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彼女と天使とバレエ+巡礼  ーl'avenirー

彼女と天使とバレエ+巡礼のスピンオフ作品です。

物語は七章の翌年の夏休みからスタートします。

     挿絵(By みてみん)

 

 八月の午後。立秋を過ぎて暦の上では秋の日曜日。


 私の家では一か月振りにスペイン語のレッスンがおこなわれていた。レッスンだけではなく、こうして顔を合わせて会話をすること自体が久しぶりだった。


「……あのさ……」


「なんでしょう?」


 勉強の合間に結翔が遠慮がちに口を開く。


「その……外出しないか?」


「わっ、嬉しい! 駅前のシャボンですか? 丁度食材の買い出しをしたかったんです!」


「……そうきたか……」


 腕を組んで考え込む結翔。私の提案が不適切だったのか、表情は深刻で本気で悩んでいるように見えた。彼は忙しい身の上なのだから、私の都合を優先してしまったことで気分を害したのかもしれない。


 それならば……。


「じゃ、じゃあ、100円ショップへいきますか? そろそろ資料室の備品が在庫切れですよね?」


 結翔はMOROYAの資料室でアルバイトをしている。そこでごく稀に訪れる社員に飲み物を提供すると好評で、駅前の100円ショップに出向いては、カップやマドラーなどの備品を調達していた。


 結翔は多忙な時間を割いて勉強も教えてくれる。昨年の夏には軽井沢の別荘で合宿を開いてくれたし、その後もメッセージでの質問に対応してくれている。昨年末には塔ノ森家での勉強会など、フォローも欠かさない。万全の体制に感謝するばかりだ。


「あっ、そういえばティーバックのお茶が安くなってました!」


 自分も彼の役に立ちたい。その一心だった。


「……」


 一瞬、結翔は弾かれたように顔を上げた後、今度は頭を抱えて深くため息を吐いた。


 私の我儘が原因ではなさそうだが、彼は何を思い悩んでいるのか。自分に出来ることは見守ることくらい。


「……ごめん……俺の責任だ……沙羅ちゃんの発想が駅前に集約している……」


「あ、あの……どうかしました?」


 結翔が私について何か責任を感じている。彼は一人で抱え込む傾向があるが、今度は何を悩んでいるのか。私には全く理解出来ない。


「……その、外出と聞いて、食材とか100均とか……それだけってのが、やっぱ俺のせいかなって……外出というより遠出をしないか?」


 昨年の夏に結翔は舞花から厳しいダメ出しを受けている。それが今になって功を奏したということか。だが今まで彼はその手のことを気にしないタイプだった。


「あ、その……大学の仲間がさ、彼女から夏休みに旅行に連れていけとせがまれたとか聞かされて……一人や二人じゃない。なのに沙羅ちゃんは現状に慣れきってて……その……危機感というか……」


 マイペースな結翔も学友に触発されたということか。だが危機感とはなんのことだろう。


 食材調達も100円ショップも私には何の不満もない。時間があればカフェに立ち寄れるし。こうして一緒に勉強するだけ十分に楽しいのに。

 

 だが結翔は一人反省会に没頭していて、レッスンは散々のまま終了した。


 

 その日の夜のことだった。


 就寝の少し前に私は浴室へと向かう。暑い日でもシャワーだけではなく浴槽につかりたい。湯を張りながら爽やかな柑橘系の入浴剤を選んだ。


 浴槽で体を伸ばしつつ一日を振り返る。


 スペイン語のレッスンが久しぶりだったのは結翔の所為だけではない。私自身もバレエや学業の問題で多忙だったのだ。


 結翔は三歳年上だから責任を感じるのかもしれない。そういえば、男の人は女性をリードしたいものだと、誰かが言っていた。やや浮世離れした結翔にもそんな感情があるとすれば意外だと思う。


 入浴後は自室で髪を乾かす。ミルクティ色の髪が痛まないように、ドライヤーで丁寧に風を送り続けた。


 長髪だからそれなりに時間がかかり、ようやく寝台に入ろうとしたときスマホが振動した。


「……今晩は、夜遅くに悪い。今いいかな?」


 電話は結翔からのものだった。


「はい!」


 今いいかと言われても返事は決まっている。


「あっ、あのさ……昼間の話の続きなんだけど……長瀞へいかない?」


長瀞ながとろ?」


「そう。長瀞。栃木県にあるんだ。河原でバーベキューをしたり、水遊びも出来る。景色もいいぞ?」


 バーベキューは子供の頃に、近所の人達と一緒に公園でした記憶がある。確かに楽しかったが、それを栃木県へまでいってするという。結翔がそれほどバーベキュー好きとは知らなかった。


「タープやバーベキューの道具は俺が調達する。肉や野菜は現地で買ってもいい。水遊びや川下りも出来る」


 タープというのは日除けの道具で、その下でバーベキューをするという。


「わっ! 楽しそうですね!」


「おう! 絶対に楽しいから!」


 完璧な長瀞アピールに引き込まれる私。結翔は旅行会社の依頼で巡礼の体験談の講演をしている。受講者が旅行会社に巡礼ツアーを申し込むと彼の歩合となるのだが、このトーク力なら彼の業績は良好だろう。


「紬も一緒だ。舞花と未来も」


「わっ、嬉しい!」


 バーベキューは人数が多いほど楽しい。一緒に支度をして、肉や野菜を焼きながら食べ頃を見図る。何より親しい人と食卓を共に出来ることが嬉しい。


「どう? 一緒にいこうよ!」


「はい!」


 こうして長瀞への日帰り旅行が決定したのだった。


 寝台に体を横たえながらスマホをタップすると、河原で憩う人々の画像が現れた。


 家族連れに男女のグループ、恋人同士。水遊びをする子供達に、焼き立ての肉を頬張る青年。


 自然の中で食事をすれば絶対に美味しいに違いない。幼い未来にとってもいい経験になるだろう。


 結翔からの積極的なオファーは想定外の出来事だった。舞花や学友に触発されて彼も成長したということか。


(いけない……)


 期待のあまりスクロールの指が止まらない。今日はここまでにして明日改めて結翔に連絡をしよう。


 質の良い睡眠の為にはリラックスしなくてはと、音響機材のスイッチを入れる。


 就寝前の音楽は安眠のコツ。


 ライモンダの夢の場の旋律が流れる。ヒロインが戦場に旅立った婚約者に夢で再会する幻想的な場面だ。ロシアの作曲家による調べが甘く優しい。


 駅前であろうと栃木であろうと、歩み寄る結翔の姿勢が嬉しかった。


 幸福感を噛みしめつつ、私は眠りへと落ちていくのだった。




 ※ライモンダ


 マリウス・プティパ振付による全三幕四場のバレエ作品です。

 作曲家はアレクサンドル・グラズノフ。

 初演は1909年。


 ライモンダと十字軍に出征したジャンが主役で、貴族同士の恋物語に相応しい豪華絢爛たる舞台が魅力です。


ここまでお読みいただきありがとうございました

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