第1話:死体と沈黙
『序章:雨中の執念』
降りしきる雨が、アスファルトを黒く染め上げていた。
ワイパーが性急にフロントガラスを往復し、滲むネオンを掻き消す。法医学者、田中雄一は、硬直した指でハンドルを握りしめていた。助手席には、日本の政財界を根底から揺るがす『未解決連続毒殺事件』の、核心に繋がる証拠品の分析データ。あと数時間もすれば、すべてが白日の下に晒されるはずだった。
(……見つけたぞ、お前たちの尻尾を)
脳裏に浮かぶのは、複雑な有機化合物の分子構造式。そして、それを利用した巨大組織の紋章。パズルの最後のピースがはまった瞬間の、あの脳が焼けるような高揚感が、まだ全身を支配していた。だが同時に、背後から迫る得体の知れない圧力も感じていた。彼らは、決して尻尾を掴ませるような間抜けな集団ではない。
その予感は、交差点に差し掛かった瞬間に現実のものとなった。
「――っ!?」
赤信号で停車しようとブレーキペダルを踏み込んだ足が、すかりと床を叩く。血の気が引く感覚と同時に、けたたましいクラクションが背後から響いた。サイドミラーに映ったのは、猛スピードで迫る大型トラックのヘッドライト。偶然を装うには、あまりにも完璧なタイミングだった。
(やられたか……!)
すべてを悟った時には、もはや回避する術はない。
衝撃。
世界が砕け散るような轟音とともに、雄一の意識は闇へと引きずり込まれていく。ガラスの破片がスローモーションで舞い、雨粒と血が混じり合う。薄れゆく視界の中、彼はただ一点、脳裏に焼き付いて離れない「証拠」のイメージを、必死に繋ぎ止めようとしていた。
――死体は嘘をつかない。それを証明するために。
それが、法医学者・田中雄一の、最後の執念だった。
『覚醒:静寂の器』
深い、深い闇の底から意識が浮上する。
死の瞬間の衝撃と絶望が嘘だったかのように、身体は驚くほど穏やかな状態にあった。柔らかな羽根布団の感触、微かに香る高価そうな香油、そして天蓋から吊るされた薄絹のドレープカーテンが、朝の光を優しく濾過している。
(……どこだ、ここは)
状況が理解できない。事故に遭ったはずだ。集中治療室か? だとしても、この中世ヨーロッパの城郭を思わせるような豪奢な内装は説明がつかない。身体を起こそうとして、雄一はさらなる違和感に襲われた。
(軽い……体が、妙に軽い)
見下ろした自分の手は、日に焼けていないどころか、驚くほど白く、細く、しなやかだった。法医学者として、数えきれない死体と向き合ってきた彼の知る、どの肉体とも違う。慌ててベッドから転がり落ちるようにして、部屋の隅に置かれた姿見へと駆け寄った。
そして、絶句した。
鏡に映っていたのは、田中雄一ではなかった。
艶やかな金糸の髪、サファイアを嵌め込んだかのような碧眼、そしてまだ少年期のあどけなさを残しながらも、気品と憂いを同時に湛えた、見知らぬ美貌の青年。歳は、十八といったところか。
「誰だ……」
掠れた声が、鏡の中の唇から零れ落ちる。それは紛れもなく自分の声のはずなのに、耳に届く音色は自分の知るものより一段高く、若々しい。
その時、奔流のように記憶が流れ込んできた。田中雄一としての三十五年間の人生。そして、断片的で、霧がかかったような、この「リューク・フォン・ヴァルハイム」という名の少年の十八年間の記憶。
アルデリア王国。ヴァルハイム公爵家。魔力。
意味をなさない単語の羅列が、彼の精神を激しく揺さぶる。
『出来損ない』――冷たい声が記憶の底から響き、心臓が凍るような感覚に襲われる。それは、この肉体の持ち主であるリュークが、彼の家族から投げつけられた言葉。この世界では、貴族の価値は魔力の有無と量で決まる。そして、名門ヴァルハイム公爵家に生まれながら、リュークは魔力を一切持たなかった。
「リューク坊ちゃま、朝のお支度でございます」
扉の外から、感情の抑揚がない侍女の声がする。混乱の極致にある頭で、雄一――いや、今はリュークとなった彼は、かろうじて「入れ」とだけ答えた。入ってきた侍女は、彼が床に座り込んでいるのを見ても特に表情を変えず、淡々と衣服の準備を始める。だが、その目が一瞬だけ、憐憫とも諦めともつかない色を宿して揺らいだのを、雄一は見逃さなかった。すぐに完璧な無表情に戻ったその横顔は、この家における彼の立場を、より雄弁に物語っていた。
『新たな環境:ガラスの隔たり』
着替えを済ませたリュークは、重い足取りで父親の待つ書斎へと向かった。
ヴァルハイム公爵、ゲオルグ・フォン・ヴァルハイム。鉄灰色の髪を厳格に撫でつけ、一切の情を排した冷たい瞳を持つ男。リュークの記憶の中でも、その瞳が自分に向けられることは稀だった。彼は常に、書物か、二人の兄か、あるいは窓の外の遠い景色を見ている。
「来たか」
巨大な黒檀のデスクの向こうで、ゲオルグは書類から目を上げずに言った。その声には、何の感情も乗っていない。ただの事実確認。
「お呼びと伺いました、父上」
リュークの口から、自然とこの世界の作法に則った言葉が出る。身体に染みついた習慣とは、恐ろしいものだ。
「うむ。貴様の今後についてだ」ゲオルグはペンを置くと、指を組んでリュークを見た。だが、その視線はどこか焦点が合っておらず、まるで息子を通り越して壁の染みを見ているかのようだった。「王都ルミナーレにある王立アカデミアへ留学してもらう。法学院だ」
「……法学院、ですか」
「魔力を持たぬ者に、ヴァルハイムの名を継がせることはできん。……それは、分かるな?」
その問いは、同意を求めるものではなく、決定事項の最終通告だった。ゲオルグは続ける。「アカデミアで何がしかの知識でも身につけ、どこぞの役人になるがいい。それが、お前が家に貢献できる道だ。異論はあるまい」
それは、厄介払い以外の何物でもなかった。優秀で魔力に満ちた二人の兄とは違い、三男のリュークは、もはや家族という枠組みの中にすらいない。ただ、家の体面を汚さないように、遠くへ追いやられるだけの存在。
リュークの中にいる田中雄一の理性が、この状況を冷静に分析していた。だが、リューク自身の心は、父親のガラスのような無関心に深く傷つき、震えていた。疎外感、無力感、そして絶望。十八歳の少年が抱えるには、あまりにも重い感情の渦が、彼を飲み込もうとしていた。
「……謹んで、お受けいたします」
抵抗は、無意味だった。
書斎を退出するリュークの背中に、父親の関心はもはや向けられていなかった。デスクに戻った彼は、再び書類に視線を落としていた。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
『旅立ちの決意:死者の声』
自室に戻ったリュークは、窓辺に立ち、広大なヴァルハイム公爵家の庭園をぼんやりと眺めていた。数日前まで、自分は田中雄一として、日本の片隅で死体の声に耳を傾けていた。それが今や、魔力がすべての異世界で、能無しの公爵子息として生きている。
(これから、どうすればいい……)
田中雄一としての人生は、志半ばで理不尽に断ち切られた。あの事件の真相を暴くことも、犯人を裁くことも、もう叶わない。かといって、このリューク・フォン・ヴァルハイムとしての人生に、希望など見出せるだろうか。家族にすら存在を無視され、ただ息を潜めて生きていくだけの未来。
その時だった。
脳裏に、死の間際に見た光景と、この世界に来てから感じた冷たい絶望が、奇妙に重なり合った。
(……そうだ、知識だけは)
自分が失ったものは多い。だが、得たものもある。それは、リューク・フォン・ヴァルハイムという若く健康な肉体と、貴族という身分。そして何より、田中雄一が三十五年かけて培った、法医学という膨大な知識と経験。
この世界では、死因は教会の神官が下す「神託」によって決定されるという。科学的な根拠など、そこには一切存在しない。もし、誰かが毒殺されても、それが「神のお召しによる突然死」とされれば、誰も疑いを持たない世界。
(……死体は、ここでも沈黙しているのか)
それは、殺された者たちの声が、権威や因習によって握り潰されているということだ。前世で自分が追い続けたものと、何ら変わりはない。
「……面白い」
リュークの唇から、乾いた笑みが漏れた。それは、自嘲と、そして燻っていた探求心に再び火が灯った音だった。
厄介払いの留学? 上等だ。
法学院? 願ってもない。
このアルデリア王国で、前世の知識がどこまで通用するのか。そして、「出来損ない」と蔑まれたこの自分が、何者になれるのか。
失われた人生を嘆くのはもうやめだ。
これは、第二の人生などではない。断ち切られた、法医学者・田中雄一の人生の続きだ。
数日後、王都ルミナーレへと向かう馬車に揺られながら、リュークは遠ざかっていくヴァルハイムの城を、静かに見送っていた。そのサファイアの瞳には、かつての憂いの色は消え、冷徹な理性の光と、未知なる謎への探求心が宿っていた。
彼の胸には、一つの問いが渦巻いていた。
――この世界で、俺は、何人の「死者の声」を聴くことになるのだろうか。
物語は、静かに幕を開けた。
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