第7話『サムスンのユニフォームを纏って』
斗山ベアーズでの2年間。安川傑は韓国野球の激しさ、温かさ、そして人間のつながりの深さを知った。
だが――さらなる挑戦を求めて、傑は新天地を選んだ。
韓国・大邱に本拠地を構えるもうひとつの名門球団――
三星ライオンズ。
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「ようこそ、スグル。サムスンへ」
白と青の新たなユニフォームを手渡された瞬間、傑の胸に熱が灯った。
斗山とはまた違う、“静かなる王者”の雰囲気がそこにはあった。
キャンプ初日。
ストレッチ中に声をかけてきた一人の男に、傑は思わず動きを止めた。
「안녕하세요, 오승환입니다(こんにちは、呉昇桓〈オ・スンファン〉です)」
かつての守護神。KBO歴代最多セーブ記録保持者。
そして、傑がかつてプレーした阪神タイガースで、同じ時代を駆けたレジェンドの姿がそこにあった。
「……オ・スンファンさん。あの頃、僕は阪神でプレーしてました。少しだけですけど」
「진짜? 와, 반갑네(本当? わぁ、嬉しいな)」
にっこり笑った呉昇桓は、韓国語で続けた。
「한신에서 같이 뛴 적은 없지만, 나도 일본에서 많은 걸 배웠어.(阪神で一緒にプレーしたわけじゃないが、俺も日本では多くを学んだ)」
「僕も、阪神がプロの世界の厳しさを教えてくれました」
「그럼 우리 둘 다 한신 출신이네. 이상하게 반가운 인연이야(じゃあ俺たち、阪神出身同士だな。不思議な縁だ)」
ふと笑い合った二人。そのやりとりを、周囲の若手選手たちは驚きと羨望の眼差しで見つめていた。
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三星のベンチには、他にも実力者たちが顔を揃えていた。
•若きエース右腕、元兌仁
•長打力が売りの外野手、金宰煥
•技巧派左腕、李承鎬
•日本でも知られる助っ人OB、ライアン・サドウスキー(引退後コーチ)
•キャッチャー陣の中心、姜民鎬
「このチーム、すごく安定してる」
と、傑は練習後、妻・成旼に語った。
「斗山は熱、三星は土台。両方経験できるのは幸せかもな」
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そして春。
成旼の妊娠が判明した。
「……私たちの赤ちゃん、だよ」
成旼は傑の手を取り、そっとお腹をなでた。
「信じられない……父親に、なるんだな」
嬉しさよりも、責任の重さが先に来た。
「스구루씨는 최고의 아빠가 될 거예요(傑さんは、最高のお父さんになるよ)」
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妊娠中も、傑は毎日、球場から成旼に電話を入れた。
「今日も投げたよ。スライダー、完璧だった」
「赤ちゃんも喜んでるよ、たぶん」
やがて迎えた7月――
三星のホームスタジアム、大邱ライオンズパークにて先発登板。
その日は、偶然にも出産予定日の前日だった。
傑は完封勝利を挙げ、球団からヒーローインタビューを受けた。
「오늘의 승리는……우리 딸을 위해서입니다!(今日の勝利は、娘のためです!)」
観客から、拍手が沸き上がる。
その夜――
傑の携帯に着信が入った。
『傑さん……生まれたよ。女の子。名前は――霧亜』
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それからの傑は、投手として、そして父親としての人生を駆け抜けた。
朝は娘のオムツ替え、昼はストレッチ、夜は絵本の読み聞かせ。
「夜泣き対応」と「ブルペン入り」を両立するプロ野球選手など、ほとんどいなかった。
チームメイトの姜民鎬が笑って言った。
「너 요즘 피곤해 보여(お前、最近すごく疲れてるな)」
「하긴, 애 키우는 아빠니까(そりゃそうだ、育児中の父親だしな)」
「……だけど、俺は父になって、ようやく“プロ”になれた気がする」
傑はそう呟いた。
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シーズン終盤。三星ライオンズはプレーオフ進出を果たす。
そして傑は“ベストファーザー賞”として、KBO初の【家庭貢献部門】を受賞した。
表彰台に立った彼が、静かに語った。
「韓国に来て、野球だけじゃない“人生のプレー”を学びました。家族の応援こそ、僕の最大の支えです」
客席には、抱っこ紐に包まれた霧亜と、微笑む成旼の姿。
彼の視線は、家族に向けてそっと届けられた。