第3話:偽りの神託
『現場:沈黙の観察者』
悲鳴が聖歌のようにホールに響き渡り、秩序は雪崩を打って崩壊した。
数秒前まで陽気な喧騒に満ちていた空間は、恐怖と混乱に支配されている。人々は波が引くように後ずさり、その中心にぽっかりと生まれた空白地帯に、グレゴリー・フォン・アッシェンバッハ男爵の亡骸が横たわっていた。
だが、リュークだけは動かなかった。
彼は群衆の縁から、冷徹な法医学者の目で、その一点を凝視し続けていた。パニックは思考を麻痺させるが、死体は常に冷静に真実を語り始める。それが、田中雄一としての彼が、骨の髄まで叩き込んだ鉄則だった。
(発症から絶命まで、約三十秒。極めて即効性の高い毒物か……)
男爵の遺体は、まだ微かに痙攣を続けている。その指先は紫色に変色し、唇にはチアノーゼ特有の暗紫色が浮かんでいた。喉を掻きむしったような仕草、そして硬直の速さ。それらは全て、心臓発作などという曖昧なものではなく、強力な毒物による中毒症状を示唆していた。
リュークの視線が、床に転がる銀のゴブレットへと移る。中には赤ワインが少量残っていた。口論の直後、男爵がこれを呷した。毒物は、ほぼ間違いなくこの中に。
次に、彼は周囲の人間へと観察の対象を広げる。悲鳴を上げる令嬢、狼狽する貴族たち。その中で、男爵の弟――ライナルトと名乗っていたか――は、顔面蒼白で兄の亡骸を見つめ、わなわなと震えている。それは、兄を失った悲しみか、それとも別の感情か。
(今は、情報を集めるしかない)
この世界に、現場保存という概念はない。すぐに衛兵や神官が来て、すべてを搔き乱してしまうだろう。リュークは、目に映るすべての情報を、網膜に焼き付けるように記憶していく。床の染み、ゴブレットの位置、周囲の人々の表情、そして、誰にも気づかれずにその場をそっと離れようとする、一人の給仕の姿まで。
すべてが、パズルのピースだった。
『神託:権威という名の幕引き』
やがて、アカデミアの衛兵が駆けつけ、騒ぎは何とか鎮静化された。そして、物々しい雰囲気の中、一人の壮年の男性が、数人の供を連れてホールに入ってきた。
純白の祭服に身を包み、胸にはルミナ統一教会の紋章が金糸で縫い取られている。彼こそが、死因を裁定する権限を持つ神官だった。
「静粛に! これより、神聖なる『神託の儀』を執り行う!」
神官の張りのある声が響くと、あれほど騒がしかったホールが水を打ったように静まり返る。人々は畏怖と敬虔の念を込めて頭を垂れた。
神官は男爵の遺体の傍らに跪くと、目を閉じ、何事か祈りの言葉を呟き始めた。その手には、不思議な光を放つ水晶が握られている。儀式は、およそ十分ほど続いただろうか。
やがて、ゆっくりと目を開けた神官は、厳かに立ち上がると、集まった人々に向かって宣告した。
「――神託は下された。グレゴリー・フォン・アッシェンバッハ男爵は、生来患っていた心臓の疾により、神の御許へ召されたのである! これぞ、神の御心!」
その言葉が、すべての結論だった。
周囲からは、「やはりそうであったか」「お気の毒に」といった声が漏れ聞こえる。誰も、その『神託』を疑わない。教会の権威は、この国では絶対なのだ。
弟のライナルトは、その場で泣き崩れた。衛兵たちは手際よく遺体を運び出し、人々は何事もなかったかのように、あるいは何かを忘れたいかのように、ざわめきながらホールを後にしていく。
事件は、あまりにもあっけなく『事故』として処理された。
だが、リュークの脳裏では、男爵の示した典型的な中毒症状と、神官が下した『心臓発作』という診断が、激しい不協和音を奏でていた。
『疑惑の種:二人の協力者』
自室に戻ったリュークは、一人、思考に耽っていた。
『偽りの神託』――それを覆すには、証拠が必要だ。科学的な根拠に基づいた、誰にも否定できない証拠が。だが、自分には何の権限もない。死体を調べることも、関係者に話を聞くことも許されないだろう。
(手足が必要だ。この王都の、裏と表に通じる手足が)
彼の脳裏に浮かんだのは、あの人懐っこい笑顔の少年だった。
リュークはすぐに行動を起こした。寮の廊下で備品の整理をしていたベンを見つけ、声をかける。
「ベン、頼みがある。もちろん、相応の報酬は払う」
金の匂いを嗅ぎつけたのか、ベンの目が好奇心にきらめいた。「なんでしょう、旦那?」
「アッシェンバッハ家の兄弟について、調べてほしい。彼らの評判、人間関係、金銭問題……どんな些細な情報でもいい」
リュークは銀貨を数枚、ベンの手に握らせた。少年の目は驚きに見開かれたが、すぐにプロの顔つきに戻り、銀貨を懐にしまい込んだ。
「……承知しました。その兄弟、晩餐会で揉めてましたね。面白くなりそうだ」
ベンは口の端を吊り上げると、雑踏の中に消えていった。
次に向かったのは、薬学研究室だった。昼間に出会った少女、エリーゼなら、何かを知っているかもしれない。そんな予感があった。
研究室の扉を叩くと、中から現れたエリーゼは、リュークの姿を見て怪訝な顔をした。
「ヴァルハイム様……何か?」
「ハートウェルさん、少しだけ時間をいただきたい。アッシェンバッハ男爵のことだ」
男爵の名を聞いた瞬間、エリーゼの表情が微かに曇ったのを、リュークは見逃さなかった。
「……神託では、心臓の病だと」
「君は、それを信じるか?」
リュークのまっすぐな問いに、エリーゼは言葉を詰まらせた。彼女はしばらく躊躇った後、意を決したように口を開いた。
「信じません。男爵は……数日前、この研究室を訪れました。心臓に効くという、高価な薬草を求めて。ですが、あの方の様子は、とても重い心臓病を患っているようには見えませんでした。むしろ……」
「むしろ?」
「……誰かに、毒を盛られるのを酷く恐れているようでした」
エリーゼの言葉は、リュークの仮説に、決定的な裏付けを与えた。
心臓病は偽り。毒殺を恐れていた男爵が、その毒で殺された。
『仮説:見えざる凶器』
寮に戻る道すがら、リュークの頭脳は高速で回転していた。
エリーゼから聞き出した薬草の名は『月雫草』。それ自体は強心作用を持つだけで、毒性はない。だが、前世の知識が警鐘を鳴らしていた。特定の化合物と結びついた時、ある種の植物は、その性質を劇的に変化させることがある。
(もし、あのワインに、月雫草と反応する『何か』が仕込まれていたとしたら……)
それが、即効性の青酸系毒物を生成する触媒だとしたら?
すべてが繋がる。口論で相手の注意を惹きつけ、その隙にワインへ触媒を投入する。ターゲットが自ら持つ『薬』を飲めば、それが体内で毒へと変わり、死に至る。これならば、毒物を直接盛るリスクを冒さずに、完璧な殺人計画が成立する。
だが、これはまだ仮説に過ぎない。
それを証明するには、男爵の遺体から胃の内容物を採取し、分析する必要がある。神聖な遺体にメスを入れるなど、この世界では冒涜以外の何物でもない。
「どうすれば……」
リュークは、そびえ立つ教会の権威と、法医学者としての探求心との間で、再び己の無力さを痛感していた。
しかし、彼のサファイアの瞳の奥では、すでに次の一手を模索する、冷徹な光が揺らめいていた。
偽りの神託を暴くための戦いは、今、静かに始まったのだ。
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