↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/5

第5話:冒涜のメス

『潜入:静寂の霊安室』


月が雲に隠れ、王都ルミナーレが深い闇に沈む頃、三つの影がルミナ統一教会の裏手に集った。昼間の荘厳さとは打って変わり、夜の教会は近寄りがたいほどの静寂と威圧感を放っている。


「……警備の交代まで、あと半刻(約一時間)。巡回は二人一組、この裏口を通るのは一回きりだ。チャンスはその直後しかない」

ベンが、壁の闇に溶け込みながら囁く。その手には、自作と思しき数本の針金が握られていた。彼は音もなく霊安室の古い錠前にそれを差し込むと、神経を集中させ、内部の構造を探り始めた。カチリ、と微かな金属音が響き、重い扉がわずかに開く。その手際の良さは、彼がくぐり抜けてきた修羅場の数を物語っていた。


リュークとエリーゼは、息を殺してその様子を見守る。エリーゼは、薬学研究室から持ち出したメスやピンセット、そしていくつかの薬品が入った革のポーチを、胸に抱きしめていた。その顔は緊張で青白かったが、瞳の奥には恐怖に打ち勝つ強い意志が灯っている。


「――開いた。五分だ。五分で全てを終わらせるぜ、旦那」

ベンの合図で、三人は滑るように霊安室の中へと侵入した。ひやりとした空気が肌を刺し、防腐効果のある薬草と死の匂いが混じり合った、独特の香りが鼻をつく。

部屋の中央には、白い布を被せられた台が一つ。その上に、グレゴリー・フォン・アッシェンバッハ男爵は静かに横たわっていた。


『解剖:法医学者の聖域』


「ベンは外で見張りを。どんな些細な変化でもいい、すぐに知らせてくれ」

「任せな」

ベンが再び闇に溶け、リュークはエリーゼと共に遺体へと向き直った。ランタンの灯りを最小限に絞り、白い布をゆっくりと捲る。現れた男爵の顔は、安らかとは程遠い、苦悶の表情を浮かべたままだった。


「……始めるぞ」

リュークの声は、揺るぎないほどに落ち着いていた。彼はエリーゼからメスを受け取ると、その冷たい感触を確かめるように一瞬だけ握りしめる。それは、法医学者・田中雄一であった頃の、彼の身体の一部とも言える道具だった。

この世界では『冒涜』とされる行為。だが、リュークにとって、これから始まるのは死者との『対話』であり、真実を求めるための神聖な儀式に他ならなかった。


「エリーゼ、胃の内容物を採取するためのガラス瓶と、触媒反応を調べるための試薬を準備してくれ」

「は、はい!」

エリーゼは緊張で震える指を叱咤し、手早く準備を整える。リュークの淀みない動きと、遺体に対する敬意さえ感じられる真摯な態度に、彼女はいつしか恐怖を忘れ、引き込まれていた。


リュークのメスが、躊躇なく男爵の腹部を切り開いていく。最小限の切開で、的確に胃へと到達する。その手付きは、まるで熟練の外科医のようだった。彼はピンセットを使い、胃の内容物を慎重にガラス瓶へと移していく。


(ワインの残留物、そして消化されかかった晩餐会の食事……間違いない、月雫草の成分が残留している)


リュークの脳裏で、前世の知識とこの世界の植物学が結びつき、解析が進んでいく。そして、彼は胃の粘膜に、微かな黒い粒子が付着しているのを発見した。


「エリーゼ、例の試薬を」

リュークは黒い粒子を慎重に採取し、別のガラス皿に移した。エリーゼが差し出した無色透明の液体を、その上から一滴だけ垂らす。


次の瞬間、二人は息を呑んだ。


液体に触れた黒い粒子が、一瞬にして鮮やかな『紅』に変化したのだ。


「……間違いない。これが『イグニスの涙』。これが、男爵が服用していた月雫草と反応し、猛毒を生成したんだ」

それは、揺るがすことのできない『物証』だった。偽りの神託を覆す、唯一にして絶対の真実。


「やった……」

安堵の息を漏らしたエリーゼ。だが、その声は、扉の外から聞こえた硬い音にかき消された。


――コツン。


遠くから響く、靴音。そして、衛兵たちの話し声。

巡回の兵士が、予定より早く戻ってきたのだ。


『脱出:一秒の攻防』


「まずい、しまえ!」

リュークは叫ぶと同時に、切開した腹部を素早く縫合し、遺体に布を被せた。エリーゼはパニックになりながらも、器具と証拠の瓶を革ポーチに叩き込む。

「旦那、裏だ! こっちへ!」

外で待っていたベンが、切羽詰まった声で手招きをする。霊安室の裏手には、小さな窓が一つだけあった。

リュークはエリーゼの背中を押し、窓から外へ脱出させる。彼自身が続こうとした、その時だった。


ガチャリ、と。

霊安室の表扉の錠に、鍵が差し込まれる音が響いた。


万事休すか――。

血の気が引く感覚の中、リュークは最後の力を振り絞って窓枠を乗り越え、地面に転がり落ちた。ほとんど同時に、霊安室の扉が開かれ、ランタンの光が室内を照らし出すのが見えた。

「異常なしか」

「ああ、静かなもんだ。死人が騒ぐわけもねえがな」

衛兵たちの呑気な会話が、すぐそこから聞こえてくる。三人は息を潜め、教会の壁の闇に身を隠し、彼らが去っていくのを待つしかなかった。心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に響いていた。


『証拠:次なる壁』


衛兵が完全に立ち去った後、三人は再び鐘楼の小部屋に集まっていた。誰一人、口を開く者はいなかった。死の淵を覗き込んだような極度の緊張と、それを乗り越えた安堵感が、三人を支配していた。


やがて、沈黙を破ったのはリュークだった。彼は革ポーチから、紅く染まった試薬の入ったガラス皿と、胃の内容物が入った瓶を取り出し、テーブルの上に置いた。

「……証拠は、手に入れた」

その言葉に、ベンとエリーゼは顔を上げる。その表情には、危険な橋を渡り切った者だけが共有できる、特別な連帯感が浮かんでいた。


「やったんですね、旦那……本当に、神託を覆す証拠を……」

ベンの声が、興奮に震えている。

エリーゼも、目の前の小さなガラス皿を見つめ、ゴクリと唾を飲んだ。これが、真実の欠片。


だが、リュークの表情は厳しかった。

彼は窓の外、闇の中にそびえ立つ王城と教会の尖塔を見つめながら言った。


「ああ。だが、本当の戦いはここからだ」

「……どういうことです?」

「この証拠を、誰が認める? 教会の権威に逆らい、神託を否定すれば、我々は殺人犯より先に、異端者として裁かれることになる。物証はあっても、それを突きつける『舞台』がない」


リュークの言葉に、二人はハッとした。

そうだ。最大の禁忌を犯して手に入れたこの証拠も、今のままでは何の意味もなさない。ただの冒涜の痕跡でしかない。

偽りの神託という、巨大で、絶対的な壁。

それをどう打ち破るのか。


三人の前には、次なる、そしてより困難な問題が、重く横たわっていた。

ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。

次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です

活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。

作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/

Xアカウント:@tukimatirefrain

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。