第5話:冒涜のメス
『潜入:静寂の霊安室』
月が雲に隠れ、王都ルミナーレが深い闇に沈む頃、三つの影がルミナ統一教会の裏手に集った。昼間の荘厳さとは打って変わり、夜の教会は近寄りがたいほどの静寂と威圧感を放っている。
「……警備の交代まで、あと半刻(約一時間)。巡回は二人一組、この裏口を通るのは一回きりだ。チャンスはその直後しかない」
ベンが、壁の闇に溶け込みながら囁く。その手には、自作と思しき数本の針金が握られていた。彼は音もなく霊安室の古い錠前にそれを差し込むと、神経を集中させ、内部の構造を探り始めた。カチリ、と微かな金属音が響き、重い扉がわずかに開く。その手際の良さは、彼がくぐり抜けてきた修羅場の数を物語っていた。
リュークとエリーゼは、息を殺してその様子を見守る。エリーゼは、薬学研究室から持ち出したメスやピンセット、そしていくつかの薬品が入った革のポーチを、胸に抱きしめていた。その顔は緊張で青白かったが、瞳の奥には恐怖に打ち勝つ強い意志が灯っている。
「――開いた。五分だ。五分で全てを終わらせるぜ、旦那」
ベンの合図で、三人は滑るように霊安室の中へと侵入した。ひやりとした空気が肌を刺し、防腐効果のある薬草と死の匂いが混じり合った、独特の香りが鼻をつく。
部屋の中央には、白い布を被せられた台が一つ。その上に、グレゴリー・フォン・アッシェンバッハ男爵は静かに横たわっていた。
『解剖:法医学者の聖域』
「ベンは外で見張りを。どんな些細な変化でもいい、すぐに知らせてくれ」
「任せな」
ベンが再び闇に溶け、リュークはエリーゼと共に遺体へと向き直った。ランタンの灯りを最小限に絞り、白い布をゆっくりと捲る。現れた男爵の顔は、安らかとは程遠い、苦悶の表情を浮かべたままだった。
「……始めるぞ」
リュークの声は、揺るぎないほどに落ち着いていた。彼はエリーゼからメスを受け取ると、その冷たい感触を確かめるように一瞬だけ握りしめる。それは、法医学者・田中雄一であった頃の、彼の身体の一部とも言える道具だった。
この世界では『冒涜』とされる行為。だが、リュークにとって、これから始まるのは死者との『対話』であり、真実を求めるための神聖な儀式に他ならなかった。
「エリーゼ、胃の内容物を採取するためのガラス瓶と、触媒反応を調べるための試薬を準備してくれ」
「は、はい!」
エリーゼは緊張で震える指を叱咤し、手早く準備を整える。リュークの淀みない動きと、遺体に対する敬意さえ感じられる真摯な態度に、彼女はいつしか恐怖を忘れ、引き込まれていた。
リュークのメスが、躊躇なく男爵の腹部を切り開いていく。最小限の切開で、的確に胃へと到達する。その手付きは、まるで熟練の外科医のようだった。彼はピンセットを使い、胃の内容物を慎重にガラス瓶へと移していく。
(ワインの残留物、そして消化されかかった晩餐会の食事……間違いない、月雫草の成分が残留している)
リュークの脳裏で、前世の知識とこの世界の植物学が結びつき、解析が進んでいく。そして、彼は胃の粘膜に、微かな黒い粒子が付着しているのを発見した。
「エリーゼ、例の試薬を」
リュークは黒い粒子を慎重に採取し、別のガラス皿に移した。エリーゼが差し出した無色透明の液体を、その上から一滴だけ垂らす。
次の瞬間、二人は息を呑んだ。
液体に触れた黒い粒子が、一瞬にして鮮やかな『紅』に変化したのだ。
「……間違いない。これが『イグニスの涙』。これが、男爵が服用していた月雫草と反応し、猛毒を生成したんだ」
それは、揺るがすことのできない『物証』だった。偽りの神託を覆す、唯一にして絶対の真実。
「やった……」
安堵の息を漏らしたエリーゼ。だが、その声は、扉の外から聞こえた硬い音にかき消された。
――コツン。
遠くから響く、靴音。そして、衛兵たちの話し声。
巡回の兵士が、予定より早く戻ってきたのだ。
『脱出:一秒の攻防』
「まずい、しまえ!」
リュークは叫ぶと同時に、切開した腹部を素早く縫合し、遺体に布を被せた。エリーゼはパニックになりながらも、器具と証拠の瓶を革ポーチに叩き込む。
「旦那、裏だ! こっちへ!」
外で待っていたベンが、切羽詰まった声で手招きをする。霊安室の裏手には、小さな窓が一つだけあった。
リュークはエリーゼの背中を押し、窓から外へ脱出させる。彼自身が続こうとした、その時だった。
ガチャリ、と。
霊安室の表扉の錠に、鍵が差し込まれる音が響いた。
万事休すか――。
血の気が引く感覚の中、リュークは最後の力を振り絞って窓枠を乗り越え、地面に転がり落ちた。ほとんど同時に、霊安室の扉が開かれ、ランタンの光が室内を照らし出すのが見えた。
「異常なしか」
「ああ、静かなもんだ。死人が騒ぐわけもねえがな」
衛兵たちの呑気な会話が、すぐそこから聞こえてくる。三人は息を潜め、教会の壁の闇に身を隠し、彼らが去っていくのを待つしかなかった。心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳に響いていた。
『証拠:次なる壁』
衛兵が完全に立ち去った後、三人は再び鐘楼の小部屋に集まっていた。誰一人、口を開く者はいなかった。死の淵を覗き込んだような極度の緊張と、それを乗り越えた安堵感が、三人を支配していた。
やがて、沈黙を破ったのはリュークだった。彼は革ポーチから、紅く染まった試薬の入ったガラス皿と、胃の内容物が入った瓶を取り出し、テーブルの上に置いた。
「……証拠は、手に入れた」
その言葉に、ベンとエリーゼは顔を上げる。その表情には、危険な橋を渡り切った者だけが共有できる、特別な連帯感が浮かんでいた。
「やったんですね、旦那……本当に、神託を覆す証拠を……」
ベンの声が、興奮に震えている。
エリーゼも、目の前の小さなガラス皿を見つめ、ゴクリと唾を飲んだ。これが、真実の欠片。
だが、リュークの表情は厳しかった。
彼は窓の外、闇の中にそびえ立つ王城と教会の尖塔を見つめながら言った。
「ああ。だが、本当の戦いはここからだ」
「……どういうことです?」
「この証拠を、誰が認める? 教会の権威に逆らい、神託を否定すれば、我々は殺人犯より先に、異端者として裁かれることになる。物証はあっても、それを突きつける『舞台』がない」
リュークの言葉に、二人はハッとした。
そうだ。最大の禁忌を犯して手に入れたこの証拠も、今のままでは何の意味もなさない。ただの冒涜の痕跡でしかない。
偽りの神託という、巨大で、絶対的な壁。
それをどう打ち破るのか。
三人の前には、次なる、そしてより困難な問題が、重く横たわっていた。
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