自分の行動について聞かれることに慣れていない。
だからこそのすれ違い。
答えたくない家庭事情などはともかく、彼は沙原から具体的に聞かれれば答える。このボランティア活動については、意図的にしらばっくれていたわけでもなかったとさ。
「へ、へぇ……なるほどねぇ、そういう興味があったんだぁ……ふーん(え? これって私が悪いわけ? 具体的に質問しなかったから? 普通だと思ってたけど勘違いしてた……? 実は邑山君ってコミュ障? い、いや、この場合は私の方こそ?)」
名目としては主と眷属という関係性ではあるが、どうにも以心伝心とはいかない模様。しかも邑山には特に悪気もないと来た。脱力しつつも、沙原が別の意味でイラッとしたのは内緒だ。
「そ、それで? なんでまた邑山君はそんな風に思ったの? その……界隈では、母親の霊が娘のもとに辿り着かないのってそんなにおかしなことなの?」
自身のやり場のないイラつきを一先ず飲み込み、沙原は話を進める。具体的に聞くを心掛けながら。
「曲がりなりにも、今もなお存在を保ててるレベルなら、この母親はおそらく、死んでからしばらくは沙原さんと同じくらいに自我と存在を保っていたはずだよ」
邑山はこの母と娘について、界隈の事情やルールに則って考察していた。
「私と同じくらい?」
「うん。つまり生前と変わらない自我や人格ってやつを有していたと思うし、執着も当然残っていたはず。もし、沙原さんがこの母親の立場だったらどうする?」
ネットの噂を真に受けるとすれば、舞台となったのは今から十五年以上前だ。
たとえ娘への執着が原動力だったとしても、〝力ある者〟の干渉を受けず、十年単位で狭間の異界に留まっているだけでも、この母親には優れた〝素質〟があったと推察できる。
「もちろん、そうなったら娘を捜すよ。飲まず食わずで動けるとなればかなりの広範囲を捜索できるし、なんなら警察署とかで資料を覗き見したりもできるだろうし……」
「あー……ごめん。そっだった。沙原さんは真っ当なタイプじゃなかった」
聞かれたことに答えていた沙原に、唐突に否定が入る。
「は? なに急に? え? 私、今ディスられてる?」
「いや、そうじゃなくて……ええと、沙原さんは実感もなかったと思うけど、強い想いを残して異界に留まった人たちっていうのは、そもそも死んだ場所なんかで目覚めない」
沙原の被害妄想は瞬時に霧散するが、また新たな界隈の情報が叩きつけられた。
「どういうこと? なんの話?」
「この母親であれば、執着のある場所で……死んでしまった娘のそばで目覚めたはずだってことだよ。たとえ当人が知らない場所であっても、異界の住民は己の執着の対象や場所なんかに引っ張られるんだ。どうしてそうなるかまでは分からないし、必ずそうなるとも限らないみたいだけどね。まぁそういう傾向があるって感じかな」
「執着に引っ張られる? ええと……それじゃ私の場合はどうなの?」
沙原が異界の住民となり、その意識を取り戻したのはマンションの屋上。特に執着もない場所。
死んだ場所で目覚めるなら、私の場合はマンションの〝下〟のはず。
そんなことを彼女自身も疑問に思っていた。
「これは俺の勝手な推測だし不快に思うかも知れないけど……沙原さんは〝自分を知る人がいない場所〟に引っ張られたんじゃないかな? たしか、縁も所縁もないマンションを選んだって言ってなかったっけ? だから、その現場にこそ引っ張られた……みたいな?」
「……あぁそういうこと。確かにまだ《《あの時は、私は自分のことしか頭になかった。家族や他人のありがたみなんて実感できてなかったっけ……」
目の前に暗幕が掛けられていく。昏くなる。胸の奥の奥の奥底から、ナニかが込み上げて来そうになる。
沙原友希はソレを明確に自覚している。
発作の予兆。
「(……うん。今はいいよ。大丈夫だから。まだ、もう少しこっちにいさせてよ。うん、うん。ごめんね、いずれお願いするから……今はおとなしくしておいて)」
目を閉じ、自分自身の奥深くに居座るモノと静かに対峙する。宥める。
ソレは〝後悔〟という名をしたナニか。
ソレが溢れ出る時、留めることができなくなった時が、彼女が彼女でいられなくなる時だ。
「大丈夫? 余計な情報だった?」
「……ううん。今の私にとっては、些細なものであっても界隈の情報は大事だから……前に決めたように、邑山君も必要以上に私に気を遣わなくていいよ」
動悸のする胸を抑えつつ、沙原は閉じていた目を開ける。
まだ元には戻らない。
発作の予兆も治まってくれないが、それでも彼女は平気なフリをして見せる。
それは意地。自分の宣言を覆したりしないという、乙女のいぢらしくも固い決意だ。
彼女は邑山晴桂の眷属となり、今しばらくはこの世界に留まる。
そして、邑山を通じて界隈に関わるという選択をした。
〝発作〟程度はコントロールして見せると言い張り、彼はそんな彼女の意思を尊重している。
「話を戻すけど、そういうアレコレが前提にあるから……あの母親は界隈的にはちょっとおかしいんだ」
「娘への狂おしいほどの執着があるはずなのに、あのお母さんは未だに娘を見つけられない。引っ張られていない……どうして? ってわけね」
「そういうこと。ま、一応の目星は付いてるけど、俺の予想が的中してるとしたら、この母親が本格的に〝怪異〟となる前になんとかした方がいい」
邑山は母親が存在しているのを確認した。ならば次。想定の内。ただし、その想定は彼の中でも悪い方の部類だ。
ちなみに彼の中での最良の想定は、この心霊スポット自体がでまかせであり、行方不明の娘も、その娘を捜して彷徨う母もいないというもの。
すでに最良の想定は消えてしまった。
あれこれと考えを組み直しながら、彼は事態に備える。備えようとしていたのだが……。
「それーッ! それだよ! そ・れッ!」
思考は中断を余儀なくされる。すぐ横で沙原が指をさす。ビシッという効果音が付きそうなほどに彼に突き付ける。これこれ、そうやって人を指さしてはいけませんよ。
「え?」
「私が知りたいのはさ! そ・れ! 邑山君の〝一応の目星〟とか〝なんとかする方がいい〟ってやつの中身だよ! 中身! そーいうのをさ! ちゃんと共有したいって言ってるんだよ! どぅーゆーあんだすたん!?」
彼女は訴える。
〝このコミュ障が! ちゃんと説明しろよ!〟というのを多少言い換えつつ。
「はい?」
もっとも、彼の方はあまり分かっていない様子だが……。
◆◆◆




